第3回
那須さんとの永遠の本づくり
2022.08.26更新
ちいさいミシマ社から那須耕介『つたなさの方へ』が2022年8月31日刊行されます。那須さんは、昨年9月7日に53歳の若さでお亡くなりになられました。本書は、那須さんが京都新聞に連載されていた随筆をまとめたものです。そのご遺稿をなぜ、ちいさいミシマ社レーベルで出すことになったのか? 一般的には、那須さんとミシマ社にはなんのつながりもないように映っていると思われます。そこで、遺稿集を私たちが手がけることになった理由の一端が少しでもお伝えしたく、那須耕介さん追悼文集に寄稿した拙文に大幅改編したものをここに掲載いたします。
(ミシマ社・三島邦弘)
那須さんの葬儀の帰り、この一語が全身を貫いた。無念――。那須さんの思いに応えることができなかった。そのことを今さらながらに悔やんだ。
職業人としての己の無力をこれほど責めたのは後にも先にもない。
那須さんに初めてお会いしたのは、2015年1月15日。朝日新聞に掲載された那須さんのインタビューをミシマ社自由が丘オフィスで編集をしている星野が見つけ、連絡をとり、時間をいただいたのだった。お会いして早々に、「『先生』はやめてくださいね」とおっしゃった。以来、「那須さん」と呼ぶこととなる。
京大でお会いした翌週、那須さんからメールが届いた。
新刊書への関心が年々萎えていくような感じをもっていた自分にとって、このように本づくりの過程を楽しもうとしておられる方々とお会いできたのはたいへん仕合せなことと思いました。
帰宅後、つれあいからどうだった?と尋ねられ、うーん、まずはお友だちから、と答えて笑われました。
超スロースターターのわたしですので、実際に仕事になるものに着手するまで時間がかかってしまうかもしれませんが、それまでの過程も含め、長い目でおつきあいいただければありがたく存じます。
同時に、ミシマ社のサポーターにもなりたい、と言ってくださった。こうして、那須さんと私は、著者と編集者であるとともに、サポーターとサポートされる関係性にもなった。それからまもなくミシマ社の京都オフィスに来てくださり、お昼ご飯をご一緒した。メールの文面のとおり、私もゆっくり本づくりを進めていこう。そう思って臨んだ会食だったが、那須さんのほうから、静かな口調ながらも「ミシマ社から2冊出したい」と積極的に希望されたのは、意外でもあり嬉しくもあった。一冊は、100ページ前後で読める「コーヒーと一冊」というシリーズを同時期に始めたのだが、「こういうことですよね。素晴らしい取り組みやと思いました」と絶賛くださった。そして、「このシリーズから、専門の法理学の入門書のような本」を望まれたのだった。もう一つが、スタッズ・ターケル『仕事!』を念頭におきながら、「戦前生まれの先達の声を残したい。今残しておかないと取り返しがつかないことになる」というインタビュー本の提案があった。どちらも進めましょう、と即答したのは言うまでもない。
その後、たびたび会ってはお話をした。8月には、安保法案反対の動きを京大のなかで取っておられた藤原辰史さんと、偶然タイミングが重なり、ミシマ社で対面することになる。そのときベ平連を例に、藤原さんたちの抵抗のあり方を全面肯定されなかった。前提となる知識をもちあわせていない私は、その意味をすべて理解できなかった。那須さんの真意はどこにあったか? その問いは今も自分のなかで課題として残っている。
企画が具体的に動き出したのは翌年の初夏。おひとりに対し3、4時間のインタビューを、3人(組)の方々へおこなった。お一人は星野が同席し、おふた方は私が同席することになった。
三人目の方の取材日は2017年4月22日だった。おつれあいの運転で滋賀県草津市の信愛保育園へ向かった。那須さんが3歳から通った保育園の園長を務める奈良(宮田)先生ご夫妻へお話を聴くために。
お日様のさす、天気のいい日だった。ロードサイドの天丼屋さんで390円の天丼を食してから30分後には、開放的な草っ原が広がる空間に降り立つ。その瞬間、子どもにかえって走り回りたい衝動に駆られた。インタビューでは、敬愛する奈良ご夫妻との再会がよほど嬉しいのだろう、那須さんはいつになく口数が多かった。冒頭、現代の子育てが話題にのぼると、まるで草津についた直後の私の心中を汲んだかのような会話が交わされる。
那須:僕はいつも半分冗談、半分本気で言うんだけれども、やっぱり、よくね、大人が「子供はいいな」とかね、「子供の頃にもどりたいな」とかってよく言うんだけど。僕そういうの全然思わないんですよ。
奈良:ふふふっ。
那須:二重の意味があって。ひとつは、やっぱり結構大変だよ子供は、っていう気持ちが子供のときにものすごく強くあった覚えがあって。なんか言われたことあるんですよね、やっぱり。「子供はのんきでいい」とかいうふうに言われたのに対して、カチンときた覚えがはっきり。
奈良:なんとその頃から。意思は強固。とにかく意思は強固
この魅力あふれる対話は今、私の手元にあるテープ起こしの字数だけで6万3千字を超える。このデータをお送りしたのが、6月8日の夕刻。その二時間後、「私からは少し残念なご報告があります。」と書かれたメールが那須さんから届く。
自分でも今後の自分がどのようになっていくのかまだ見当がつかず、少なからず不安な状態ではありますが、さしあたり本企画は手放さずになんとか続けていきたいと考えています。
翌週の6月14日には、検査の日々を過ごしていると書かれた文面の中で、「私としては、ミシマ社企画は手放したくないと思っているので、スケジュールが見えてきた時点で、進め方について改めてご相談させて頂きたく思います。」と書籍化への意思をあらためて示された。
翌年2018年4月9日、嬉しいお知らせが来る。
ゆっくり体力の回復を図りつつも、少しずつ仕事にも本格的に復帰したいと思っています。(略)
まだ手元にあるのは3つのインタビューのテープ起こしだけですが、これを読み返して手を入れるところから始めます。
そのなかで自分がこの方々から何を受け取ろうとしていたのか、じわじわと反芻してみたいと思います。
ほっとすると同時に思った。ここで編集者のほうが焦ってはいけない。いっきに進めましょう、などと言って、負担をかけるようなことがないよう気をつけねば。そう自らに言い聞かせ、しばらくこちらからの連絡は控えるように心がけた。
確かにその通りだ。が、今は「本当にそうか」と自らを疑わずにはいられない。那須さんの体調を慮る、それを隠れ蓑に、編集者としての仕事を怠ったのではないか......。
2020年初春、なんとか形にしたい、と一言添えられた年賀状が届いた。それでもその後のコロナ禍での混乱に紛れ、連絡するタイミングを失してしまう。ときおり京都新聞で那須さんのコラム(*)を見つけては、お元気そうでよかった、と思った。そう思うことで安寧してしまっていた。
決して大声を出す人ではなかった。ただ、その訥々とした語りの中にしばし強烈な意志が宿るのを感じずにいられなかった。その中には、書籍化への想い、叫びに近い想いもあったはずだ。それを聞き逃した。受けきれなかった。これは私の編集人生において最大の失敗である。
せめて、これからの私が手がける本の中に、那須さんの意思の断片を少しずつでも注入していきたい。いつかその果てに那須さんの思いが結集したものが浮かび上がってくれれば......。いや、失敗に気を奪われ、未来の結果を気にする時点で、那須さんの意思をくんでいるとは言い難い。ここに那須さんがいたら、口に出さずとも、表情でこう語りかけてくれるのではないだろうか。「そんな力んでたらあかんで」、と。あるいは、「長い目で、と最初のメールで書いてたでしょ。気にせんでいいですよ」とおっしゃるだろうか。
三島邦弘(ミシマ社 編集者)
(*)・・・この連載をまとめたのが、本書『つたなさの方へ』(ちいさいミシマ社)です。
編集部からのお知らせ
8月新刊のお知らせ
ミシマ社を長年支えてくださっていたお二人のご遺稿集を刊行いたします。
本日8月26日(金)、リアル書店先行発売です。ネット書店を含むすべてのお店での公式発売日は、8月31日(水)となります。
『つたなさの方へ』那須耕介(著)
☆ちいさいミシマ社レーベル
もう一つの小さなものさしを いつも手元にしのばせておきたい
余計なこと、みにくさ、へり、根拠のない楽観・・・法哲学という学問の世界に身を置きながら、「余白」に宿る可能性を希求しつづけた人が、余命のなかで静かな熱とともに残した随筆15篇。
『小田嶋隆のコラムの向こう側』小田嶋隆(著)
「文章を書く人間は、時にはテーマに拘泥することをやめて、筆を遊ばせなければならない」(本文より)
コロナ下、病気が悪化したこの2 年の中で、小田嶋隆が残した最後の言葉とは――
9/8(木)ウスビ・サコ先生 イベントのお知らせ
ミシマ社が半年に一度刊行する雑誌『ちゃぶ台』。2022年12月刊行予定の次号『ちゃぶ台10』では、特集に「母語ボゴボゴ、土っ!」を掲げます。
私たちには、「母国語」でも「外国語」でもなく「母語」があるはず。その「母語」とは何か?、という疑問が浮かんだとき、まっさきにお話を伺いたいと願った人が、ウスビ・サコ先生でした。
『ちゃぶ台』編集長の三島邦弘が聞き手となり、言語の達人であるサコ先生に、私たちの生活を支える言葉についてオンラインでたっぷりインタビューいたします!
9/8(木)19:00~20:30
「編集長が訊く! サコ先生、『母語』ってなんですか?」