第29回
新生活とアンダーグラウンドシーン
2024.06.20更新
ケモノ道は「踏んだときだけ」にできる道。当たり前かもしれないけれど、そういうものだと思えてきた。
借りていた1か所の畑を返さなければいけなくなり、その片付けをしていた。畑の奥のほうでは「メダケ」と呼ばれる細い竹が大量に繁茂していたので、それをひいひい言いながら刈って運びだす。そして、何度も往復しているうちに藪の中でよく見る、イノシシの道と似た形が浮かび上がってきたのだった。僕のケモノ道だった。川のようにちょっと曲線になっている。真っすぐには歩けていないからだろう。それにしても、何往復か歩いただけでできるなんて、なんだか妙に感心してしまった。
作業が終われば、僕もそのうち歩かなくなり、やがて草に覆われて、跡形もなくなっていくだろう。
***
先月につづいて、相変わらず移動の時間が続いている。お寺の場所が島の外にあるのに加えて、バイト先も同じく島の外。娘の高校も、週に1度のダンススクールも、島の外。この前、往復2時間の道を24時間のうちに3往復したことがあって、さすがにこれはいかんのではと思った。6時間も乗っていたら、休憩なしでがんばれば、周防大島から大阪まで、あるいは東京からでも大阪まで行けてしまう時間だ。
僕はもともと車に興味がなかった。バンドにいたとき、あまりのギター機材の多さにやむを得ず手にしたのは白い軽バン。ギターよりも安い10万円くらいの車だった。ダサいくらいが僕にはちょうどいいと思っていた。新宿駅で工事車両に間違えられた時もあった。
そして、車に興味がないのと同じように、これまで道路についても「この道、悪いなあ」と気にかかることなどがなかった。
ところが、これだけ島の内外を何度も行き来していると「この道はでこぼこしているなあ」と注意が向くようになってきた。
僕が住んでいるあたりは、地域の人に「昔は道路も舗装されていなくて、車が通るのに難儀していた」と聞いていたので、それに比べたら今は圧倒的に通り易いはず、なのにもかかわらず。
でこぼこしているのを感じながら、どうしてでこぼこしているのかを初めて想像することができた。それらは工事をした跡だったのだ。
なんの工事をしているかといえば、道路の下に埋まっているものについての工事だ。
「上水道をなおしています」「下水道をなおしています」
このような看板が道路工事の現場に立っているのをよく見る。そんなときは片側通行になっていて、前後に車両誘導のプロが立ち、無線でやりとりしながら赤い旗、白い旗を掲げて往来させてくれる。僕は優柔不断だから、この仕事を担当したら「あれ、赤かな、白かな、今行かせて大丈夫かな」と戸惑って、しまいには真ん中で鉢合わせさせてしまいそうだ。そうして現場の人、双方の運転手、上司にこてんぱんに怒られそう。昔からなぜかそんな想像をしてしまう。
ちなみに、道路自体の新設や、拡張工事の場合は、道路がツルッツルになっているイメージがある。見た目もきれいだし、完成したあとに車で走ると大変スムーズに進む。スケボーでも走りやすそうだ。
一方、でこぼこを感じる道路は、上水道や家庭の下水や雨水などの下水道、電話線、電線などの工事の跡だろう。
僕が思ったのは、「でこぼこで不快だ」ということではなくて、
「道路の下にも道があったのか」
ということだった。
道路の地下に敷設されている水道などは、各家庭やお店などの事業所、そして浄水場や下水処理場とつながっている。これは道路と同じく「人のため」に作ってきた道だ。
僕は、さっきの竹の作業のあとに、
「僕のケモノ道の地下は、どうなのかな」
と思った。違いが気になったのだった。
***
ケモノ道は土の上にできていて、普段は草木が生えているので、ちょっと掘ればスコップに根があたる。あちこちから絡み合っている根。そして、ミミズやアリやハサミムシやゴミムシ、見たことがない虫なども出てくる。もうちょっと掘ると、場所によっては水がしみ出てくることもある。
「なにごとだ?」
先日、家の前で数匹のミミズが、同じところから同じ方向にニョロニョロと動いているのを目撃した。これまでもミミズが道に出てきたり、干からびたりしている光景は見たことがあるけれど、今回はなんだか様子が違う。何かから逃げ出している様子なのだ。
しゃがんで、何が起こっているのかをちょっとの間、観察してみた。
・・・ミミズが出てきている向こうに、土がこんもりと盛り上がっている筋道が見えた。モグラだ! モグラから逃げていたのか。
さらによく見てみると、近くの土が上下に動いている。地上からこんもりした土の動きだけが見える。そこにいるのか! モグラが生きて動いている姿、見てみたいな。
じっと待っていると、今度は音が聞こえてきた。
ジャッ、ジャッ、ジャッ。
なんだこの音は。おそらくだけど、草の根っこを手で切っているのか、口でかじっているのか。モグラが移動するのに邪魔だろうし、切らないと進めないのでこんな音がするのだろう。周囲には、セイタカアワダチソウの根っこや、ヨモギの根っこ、スギナとツクシの根っこなど、地下茎が地表近くの層に張り巡らされているのが想像できた。ちょうどモグラが移動するエリアだ。それにしても、これは初めて聞いた音だった。
土を掘れば、3、4cmほどの穴も見つけることができる。モグラの道だ。土の中に、空間が作られているのだった。
地中には、無数の道があることをこれらのことから教わった。誰かが通ることでできた道。誰かが生きているからできた道。それは、日々別のものに利用されたり、作っては作り直されている。空気も水も通っていく。
さきほど目撃した、わが家のミミズとモグラの攻防の上にはソメイヨシノが植わっている。元保育園だった場所なので、卒園や入園の時期には咲いた花が何度も出迎えてきたことだろう。
この木の上から、糸を伸ばして降りてくるものがいる。こちらはイモムシの幼虫だ。
何かから逃げるためなのか、移動手段としてなのか。糸で空中から降りてくる方法を編み出したなんて。
風が吹けばプランプランと揺られる。別の木に移る機会を待っているのかな。親は空中を飛んで、樹上のどこかに卵を産み、育ったのだろう。彼らにとっては、幼虫のときも成虫になってからも、空中だって道なのだ。
***
さきほどの「返さなければいけなくなった畑」の持ち主から、追加で連絡があった。
「竹の根っこを掘っておくことはできますか」
重機などで抜根して、今後も生えないように、ということだった。この畑で生え始めているメダケの地上部だけ刈ったのでは、あっという間にまた生えてきてしまうからだ。
タケノコが次第に大きくなり、やがて竹に成長する。
そもそもタケノコの成長は先端部のシュート頂に成長ホルモンが存在することはほかの植物と同様であるが、稈の各節部にあるタケの皮が付着している稈梢帯(成長帯ともいう)にも成長ホルモンが含まれていて、この両者が同時に成長するためにスピード感のある成長を行い、成長最盛期には1日あたり1mの成長量を示すことになるのである。(「タケ・ササ総図典」 / 内村悦三)
「雨後のタケノコ」という言葉があるくらい、たしかに雨が降ったあとは、タケノコがあちこちから顔を出して、ぐんぐん伸びていく。
また、「花」については、
いうまでもなく、タケの開花はめったに起こらないことであり、これは通常、無性繁殖によって地下茎からのタケノコが更新の担い手となっている。有性繁殖である開花が起こったりすると何か異変でもあるのかと驚ろくほどである。(「竹」への招待 / 内村悦三)
とのこと。その種も保存期間が短くて、すぐに蒔かないと発芽しないそうだ。しかも日本に多いマダケやモウソウチクについては、種のほとんどが「不稔性種子」、発芽や生育をしないものなのだとか。不思議な植物だ。
あっという間に繁茂してしまう元である、地下茎を取り除く。でも、造園業の友人に聞いたところによれば、地下茎を中途半端に掘ってちぎっていけば、そこからまた生えてきてしまうという。どうしたものか。
そのメダケ。前からなんとなく思っていたことがある。本当のところはどうかわからない、と前置きしながらの想像なのだけど――メダケがそのまま放置されていけば、彼らは増えて広がっていくものだと思っていた。けれど、長い目で見てみたら「もしかして移動してる?」と思えることだった。竹類って、そうなの?
以前、メダケがぎっしり生えている裏山を、その頂上へと登って行ったことがある。登っていく途中から目にしたのは、メダケが枯れまくっている光景だった。そのさらに上には、メダケはいなかった。
スタート地点がわからないので、どこから生え始めて、どこに向かっているのかもわからない。だけど、タケノコを伸ばしてメダケが進出してくる一方で、もともと生えていた場所は数年たつと竹自身で枯らしていっているように見えた。枯れた竹が重なりあって倒れているのをよく目にする。この光景をもって、「荒れている」というふうにもいわれているのだろう。
そう見てみると、竹は増殖、拡散しているのだろうけれども、何か理由があって「移動している」ようにも見えるのだった。
「移動している」とみると、植物の地下茎も、ある意味での「道」を思い起こさせてくれる。
もう一度振り返って考えてみる。人が作っている地上の道路、そして地下に張り巡らされた上下水道などの道の周囲は、どうなっているのだろう。
もしかしたら、地下についてももう少し、簡単に壊れたり作り直したり。あるいはほかの生き物が使えたり、出たり入ったりできるようなイメージ、そんな想像を膨らませることも、これからはあっていいような気がしている。
たしかに、上水道は何者かに出たり入ったりされたら困るかもしれない。では井戸水はどんなイメージかな。下水は、雨水はどうかな。
数年前に、水道と井戸水で考えさせられた周防大島で暮らす僕には、今も身近で切実なテーマだった。