第54回
聞くは気づくの入口
2023.04.09更新
今朝、ウグイスの鳴き声で目が覚めた。「ホーホケキョ」と、お馴染みのさえずりに癒されながら起きる朝、いま僕は由布院の『束ノ間』という温泉宿にいて、しばし、のんびりとさせてもらっている。ここ『束ノ間』のオーナーである堀江さんとは、昨年知り合ったばかりなのだけれど、その考え方や振る舞いにずいぶん惚れ込んでしまい、以来、短い期間ながら何度か訪れている。今回は無理を言って、いつもより長く1週間ほど滞在させてもらうことになった。そんな朝、僕はウグイスの声で目を覚ました。
神戸港からフェリーに乗って昨日の朝早くに大分港までやってきた僕は、そこからバスに乗り換えて、ひとまず大分駅に到着。大分県には何度も訪れているけれど、意外にも大分駅に来るのは初めてで、その立派さに圧倒された。フェリーの着港があまりに早朝だったので、モーニングでも食べて時間をつぶそうと思ったものの、まだどこも開いておらず、7時になってようやく開いた某カフェチェーンにほぼ一番乗りで入店した。
お気に入りのチーズトーストとアイスコーヒーを頼んだ僕は、電源のある席に座り、フェリー乗船中に溜まったメールやメッセージの返信をしていた。しかしその間ずっと、背後から聞こえる高らかな声が僕の背筋を障っていた。その声の主は、次々とやってくる客の注文に対応するカフェ店員。ベテラン感ただようその女性は、お客さんの注文の語尾を最後まで聞くことなく、常に食い気味に注文を繰り返している。そうやって1人、また1人と処理する度に、「おうかがいします。どうぞ〜」と、それもまた食い気味に唄い、その機械的な対応に、AI化した未来を見るような、どこかSF的な気分になった。
きっと彼女は彼女なりに、朝のラッシュ時のお客さんにストレスを与えないよう、できるだけ時間をかけず効率よく注文を処理する努力をしているのだろう。そんな彼女のプロ意識の現れであることはわかるのだけれど、滑舌良く、タンッタンッタンッと弾けるように放つその声と振る舞いに、彼女自身の陶酔を感じてしまって、とても大事なものが置き去りにされているような気持ちになって辛かった。たまらず僕は、「高らかなさえずりが、障る。」と題してその場で自分の気持ちをブログにしたためたほどだ。だからこそ今朝、ウグイスのナチュラルなさえずりに、僕は思いのほか癒された。
ちなみにウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのは、雄による雌への求愛行動や、縄張りを守る際の声だと言われている。そう思えば、昨日のカフェ店員の声を鳥が鳴いているように表現したことは、あながち間違いじゃなかったかもしれない。求愛行動とは言わないけれど、自身の優秀さを伝え、自分の位置を守ろうという必死な鳴き声であることは確かだった。けれどそう考えた途端、僕はなんだかとても寂しい思いになった。きっと彼女がお客さんの声を聞けなくなってしまったのは、彼女の声を聞いてもらえなかったからに違いない。客の方こそが彼女をカフェチェーンの一スタッフというアイコンのもと、まるでAIロボットか何かのように接してきたことの結果が彼女のふるまいなんじゃないか。
今回僕が由布院でしばしの休息をいただいているのは、10年以上通い続けた、秋田県にかほ市の仕事に、ひとつの区切りがついたからだった。コロナ禍になってからの約3年間、正直、思うようなことがやれず、悶々とした日々を過ごし、悔しい思いを蓄積させてしまっていた僕は、ついににかほ市の仕事から距離を取ることになったけれど、ある意味でそれは、僕が自分の辛さを聞いてもらうことをしなかったからじゃないかと思う。聞いてもらえなかったのではなく、僕が聞いてもらおうとしなかったからじゃないかと。その結果、僕は逆に、さまざまな声を聞くことができなくなっていたのかもしれない。
実は大分までのフェリーのなかで僕はこんな一冊を読んでいた。
『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)。
そこにこんな一文があった。
あなたが話を聞けないのは、あなたの話を聞いてもらっていないからです。心が追い詰められ、脅かされているときには、僕らは人の話を聞けません。
ですから、聞いてもらう必要がある。
話を聞けなくなっているのには事情があること、耳を塞ぎたくなるだけのさまざまな経緯があったこと、あなたにはあなたのストーリーがあったこと。
そういうことを聞いてもらえたときにのみ、僕らの心に他者のストーリーを置いておくためのスペースが生まれます。ーー『聞く技術 聞いてもらう技術』東畑開人
ああ、なんてことだ。編集者の仕事は「聞く」ことからしか始まらないのに・・・。「聞けない」編集者に編集なんてできるわけがない。「きく」はいつだって「きづく」の入口。カフェで聞いたさえずりに気づき、ウグイスのさえずりを聞いて僕は目が醒めた。