第11回
イノシシが、好きなのかもしれない
2023.01.21更新
それにしても、前回もそうだし、このミシマ社から出ている雑誌「ちゃぶ台」に僕は毎回のようにイノシシのことを書いている。なんでだ。ひょっとして僕はあのひとたちが好きなのかもしれない。
どうしてかなと考えてみた。一つには、周防大島で田畑をやろうと思ったら即、向き合わなければいけない存在だからだと思う。種を蒔いたあとvsイノシシ、収穫vsイノシシ、ばったり出くわすイノシシ、轢いてしまったイノシシ・・・などなど。
先日は、飼っているヤギ、こむぎの小屋の近くに3頭のウリ坊がやってきて何かを物色していた。安心しきった様子で小一時間。よく見ていると、ヤギの糞を食べていた。そんなの聞いたことない、見たことない。僕たち家族一同たまげた。お、おいしいの?
僕が島に移り住んだ頃は、まだ黎明期といったらいいのか、ちょうどイノシシたちが出没しはじめの時期で、防護柵の設置もどこか手探りだった記憶がある。その後、あちこち掘り返されるようになり、今や「柵に囲われる田畑」が普通の光景になりつつあって、家を囲むことすらある。少しずつ、でもだいぶ様子が変わってきている。
これに加えて、もう一つ思い出したことがある。これは島に移り住む前のこと。
10年前。その頃あまりに気を病みすぎて、失踪したいと思っていた。失踪? 今いるここで無ければどこでもいい、どこかに消えたい。何をやっても不正解で、もはや生きていても死んでもどっちでもいいという気持ちになっていた。(詳しくは前著に少し経緯を記しています)
でもいざ失踪をした場合のシミュレーションをしてみると、なかなかその最後の一歩を踏み出す勇気が持てなかった。子どももいるし、いろいろな人が関わったりして。「人に迷惑をかけるな」という両親の教えが浮かんできた。
そうしたあるとき、チャンスが訪れた。失踪という形ではなく、失踪するとどうなるか? の自分なりの実験をしてみる機会が来たのだ。なんだその機会って。僕は臆病だから、それくらいがいい。
東京からちょっと遠方にある、かつて登ったことのある山に入り、一夜をすごす。そうしたらどうなるのかな。山中には、草木が両脇から茂っている山道だけがある。安全に泊まるところなんてない、ただの山。夏真っ盛り、8月下旬のこと。気持ちよく晴れた日で、セミも鳴いていた。
〈実際に失踪したいという思いがある君は、本当にその状況になったら大丈夫なの?〉
自問自答が続いていた。今こそ試すのだ。以前登ったときは明るい時間だったけど、夜はどうなのかな。どうなったっていいや。やけくそだ。
山頂近くまで登っていく。夕闇が迫り、日が落ちていく。暗くなると、とたんに山中の景色が一変した。たしか月は出ていたような気もする。でも目を開けていても前は真っ暗で全く何も見えない。きっと木々が覆っているからだ。音だけが鋭く伝わってくる。
怖い。怖すぎる。
この恐怖のことを全く想像できていなかった。完全に怖い気持ちに包まれた。そしてちょっと前までやけくそだったにもかかわらず、早くも「生きたい」と思い始めていた。
山頂近くには大小いくつかの岩や石が転がっていて、土の中に埋まっている大きめの石の上に腰かけた。そこで眠くなったら寝ようと思っていた。
そのはずだった。ところが、時間が進むのがとても遅い。まだ夜7時半か。このあとこの怖さのなかを寝られるのだろうか。否、眠れない。
暗闇の中で、音だけが訪れる。木々の葉っぱがこすれ合う。そして何者かが歩く気配がする。遠くの方から、それまで聞いたことのない生き物の声。叫び。なんの叫びだ。きっと何かが何かを、食べようとしている。何なんだ。
そして。
ザッ、ザッ、ザッ、ブホブホ、ザッ、ザッ、ブホッ。
あちらのほうからこちらのほうへ、生き物が近づいてきた。この鼻息こそ、僕が初めて出会ったイノシシだった。真っ暗で姿はわからないけど、僕のものすごく近くまで探索しにきたのでそれ以外にないとわかった。鼻息もどんどん迫ってきている。
「僕は石です。僕は危害を加えません」
と念じた。けれど、とにかくパニック! 怖い。心臓バクバク。大きさもわからないし、何をされるかもわからない。これまで見たことがあるわけもなく、「突進する」というイメージだけしかなかった。もしここで猪突猛進されたらひとたまりもない。ひたすら「生きたい」と願った。
そして彼/女は、こちらの願い通り何ごとも起こさずに立ち去ってくれた。
結局寝られるわけもなく、あちこちから相変わらず物音や叫び声がして、どきどきしながら過ぎていく。時間の感覚がわからなくなった。山のふもとでは暴走族っぽいバイクの音が聞こえる。
だいぶ時間が経ったあと、山の中は静かになった。おそらく深夜二時か三時くらい。あまりに静かなので、「丑三つどきってほんとに草木が眠るんだな」と思った。怖いので相変わらず寝られない。
そうこうするうちに、夜が白み始めた。そのとき、鳥の声が「徐々に」ではなく、一斉にぶわっと聞こえ始めたことにびっくりした。一体どういうことだ。
毎晩こんなことが起こっていたの?
知らなかったな。毎日ずっとこういうことが起こっていたなんて。このことにかなり感動して、明るくなった道を下山した。
この日から年数が経っているので、これらの記憶はもしかしたら僕の中で若干変わっているかもしれない。
山から帰ってからすぐに、この感動を手紙にしたためた。そしてなぜか、実家からそう遠くない場所(といっても近くでもない)にあるアニメ監督の宮崎駿さんのお宅に投函した。全然知り合いでもないのに。なんだかわかっていただけそうに思ったのと、どうにか誰かに伝えたかったのだ。
この手紙に書いたことがたぶんこのときの事実に一番近いと思うのだけれど、当然、僕の手元にはない。
***
前回の後半に書いた「内面への介入」や「入植」的なふるまいのことで、少し続けたいことがあったのだった。もしかしたらもっといい考え方があるのかもしれないけれどーーー。
誰かが誰かの内面へ入っていって、変えようとしたり、支配しようとしたり、破壊したりすること。僕はこれらを「人としてやってはいけないこと」として、もっと了解された方がいいのではと思うようになってきている。
この「介入」「入植」のことを言い換えると、極度の「余計なお世話」のいろいろなバリエーション、といえるのかな。
辞書(広辞苑)を引くと、
介入:問題・事件・紛争などに、本来の当事者でないものが強引にかかわること。
干渉:他人の物事に強いて立ち入り、自己の意思に従わせようとすること。
とあったので、どちらかといえば「干渉」の方がイメージに近いような気がする。けれどとにかく、誰かの内面に「過剰に入っていく」、もしくは「過剰に入ってくる」ふるまいのことが気になっている。誰かの内面に入っていった先に、強制的なかたちで何かが起こってしまうことについてだ。
友人、夫婦、親子の間で。国家から個人への関係で。たとえば言語の強制的な変更。DV。入らされ、出られない宗教の類。辞められない会社。極端な叱責をされる部下。学校や校則。子どもが無力に感じること。大人も無力さに包まれること。誰かが誰かを叩くこと。
侵略と戦争。「身を守ること」を装って、相手を攻撃する能力を作ること。医療とそれぞれの人の考え方。人が「どう生きたいか」について、社会からそれぞれの人への干渉は?
たとえば、「あなたの考え、ここは間違っていると思う」といえば済む場面で、加えて「アタマわるいんですか?」とまで言ってしまうことは、いわば「入り過ぎ」。そんな気がする。もし審判がいたらピピピっと笛を吹かれてしまうだろう。
お笑いの文脈でもそういう言葉が出てくることがあるけれど、だからこそ高度なテクニックや絶妙なセンスなどに拍手を送りたくなる仕事なんだと思う。
こういった「内面に入っていく」類のことは、たとえばイノシシの世界ではありえるのかな? そもそも、なんでこんなことを書いているんだろう。「内面」ってなんだ? (つづく)
編集部からのお知らせ
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12/10(土)発刊『ちゃぶ台10 特集:母語ボゴボゴ、土っ!』に中村明珍さんによるエッセー「ボゴ・ダンス――日本語の話者としての」が掲載されています! ぜひお近くの書店でお手に取ってみてください。