第13回
身体知とは〜形態化身体知その4〜
2019.04.09更新
カンについて書いているところだった。
今回から読み始めた方もいると思うのであらためて説明すると、カンは発生論的運動学では情況投射化身体知と呼び、自らのからだで完結するコツ(=自我中心化身体知)とは異なって、周囲の情況をも含み込んだ身体知のことである。
カンは以下のように構造化されている。
① 伸長化能力 = 徒手伸長化/付帯伸長化
② 先読み能力 = 予描先読み/偶発先読み
③ 情況把握能力 = 情況シンボル化/情況感能力
①の伸長化能力については前回で詳らかにしたので、今回は②の先読み能力と③の情況把握能力について説明しよう。
この2つの能力を合わせ、それを端的に表すとすれば「判断力」である。
たとえばバスケットボールやサッカーなら、シュートをするかパスをするか、あるいはドリブルで突破を図るかを、ボールキャリアは判断する必要がある。自分をマークする選手の動きを観察し、さらにそれ以外のディフェンダーの立ち位置を考慮しながら、味方選手とコミュニケーションをとりつつ最適なプレーを選択しなければならない。
パスやシュートの技術に長けていても、この判断を間違えれば効果的なアタックは成就しない。千変万化する情況を把握することに努め、そうして把握した情況がこの先どのように変化するのかを予測(先読み)しながらのプレーを、これらの競技では求められる。
そしてこれはなにもバスケットボールやサッカーなどのゴール型競技だけにあてはまるわけではない。バレーボールやテニスなどのネット型、あるいは野球などのベースボール型であっても、それぞれの競技性に基づく判断力が求められるのはいわずもがなである。スポーツ、とくに集団競技では、この「判断力」を身につけることが、より高いパフォーマンスの発揮へとつながる。
つまり「判断力」とは、まず情況を正確に把握し、次いでそれをもとに予測(先読み)することである。
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ということで、まずは③の情況把握能力についてみていこう。
この能力はさらに2つの要素に分けられる。
1つ目の情況感能力とは、文字通り、周囲の情況を感じ取る能力である。自分を取り巻く周囲の情況は、目を凝らして見ないとその様子を把握することはできない。網膜に写し取られている、つまり「ただ見えている」だけでは把握したことにはならない。自分を中心とした周囲に、敵方の選手と味方選手がそれぞれ何人ずつ、どのように分布しているのか。また敵味方それぞれの選手同士および自分との距離はどれくらいなのか、それらを感じ取ろうとしなければ、周囲の情況はただ視界に写っているだけの一景色に過ぎない。
ボールや1人の選手を凝視していたのでは全体を捉えることはできない。なのでまずは視界に映る景色を余すところなく正確に把握すること。視界に映るすべてを、まるでカメラがシャッターを切るように一枚のピクチャーとして、目に焼き付けることが求められる。
次いで、そのピクチャーから奥行きを想像し、相手ディフェンスのかたちやそれに応じた味方選手の立ち位置を確認する。これができて初めて予測(先読み)ができる。
いや、まだこの段階では正確な予測(先読み)はできない。周囲の情況をすべて把握するためには、視界で捉えられる範囲だけでは不十分だからだ。自分を中心に360度広がる時空間には当然、背後も含まれる。背後を含んだ情況を正確に捉えてこそ、正確な予測(先読み)ができるようになる。
では「背後を見る」にはどうすればよいか。
この連載を読み続けてくれている人のなかには、気がついた方もおられるだろう。そう、気配感だ。コツのひとつである気配感で、視覚では捉えられない背後の情況を把握する。
つまり「情況感能力」とは、凝視ではなく周辺視で前方に広がる景色をピクチャーとして捉え、それに想像力を駆使して奥行きをもたらし、気配感で捉えた背後を加えて自分を中心とした前後左右の情況を把握する身体感覚である。
2つ目の「情況シンボル化」は、この情況感能力を備えてこそ発揮される。
情況を正確に把握したとしても、それに対する最適なプレーが選択できなければパフォーマンスには繋がらない。ディフェンスの隊形がわかっても、あるいはフォローしてくれている味方選手の分布がわかったとしても、その情況における最適なプレーが選択できない。なぜなら情況感能力を発揮して脳裏に描かれた「立体空間」は、いわばカオス(混沌)の様相を呈しているからである。
カオスを目前にしたときに私たちは立ち尽くすしかない。どこから手をつけていけばよいのかがわからないからだ。こちらの行く手を阻む選手の散らばり具合がわかったところで、その陣形を攻略する手立てが思い浮かなければ、その先に進めない。複雑に絡み合った結び目を解くためには、ひとまずとっかかりを見つけ出さなければならない。
つまり、カオスを攻略するには「補助線を入れる作業」が必要だ。それが情況シンボル化である。
たとえばサッカーで自分がボールキャリアだと想定すると、こちらの行く手を阻むディフェンスの人数とその分布、さらに味方選手の人数とその散らばりがわかっていたとする。だがこの時点では、敵味方が入り乱れているという点でカオスでしかない。だがよくよく目を凝らしてみると、左サイドでは自分を含めて攻撃する選手が3人、ディフェンスが2人という「数的有利な情況」であることに気がついた。敵味方が入り乱れるカオス的空間だったはずが、左サイドに限れば「3対2」という攻撃側に有利な情況が生まれている。ここをとっかかりにすれば攻撃を開始することができる。つまりカオス的情況を「3対2」で切り取るという意識作用が「補助線を入れる」ということである。
日常生活の場面に目を移してみよう。
たとえば私たちはたくさんの人が行き交う人混みを難なく歩くことができる。各々が目的地に向けてランダムに歩く情況を、カメラのシャッターを切るように瞬間的に捉える。そうして捉えつつ、「真向かいから近づいてくる人はやり過ごす」、「左右から近づいてくる人は交差する」、「背後から素早く近づいてくる人の気配を察してその進路を邪魔しない」、「スマホ歩きの人を追い抜くときは近づきすぎずに素早く」という補助線を入れ、そうしてシンボル化された事柄を同時並行に実践するからこそ誰ともぶつからずに歩くことができる。
こうして私たちは知らず識らずのうちに情況感能力と情況シンボル化を同期的に働かせながら、人混みを歩いているのである。
勘のよい方はお気づきかもしれないが、このとき私たちはすでに先読み能力をも同時に働かせている。情況は絶えず動いている。自らの前後左右でそれぞれの思惑で歩く人々は常に移動し続けている。カオス的情況は時間の経過に伴ってさらにその複雑性を深め続けている。一瞬たりとも止まらない情況に対応するためには、その後どのように変化するのかを予測しなければ、判断は下せない。判断を下せなければ一歩たりとも足を動かせない。
スポーツ場面でも日常生活でも、眼前の情況は流動的に変化し続ける。ちょっとだけ先の未来を想像することなしに行動を開始することはできない。
目前の情況を正確に捉える(=情況感能力)。
それへのとっかかりをみつける(=情況シンボル化)。
経時的変化を考慮に入れる(=先読み能力)。
この一連の作業を私たちは慣習的に「判断力」と呼んでいるのである。
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最後の先読み能力は、その性質上さらに2つに分けられるので、こちらも説明しておく必要がある。予描先読み/偶発先読みのふたつだ。
まず予描先読みとは、読んで字の如くあらかじめ予測する能力のことで、たとえば野球の打者は、1球ごとにバッターボックスを外して投手の配球を予測する。ゴルフならば、ティーショットの前には風向きやコースのアンジュレーションを読んでクラブの選択をする。静止した状態で、それなりの時間をかけてじっくり先読みするのがこの能力だ。
これとは対照的に、バスケットボールやサッカーだと相手にボールを奪われないようにキープしながら、あるいはラグビーなら相手のタックルを避けながら、自ら突破するかパスやキックをするかの判断をするために予測しなければならない。時間をかけてじっくり考える時間などなく、常にからだを動かしながらの予測が求められる。人混みを歩くときもそうで、瞬間的に予測しなければならない。これを偶発先読みという。
つまりこの両者の違いは、予測(先読み)にかかる時間の差異にある。
これまでに身につけた知識や経験知を検索しつつ、それを積み上げていくのが予描先読みだとすれば、知識や経験知を同時多発的に掘り起こしてほとんど感覚的に一瞬で答えを導くのが偶発先読みになろう。これは今までの競技経験から得手不得手が表れやすい身体知ともいえる。ちなみにラグビー経験者の私は偶発先読みの方が得意で、予描先読みは苦手である。
バレーボール元日本代表の竹下佳江選手は、その著書『セッター思考』(PHP選書)の中で、調子がいいときは自分の姿を含む情況を上空から見下ろした景色が見えると述べている。これは周囲の情況を俯瞰的な視座から捉えていることを意味する。竹下選手はおそらく、ここまで紹介した3つの身体知を駆使することで「自分を客観視する視点」を身につけた。
究極にまで判断力を高めると「私とあなた」という構図は消え失せ、自らが置かれた情況をまるで上空から見下ろすようにくっきりと「見える」ようになる。「なんとなく感じる」のではなく「見える」というこの体感レベルは、長らくラグビーをしてきた私にはとてもよくわかる。ここまで感覚を研ぎ澄まさなければ、トップレベルの試合でパフォーマンスを発揮することは叶わないのである。