第3回
いよいよ歩かざるをえなくなった
2022.05.04更新
本当は別のことについて書いていた矢先、前回に上乗せして「これでもか」という事態が起こったので、それを記すことを許してください。
1週間の出来事。ターニングポイントは金、日、木曜日。
金曜日
2022年4月初旬の金曜日。周防大島で生まれたわが家の下の子は、小学1年生となった。入学式だ。僕はあまり着る機会のないスーツに着替えるが、ズボンがきつくなっていることにガックリ。だけど、息子が小学校に行く姿はこれまでになかった絵で、感慨深くなった。新1年生は全部で7名だ。今年でこの小学校は統合される。
同級生のお父さんの一人は漁師だ。教室のうしろの隅にある水槽の横で、おもむろに話しかけてくれた。
「おれが小学生のとき、休み時間に自分で針作ってフナ釣ってたんすよ。この水槽の中の」
ええ~! 教室の水槽のフナ? を釣る? そんな人初めて。驚いた。周防大島では普通なのかな。みんなやってたんですか? と聞くと、
「いや、おれだけですよ」
と。2人でゲラゲラ笑った。みごとな漁師さんだ。
その日、息子たちはさっそくスクールバスで帰ってきた。
週末の日曜日は、年度が変わってすぐのため、集落である自治会の総会の日となっている。その日はとりわけ僕にとっては大事な日だった。前回も書いた、「地域の旧・公民館」についての案が議題に入っているからだ。この日初めて、集落の住民全員にどういうつもりなのかを公に説明しなければいけないのだ。自治会長にも「質問がある可能性は高いだろう」と言われていたので、事前に相談し、周防大島町にも相談した。この背景はちょっとややこしい話なので、それはまた続きで書こうと思う。
その入学式の日、金曜午後。保健所から電話がかかってきた。妻が出た。
「中村さん夫妻が濃厚接触者に当たりまして・・・」
え? また。前回の事態と同じ匂いがした。かくかくしかじか、なるほどなるほど。
保健所の方も僕たちが記憶に新しいらしく「中村さん、見覚えありますね」と言っていた。たしかに、だって1カ月前の出来事だもん。
前回のコロナ療養でスケジュールが押し出されていた仕事先に、夫婦ともどもまた電話をかける。かくかくしかじか。すみません。
このとき、疑問が2つ浮上した。
その1、「僕たちって何?」
この頃は、関東、関西など都市部ではもう濃厚接触者は追っていないそうだ。一方で山口県は今も追跡している。対応も丁寧で、今から最低1週間は自宅待機となった。
ウイルスは自治体の境なんて関係ない。僕が関東にいれば、濃厚接触者ではなく、今ここにいると濃厚接触者である。僕たちって何だろう? どうなったらいいんだろう。
その2、「下じもの者」
僕には、雇われて行うアルバイトと、自分の名前で行っている仕事の2つがある。そのうち後者は自分の責任のもとで関わりある人に連絡すればそれで済む一方で、前者が問題となった。雇われ仕事の場合、僕がいなくなると、そのシフトの穴埋めをする人を組織内で探さなければいけない。だけど、少ない人数で回しているので、突然行けなくなると他の人へ負担が激増してしまうのだ。休む僕も給料が出ないし、休みだったはずの他の従業員は毎日出勤になってしまう。保障があるかどうかはその組織次第で、僕たちには無かった。
上の人には感じられないかもしれないけれど、現場で擦った揉んだをするのは下っ端の者なんだ、と気づいた。これが精神的に厳しかった。他の人にもこれ以上迷惑かけたくない、こういう思いをしてほしくない――。
このことから導きだされるのは「なるべく濃厚接触者にならないようにしよう」という心がけだった。出かけるのをやめる。食事会には行かない。子どもたちにもこの自粛気分が波及してしまう。
でも、そうなると1つ目の疑問である「ある場所では濃厚接触者にあたり、ある場所ではあたらない」という事態にぶつかる。この2つの間で心が壊れそうになった。
これらは誰が悪いということではなく、社会のどこか何かが、どうかしているんだと思った。
加えて、移住してからこの9年近所でずっと面倒をみてくれてきた親戚のおっちゃん(90代)が、おばちゃんと一緒に長期療養のため遠く関西へ、故郷を離れる夜だった。当然、本人は帰ってくる気であり、僕も帰ってくると信じているが、年齢も年齢なので実はもう帰ってこれないかもとささやかれていた。
そんなわけで、親族一同でご飯を食べようという話になっていた。それもキャンセルした。もう会えないかもしれない。さんざんお世話になってきたので、複雑な思いがとめどなくこみ上げてきた。
日曜日
この日は自治会総会。これも出られない。会長に連絡して欠席の旨をお伝えした。議案は予定通りかけられる。会長からは、終わったらまた連絡してくれるとのこと。
僕の口から伝えるべき大きな事柄は、「建物を譲渡してほしい」ということ。その理由。僕はその会議の場所から歩いてすぐの家で、元気ながら自宅で待機した。
・・・
お昼、自治会長は総会で任期を満了し、新しい会長にバトンタッチ。その最後の仕事として、前・自治会長が僕に電話をくれた。
「無事終わりましたよ。総会で『中村さんの動向を見守る』となったけえね」
「見守る」という議決の言葉があるのかと驚いた。
集落の皆さんは、この中村というよくわからない人間の申し出を拒否するでもなく、かといって心配の気持ちも抱きつつ、ひとまず「見守る」という選択してくれた。この集落らしい、温かさを感じた。
その言葉の理由は、この建物と土地、それぞれで所有者が違うというややこしさに由来していた。「自治会」と「町という自治体」が別々で持っている、公共物という存在だった。
目下、この「所有者」の問題と、組織における「年度替わり」が関門である。それをクリアしたあとは、次の障壁もすでに見えている。
障壁すら見えなかった1年前とは大違いの、今。希望はみえている。
その日の午後、僕たちはPCR検査に行くように保健所から指示されていた。陽性なのか陰性かでこのあとの動向が全く変わってくる。結果が出るのは翌・月曜日。これまでの間、とても心もとない日々を過ごした。
その月曜日は、入学式以来最初の登校日である。息子は濃厚接触者ではないとされていたけど、さっそく大事をとって欠席させた。登校していい雰囲気では、なかったのだ。
木曜日
PCR検査の結果は、夫婦とも陰性だった。ひとまず、よかった。あと3日、休んだら外に出ていいとのこと。ふう。そして木曜日。
「ない」
軽トラのカギがない。動けない。
カギがないな、とはうすうす思っていた。先週の入学式の日に乗ったっきり。外に出ることがなかったし「まあそのうち見つかるだろう」とタカをくくっていた。スーツのポケットかな? ない。自宅隔離中の部屋? ない。ゴミ箱? ない。
ないなあ、ないなあ、あらないなあ~
「笑い飯」の漫才のフレーズを口走りながら部屋中を探す。僕はよくカギやカバンをなくすのだけど、いつか必ず出てくることばかりなので、最初は気楽だった。
だが、だんだん出てくる気配がないように思えてきた。捨てたのか。ゴミとなって消えたような気がした。
「また、車のことか」
はあ~。溜息が出た。
前回までを読んでくださった方はわかると思うけど、僕にとってコロナと車のハプニングは、セットだった。どうも、そうなってしまっているのだ。
そして結局、カギは見つからなかった。
「お遍路せよ、歩きで。ぜったいに」
1週間して見つからないカギ。答えはこんな大声で聞こえてきた。
車のカギは、前回のパンクでも、その前の事故でもお世話になった車屋さんにまたも修理をお願いした。この困った人間のあれこれを快く対応してくれるなんて、なんともありがたい。
翌週、車のない僕はバイト先から、本当に歩きの遍路を島で始めた。行く先は調べず、看板だけを頼りに、一歩ずつ歩みだした。
太陽の位置。海の方向。時間の感覚がなくなったように思って、心地よい。
「あ、すみません、お参りしていいですか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
最初の札所にたどり着くと、誰もいないと思っていたそのお堂には地域の人が集まっていた。たまたま掃除をする日だったようだ。
以前、島のお遍路の中心でもある西長寺の住職にうかがったのが、
「大島の札所は、地域の人が守っているのが特徴なんよ」
ということだった。地域の人が、僕の最初のお遍路で快く迎えてくれたのが印象的だった。
「ようお参りです~」
お寺ではなく、地域の方にこう言われたのは不思議であり、でも自然に感じて、うれしかった。
雨後のたくさんのタケノコが、図太く空へ。道路わきにはお菓子の袋のゴミ、ペットボトルが落ちている。道すがらのいろんな景色。
途中で自分が借りている田んぼに差しかかったので寄り道した。初めて植えた大麦はどうなっているか、見てみるとかなり失敗していてがっくり。
でも、全部が失敗しているわけではないのがまた不思議だった。どうしてだろう。答えはたぶん、水だろう。
そのあとまたいくつかお参りして帰宅。その際、バスを使った。つまり、ズルをした。
昨年わが家方面の路線バスは廃線になって、その替わりにスクールバスに乗ってもいいことになっていた。息子が乗るバスと同じ。運転手さんも同じ。
うちの子どもたちしか乗らない、家のすぐ近くのバス停で降りた。昨年新しく出来たバス停だ。
濃厚接触者判定から2週間。カギがなくなってから1週間後。
今度は、カギが出てきた。
久しぶりに履いたズボンのポケットから、ひょっこり。
修理してくださった手間。申し訳ない。修理代。あらら。
車にまつわる僕の行動はぜんぶ不正解。でもお遍路は正解。という声が聞こえた。