第5回
知られざる語尾戦争
2022.08.18更新
バカかヤバい人かの境界線
私の本業は書籍の編集なのですが、毎回、わりと悩むのが「この本の語尾をどうするか」問題です。
著者が古の賢者ならば「じゃ」、著者が犬ならば「だワン」などと比較的ステレオタイプで決めてしまうことができるのですが、犬でもネコでも古の賢者でもない著者の場合、語尾を「です・ます」にするか、「だ・である」にするかで迷うわけです。
言うまでもなく、語尾を「です・ます」にすれば、比較的やわらかい印象になりますし、「だ・である」にすれば、専門的で固い印象になります。
「この連載は語尾についてのバカバカしい話を書き綴ったものです」
と書くと、「ああ、著者はバカっぽい人なんだな」という感じになりますし、一方、
「この連載は語尾についてのバカバカしい話を書き綴ったものだ」
と書くと、「バカというより、なんかちょっと近寄ってはならないヤバイ人なのでは......」と一抹の不安を与えます。
ことほど左様に、語尾は重要です。
とはいえ、基本的には「学術的なもの、専門的なものは『だ・である』」というのが基本。この連載のように学術的でも専門的でも真面目でもないものに「だ・である」を使うから、上記のようなミスマッチが起きるのです。
一括変換の恐怖
あんまり意識されることはありませんが、編集者は意外と語尾を気にします。
たとえば、編集のイロハとしてよく言われるのが「同じ語尾を連続させるな」ということ。「日本はもうダメである。しかし、他の国ももうダメである。だとしたらもう、どこへいってもダメである」という文章なら、「日本はもうダメだ。しかし、他の国ももうダメである。だとしたらもう、どこへ行ってもダメなのだ」といったようにちょっとずつ変化をつけるのです。
困るのは、一度編集した後に「あれ、やっぱり『です・ます』のほうが良かったかな」と思ったりすること。
一度決めた語尾を一から直すのはなかなかのストレスです。
ワードの置き換え機能を使って、「だ」を「です」に、「なる」を「なります」などと変えていくという手もあります。ただ、若いころ一度、「これで一括変換したら一瞬で修正できるじゃん!」と思ってやってみて、痛い目に遭ったことがあります。
言うまでもありませんが、「だ」といっても、語尾の「だ」もあれば、「だから」「だった」の「だ」もあるわけで、そんなもの一発変換したらおかしくなるにきまっています。「だった」が「ですった」になり、「ダダイズム」が「ですですイズム」になる。間違ってそれで保存してしまい、途方に暮れたことを覚えております。
「ぼかし」との戦い
ただ、編集者がこだわるように、著者も語尾にこだわります。そんなとき、いわゆる「ゴビ戦争」が勃発します。
たとえば、こちらがリズムを考えて、「だ」「である」「なのだ」といった流れにしているものを、「である」「だ」「なのである」に変更してきたり。一瞬「せっかく整えたのに」と思いますが、こればっかりは「リズム」なので正解はありません。先ほど言ったような「同じ語尾の連続」だって、別に必ずしも不正解ではありません。「夏だ!海だ!かき氷だ!」みたいに並べたっていいわけです。
「です」「ます」の際によくあるのが、「ですね」「ですよ」など「ね」「よ」を付けて表現をさらに口語調にすることです。これは嫌がる人と多用とする人がはっきり分かれます。
もっとも、「ゴビ戦争」などと不穏なことを書きましたが、基本的には著者の指摘通りに直します。なぜなら、語尾は「著者のキャラクター」だからです。語尾はあくまで、著者のものなのです。
ただ、もう10年以上も前の話なので時効だと思うので書きますが、一人、本当に困った著者の方がいました。
語尾のほとんどを「だ」「である」から、「だと思われる」「であるかもしれない」と、徹底的にぼかしにかかってくるのです。
しかもわりと専門的な本なので、たとえば、
「Aという書類にはBを記載してCに提出すると考えられる」
というようになってしまい、「いや、本当に提出していいの!?」という感じなのです。
この時はさすがに、半分以上元に戻してもらいましたが、油断をすると次のゲラでさらにぼかしにかかってくる。まさに「ゴビ戦争」でした。
ぜひ、皆さんも「語尾」に注目して本を読んでみてください。
知られざる戦いがそこにあったりなかったりするかもしれません。
編集部からのお知らせ
特別寄稿「声に出して読みたいウクライナ語」
『声に出して読みづらいロシア人』の著者である松樟太郎さんに、特別寄稿「声に出して読みたいウクライナ語」をご執筆いただきました。ぜひ、本連載と、松さんの著作と、合わせてお読みください。