鬼気迫るど忘れ書道

第8回

かっこいい人たちを追う体の番組~ジマーミー豆腐(ハーモニー)

2021.08.04更新

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 今月もど忘れがひどい。しかも本当はここに書かれているどころでなく、ほとんどしょっちゅう忘れていて、ついに妻に「逆になんだったら覚えてるの?」と真剣に問われてしまったくらいだ。
 俺はその際、少しもごもごしたあと「お母さんがそろそろ二度目のワクチン接種受けること」と答えた。そもそも妻は冗談気味にツッコんだはずなのだが、答えがシリアスだからまったく冗談になっていない。ど忘れはすっかり「症状」になってしまっている。
 したがってこの連載は自己申告のカルテみたいなものだ。例えば、スケッチブックの上方に「かっこいい人たちを追う体(てい)の番組」としたためてある。最初から正解を言ってしまうが『情熱大陸(※1)』のことである。
 俺はこの日本の大人の大部分が知っていそうな番組名を忘れた。それで家庭内で一生懸命に説明をした。その説明がつまり「かっこいい人たちを追う体(てい)の番組」である。もしこの名番組のパクリの企画書を書くなら、俺は迷いなくそう打ち込むわけだ。
 まあ、なんで「体(てい)」なのかは、つまりその「カッコよさ」の強調が気になっているからだろうが、そこは今回置いておくとして、なぜ俺が『情熱大陸』ほどの有名プログラムの名を失念したかである。
 これは「症状」を分析してみてよくわかったのであるが、『情熱大陸』ほどよくわけのわからない番組名も実はないのだ。地球には六つもしくは七つの大陸があるとされる(※2)が、ここで指しているのはそれらの大陸のことではない。むしろそうした実質の大陸には収まりきらない"熱い"何かを示したいわけなのだろうが、しかし番組は必ず人を追うのである。大陸はどこに行ったのであろうか。
『情熱人大陸』が当初プロデューサーから出たアイデアではないかと、俺は勝手に推測する。それなら俺もうっすらした記憶をたどり得たのではなかろうか。
 同じパターンでペッパーがある。正確には『Pepper(※3)』と書くべきだったかもしれない。ソフトバンクが売り出したロボットで、俺が通っている歯医者の受付にも一体立っている。で、俺は自分の順番が来る前の短い時間に、その滑らかに動くピカついた物体をじっと見たのだった。
「なんだったっけ、これ?」
 俺はそう考えた。自分がいる場所はもしも歯医者でなければ「もの忘れ外来」に違いなかった。
 名の知れない白いロボットは誰にともなく愛想をふりまき、西洋人めいた仕草で手を開いたり首を左右に振ったりしている。なんだっけ? なんだっけ? 俺は先生に呼ばれる前に思い出しておきたかった。そうでないと自分の生きている世界がほんの小さな穴からガラガラと崩れていくような不安があったからである。
 だが『情熱大陸』めいた現象で、俺にはそのロボットがまさか「唐辛子」もしくは「胡椒」だとは思えなかった。もしも前者なら表面を真っ赤にして欲しかったし、後者なら一面が黒ないしは灰色である。真っ白いところがこちらが持つ唯一のヒントなのだから、そこは「スノーくん」とか「シュガー坊や」とか、なんなら歯医者にいることを考え合わせて「Mr.歯磨き粉」とかであって欲しい。
 したがって「いとうさーん」と声がかかる直前、思い出せるはずのない名前、「ペッパーくん」が脳から飛び出したのはまさに天啓のようであった。声に出してしまっても不思議はなかった。
「ペッパーくん!」と。
 歯医者さんも何事かと思うだろう。もし俺が大声を上げていたら、先生はやはりすかさず別の領域の病院に紹介状を書き出したのではないか。もうそっちには星野概念(※4)という主治医がいて、毎月カウンセリングをしているのだとしても。
「ペッパーくん」の横に「あいつら」とある。これがまた悲惨など忘れで、その下のカッコ内を見れば推測していただけると思うが、七夕だったのである。俺はこの風習がロマンティックな星にまつわること(※5)、地上で棚を作って祀る土着的信仰に関わること(※6)、カイコを使った製糸技術との古代からのつながり(※7)、そして牽牛織姫の性的なイメージ、もしくは能にも出てくるが二人の間にカササギの羽根の橋が造られる伝説の謎さ(※8)などなどにおいて忘れがたいものであり、毎年晴れるかどうかをそこそこ気にする。
 にもかかわらず、その「牽牛織姫」が出てこなくなり、ついには「あいつら」と呼び捨てたのであった。この事態にも、ステイホームで家にこもりがちな俺の症状につき合わざるを得ない妻が同席していた。
「あの、ほら、あいつら、誰だっけ? 晴れると天の川渡るやつら」
 これはひどい。せめて「あの方々」とか「ステキな二人」とかでおさめられなかったものだろうか。思い出せないおのれへの苛立ちで、俺は彼らを地元の不良みたいに扱っていた。
 しかもなんとか思い出した時、書にもあるように最初「牽牛彦星!」と言った。どちらも牽牛であった。七月七日、一人の男性神が晴れた星空の中、おのれに出会う。七夕はそういう物語であり、地上の子供たちはそのかなり自意識過剰な男神に向かって「世界が平和でありますように」などと切ない願いをしたためるのである。
 あるいは駅前のセブンイレブンの前などでたまっている「あいつら」に。
 隈研吾さん(※9)に関しては、実物とすれ違うのは二度目であった。一度は共に新聞書評委員をしていた頃のことで、年末の忘年会だったと思う。隈さんは遅れてきて、会場である銀座の中華料理屋のトイレの前に現れた彼に、俺はちょこんと頭を下げたはずだ。
 二度目はついこのあいだ、アウトドアブランドのスノーピーク山井梨沙社長が俺をイベントに呼んでくれて、その社の敷地の斜面の下から隈さんが現れたのであった。スノーピークが建設する新しい施設の設計を隈研吾が担当するということが発表された直後のことである。
 どちらにせよ、俺などはひたすらすれ違うのみで何をしゃべったわけでもない。だが、二回ともその現れ方は印象的で、その夜東京に帰った俺は「そういえばいつも活動的に急いでいる人なのかもしれないな」と、その姿をぼんやりと思い出した。
 しかし、お名前が出てこなかった。忘れるはずのない特徴的な名前であることも俺は理解していたし、昼間ははっきりと口に出してさえいたのである。まったく俺の「症状」はどこでどう出現するか、まるでその人物そのもののようであった。
 まるで思い出せずに一時間ほど、俺はもう自分の能力の低さに呆れたまま、検索もせずに事態を放っておいた。するとなぜかひとつの童謡が俺の唇にのぼっており、さかんにそれを繰り返す自分がいるのに気づいた。
「ある日、森のかげ。クマさんに出会った」(※10)
 なぜだ。なぜ、俺はこれを歌うのだ?
 考えてみれば出てきたクマさんは、自らお嬢さんに「お逃げなさい」と言う。そして逃げるお嬢さんを追いかける。一体全体、このクマさんは何をしているのか。落としたイヤリングを渡そうとしていることなど、当然俺は思い出せないから、状況の不条理さは童謡だとはいえはなはだしかった。
 そうやってしばし歌詞の世界に遊んだ俺は、もちろんついにハッとしたのである。
「あ、隈さん!」
 無意識が俺に教えてくれていたのだ。
 その隈さんの右側に細長く「ジマーミー豆腐」とあり、カッコして「ハモーニー」とある。これはジーマミー豆腐(※11)、あるいはジーマーミ豆腐の間違いであり、もともとこうしてふたつの呼び名があるがゆえ、俺はちっとも正しい呼称を覚えられない。
 落花生のことだというが、どうしても俺の頭には「滋味」が出てくる。おいしいから。その「ジミ」がまた記憶の邪魔をする。
 ここにもう一度書いてみる。
 ジーマミーは正解。
 ジーマーミは正解。
 ジマーミーは不正解。
 無理だ。俺には無理。
 ただジーマミーやジーマーミであるものをジマーミーと呼ぶのは、ハーモニーをハモーニーと言うようなものだという戒めを、ともかく俺はスケッチブックに書き込んだわけである。
 だが、たぶん一生無理だ。


※1 情熱大陸:TBS系列局で1998年から放送されているドキュメンタリーで、各界の一線で活躍する人物に密着取材をする内容。
※2 六つもしくは七つの大陸:ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南アメリカ大陸、北アメリカ大陸、南極大陸。ユーラシア大陸をヨーロッパ大陸とアジア大陸に分けて数えると7つ。
※3 Pepper:世界で初めて量産された感情を認識するヒト型ロボットで、店舗や一般家庭などで利用されている。
※4 星野概念:著者の主治医の精神科医で、たびたび「ど忘れ」について相談している。
※5 ロマンティックな星にまつわること:天帝により離れ離れにされた織姫と彦星の夫婦が、1年のうちで7月7日だけ会うことが許されたという中国発祥の物語。
※6 地上で棚を作って祀る土着的信仰に関わること:七夕は「棚幡」(たなばた)とも書き、故人を迎える精霊棚や、そこに安置する笹や幡(ばん)を拵えるという風習がある。
※7 カイコを使った製糸技術との古代からのつながり:中国では織姫がカイコの精で、彦星が牛の精だという民話がある。
※8 カササギの羽根の橋が造られる伝説:能では「天鼓」(牽牛、彦星の別名)という演目で、二星はカササギの架けた橋を渡って出会うとされる。
※9 隈研吾:日本の建築家。国立競技場、高輪ゲートウェイ駅など、国内外に多くの建築を手掛ける。
※10 森のくまさん:アメリカ民謡を原曲とする童謡。なお、一般的には「ある日 森のなか クマさんに出会った」とする歌詞が多い。
※11 ジーマミー豆腐:ジーマミー(琉球語で落花生の意味)を使った沖縄県や鹿児島県の郷土料理。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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