第73回
「どっぷり高知旅」から考える、旅の編集。
2024.11.07更新
高知県が「どっぷり高知旅」という観光キャンペーンをスタートさせている。ホームページを覗いてみると「少しだけのつもりが、気づけば。」というコピーとともに、清々しい自然の風景写真と、どっぷり高知を深く味わうための観光プランがいくつも並んでいて、なかなかに意欲的。高知に限らず、多くの地方で人口減少が進むなか、コロナ禍の影響もあって、どこに行っても交流人口、関係人口、インバウンド需要が叫ばれてひさしいが、そういう意味ではみな、我が街でどっぷり旅をしてもらいたいという気持ちは強いだろうから、高知県のこのキャンペーンは今の時代を象徴しているように思う。
先日、この「どっぷり高知旅」に関連して、高知県にお呼ばれして高知に行ってきた。昨年「かみきこうち」という本を企画編集させてもらい、高知が舞台となったNHKの朝ドラ「らんまん」の主役を務めた神木隆之介くんと一緒に、東西に広い県内を駆け回ったこともあり、僕にとって高知はとても思入れの強い土地。しかしあらためて、どっぷり旅の、「どっぷり」という言葉が指すものの解像度を上げてみようと思うと、なかなかに難しい。
泊まった宿のオーナーがとても素敵なひとだったとか、ある祭りに出くわしてその魅力に取り憑かれたとか、ふらり入った店の料理があまりに美味しかったとか、その土地にどっぷりと嵌まっていく理由はひとそれぞれ。それはあまりに偶然の要素が強く、観光客や旅人それぞれの趣味嗜好や思想に依るところも大きいから、やっぱりもって旅を編集するという視点で「どっぷり旅」を考えた時、いかにたくさんの入り口を作れるかに尽きるなあと思う。
そういう意味では、ここからさらに魅力的な旅プランを増やし、サイトにもそれらがたくさん並んでいく姿をつくろうとしている高知県の方向性は間違っていないと思う。ただ、そうなったときにぶつかる壁は、いったいどこに行けばよいのか、どの旅を選ぶとよいのか、その根拠を見失ってしまうことかもしれない。
人間は選択肢が増えるほどに戸惑う。迷えば迷うほど面倒になるし、しまいには、考えることを放棄してしまって、高知旅自体をやめてしまうことだってあるかもしれない。
もう十数年前の話だが、新宿の伊勢丹で催事のお仕事をさせてもらった際に、当時の販促部長さんから、近くにある紀伊國屋書店の児童書フロア全体の児童書の売り上げと、伊勢丹の子供服売り場にある小さな絵本売り場の絵本の1年間の売り上げを比べたとき、紀伊國屋よりも遥かに小さな伊勢丹の絵本コーナーの売り上げの方が高いと教えてもらって驚いたことがある。無限の選択肢から自らが選ぶという行為よりも、伊勢丹という老舗百貨店がある程度セレクトしてくれているものから選ぶ方が格段に楽だし、それがそのまま消費行動に移ったわかりやすい事例だ。
そうすると、ついつい、有名人やSNSのフォロワーが多いインフルエンサーなどにアテンドしてもらうことを考えがちだが、それすらも飽和状態ないま、キーとなるのは、「偶有性」にあるのではないかと僕は思う。
偶有性とは、「ある程度は予想できるけど予想できない部分もあること」「必然と偶然が混ざり合う状態」「半ば規則的で半ば偶然の出来事」「たまたまその時にその事物に生じている性質」「この世のすべてが、決して確かなものではないということ」といった言葉で説明されるもので、脳科学者の茂木健一郎さん曰く、脳はもともと、容易には予想できない要素が本質的な役割を果たすという「偶有性」を前提にその動作が設計されているという。
また、脳の若さを保つためには、脳の前頭葉を活性化してドーパミンをたくさん出すことが重要で、そもそもドーパミンが一番活性するのは、ある程度規則性があるけれどもある程度はランダムである、という偶有性の芸術的な配合にあるのだという。つまり、規則性とランダム性が入り混じった偶有性のある旅をしたときに、ドーパミンが活性され、人はその土地に、また、旅そのものに、どっぷりと嵌まっていくに違いないと思うのだ。
有名人やインフルエンサーのアテンドはどうしても聖地巡礼的になるので、それはそれで満足度は高いとは思うが、偶有性は感じにくいだろう。そこで提案したいのが、せっかくのどっぷり旅プランを、ランダムに提示してくれるルーレット的な仕組み。そんなものがホームページ実装されたら、いま現在の高知県の素晴らしい取り組みがさらに次のフェーズにいくのではないか。
ある程度のジャンル分け、もしくは地域分けくらいは選びつつも、最終的にはルーレットが旅の入り口を決めてくれるという偶有性が、一層、高知の旅を楽しいものにしてくれる。そんな旅をきっかけに、どっぷり高知に嵌まる人が増える。そんな未来を想像している。