第6回
道具~林家パー子
2021.06.05更新
中央にでかでかと、もはや輝かんばかりに書かれているのが「道具」という文字であるが、もしもこれの意味をひもとかずに終われば、それなりにおもむきの深い書であろう。
人類と道具との歴史は古く、道具あっての人類だろうし、逆もまた真である。かつて様々な職人にロングインタビューして書いた拙著『職人ワザ!』(※1)でも、江戸文化を継承する下町の職人たちが"何よりも大事なのは道具で、それをてめえで作るところから仕事が始まる"と教えてくれたものだ。"道具は買うもんじゃねえ。作るもんだ"と。
だがしかし、この『ど忘れ書道』の場合はそういう話ではない。なにしろこれはテレビの「リモコン(※2)」を指す言葉で、俺は家の中でその単語を見事に忘れ、「えーと、あの、あれ、あれはどこ行ったかな」などと同居人に話しかけ、「あれじゃわからない」という至極まっとうな追及を受けたがために、ついに「あの・・・えーと、道具はさ」と発言せざるを得なくなったわけである。我ながら涙が出るほど悔しい瞬間であった。
道具。いやまったく、リモコンはまぎれもなく道具なのではある。しかしだからこそ俺は自らの記憶力の劣化に直面したと言える。物事をやたらと大きくしかとらえられなくなる老化現象。それが俺を揺さぶった。揺さぶったがだからといって、「リモコン」という言葉がポロリと口から出て一同が呵々大笑というわけにはいかなかった。
というわけでしばらく俺は真っ白にハレーションを起こす世界の中で、"物事をやたらと大きくしかとらえられなくなる現象"の情けなさを思った。これは例えば知人の篠原くんを「人間」と呼ぶようなものである。みみずを見て「この環形動物(※3)」と言ったり、それどころか「動物」と口走ってはばからなかったりするのと同じなのだ。
そうなれば、世界はおそらく全部で百個くらいの分類で終わるだろう。便利と言えば便利だが、逆に「人間」から知人の篠原くんを類推するのは至難の技である。まして「動物」からみみずを導き出すことも不可能に近く、つまりこうやって俺は他人とのコミュニケーション回路を閉じていくのに違いない。
俺はその時、言語というまさに「道具」の有用性をほとんどすっかり失ったのである。
さて、その「道具」の左には「営業枕」とある。
俺は枕営業(※4)という言葉を好まないし、女性蔑視という点でもちろん他人が使うのにも嫌悪感を催す。だがそうしたミソジニー(※5)を指弾するために俺はある時、決然として「ああ、枕営業とか言い出すやつ、いるよね」と発言しようとしたのである。
ところがあろうことか、先に「営業」という言葉が出てしまった。するともう「枕営業」が出てくる可能性がほぼ失せた。この気持の悪い言葉の特異性は八割がた「枕」の部分にあるわけだから、それを抜かして「営業」と言ってしまえば、実質何を言ってることにもならない。
しかも俺は(つまりあの"言語というまさに「道具」の有用性をほとんどすっかり失った"人間は)、その大失態のあと「枕」という三文字を取り繕うように発してしまったのであった。
営業・・・枕。
マイケル・ジャクソン(※6)を、唐突にジャクソン・マイケルと呼ぶような転倒。
しかも、これは恐ろしい世界観の転換であった。「枕営業」という古めかしい言葉が持つ暗いムードはすべて取り払われ、そこにあるのは"日常の営業活動にとても便利な枕"のイメージなのだ。ほとんど機能性のみの商品と言ってもいい。その枕は脳内イメージでは大きくフカフカで、しかも白かった。例の心理的ショックによるハレーションの色がここに影響したのかもしれない。
たぶんその枕だとよく眠れるのだろう。出張には小さくたたんで持っていけるのではないか。それどころか翌日訪問する会社の特徴や担当者の名前が、催眠学習的に低く鳴り続くのかもしれなかった。
いい枕だ。実にいい。
しかしながら「ああ、枕営業とか言い出すやつ、いるよね」の文脈には不適当だった。それはつまり「ああ、営業枕とか言い出すやつ、いるよね」になるわけで、相手とすれば「は? 営業枕とか言い出す?」となり、「睡眠ビジネスのお話ですか? 丸八真綿(※7)とかから出てるわけでしょうか、その営業枕は? なんならホームページをチェックしたいです」と来るおそれがある。
むろんその話の相手は、もっと優しい人間であったから、俺の世迷い言は不問に付された。俺は長らく発言に注目をされがちなキャラクターだったが、ついにそうやって「不問に付され」るようになったのだった。
営業枕の力で。
影響力をすっかり失った俺のど忘れ書道にまだおつきあいいただけるのなら、反対に「道具」の右側に目を向けていただきたい。
そこに矢印をともなって「おしぼり」「おつまみ」とある。これは育児中の俺が、そうやって新鮮な体験をしているにもかかわらず、なおど忘れをしていることの証左で、ここでは「おしゃぶり」が正解なのであった。
つまり「お」で始まって母音「い」で終わる全体像は理解しており、しかもおおまかに四文字のリズムでおさめたいのである。ところが俺自身、そういう言葉がやたらに多いことに驚愕さぜるを得ず、いわば逆に湧き出てくる単語の渦に翻弄されたと言っていい。
おかわり、お手並み、お触り、おまわり、おしおき、お座り、さすがラッパーと自分を誉めたくもなるが、やってればまだまだきりがないほど、これは「踏める」。
そして「踏める」からこそ、我々の脳は記憶を分裂させたり横に流したりしてしまう。これこそまさに言語学でいう「連合(※8)」の領域で、縦に文章を連ねる「統辞(※9)」と音韻の連合が我々に日々クリエイティブな言語行為を導いてくれるのではあるが、残念なことに同じ力が我々を崩壊にも導くことを、さてクリステヴァ(※10)やデリダ(※11)は指摘していただろうか。
ラップ歌詞を長年書いていると、その崩壊がよく実感出来るものである。韻を踏む言葉を探していると、次第にその流れが日常生活にも侵入してきて、意味のまるで違う言葉が平気で舌の上に乗ろうとしてくる。
最初は面白いが、ここに老化による判断低下が重なると、はっきりしてくるのはアルツハイマー的な症状だ。言いたいことが言えなくなる。それどころか言いたいことが何だったかわからなくなってしまう。これが現在の俺の状況ではないかと思う。
それをよく示すのがスケッチブック右端の「さばをアジく」だ。
もう俺は背筋の寒くなる恐ろしい世界に生きており、ご推察の通りこれは「アジをさばく」と言いたかったのである。生協から生アジが届いた折のことだ。
ところが「営業枕」現象と同じく、俺は先に「さば」と言ってしまった。運の悪いことに、そこには意味「鯖」と、音「サバく」の「さば」が乗っていた。まさに旬の魚の脂のごとく。
したがって混乱した俺は、その先まで言ってしまおうとし、「さばをアジく」と発言してキッチンで呆然とした。自分が何をしようとしているのかわからなかったからである。「さばをアジく」という行為を理解しようとしても、俺の脳内は例のごとく真っ白くスパークしていた。どう考えても鯖をどうにかするのだが、目の前にはアジらしき魚が横たわっている。混乱はますます度を深めた。
もうアジくしかない! 行為で意味を突破する他ないと俺は判断したのだが、どうやってもその「アジく」が解けない。「さばがアジけない」。味気ない? ラッパーの終焉。
ということで、こんなどんづまりまで体験してしまった俺には、林家パー子さん(※12)の名前が出てこなかったこと、ペーさんを思い出してからようやくパー子さんに移らざるを得ないひと手間などたいしたことはあるまい。
そんな時代のど忘れが、今ではかわいらしい。
※1『職人ワザ!』:2005年に新潮社から単行本として発刊。2008年に文庫化。
※2リモコン:テレビなどの電化機器を遠隔で操作する機器のこと。リモート・コントローラーの略。
※3環形動物:環状の柔らかい体節に分かれている動物の総称。
※4枕営業:業務上の利害関係にある人間同士が性的な関係をもつことで、業務を有利に進めようとすることを指す隠語。
※5ミソジニー:女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のこと。
※6マイケル・ジャクソン:アメリカの歌手。1958年生まれ2009年没。「キング・オブ・ポップ」と称される。
※7丸八真綿:1962年に設立された寝具・リビング用品メーカー。2012年より社名が丸八ホールディングスとなっている。
※8連合:共通の文法的・音韻的特徴を示す言語群をさす用語。
※9統辞:単語を組み合わせて文にすること
※10ジュリア・クリステヴァ:ブルガリア出身のフランスの文学理論家。ポスト構造主義的な議論を展開している。
※11ジャック・デリダ:フランスの哲学者。ポスト構造主義の代表的哲学者として位置づけられ、言語哲学をはじめ多方面に営業を与えた。
※12林家パー子:日本のタレント。夫の林家ペーとともにピンクの衣装で登場することでおなじみ。
編集部からのお知らせ
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司会:いとうせいこう、大森望
(Hayakawa Onlineより)