第67回
縮小しているのに成長している
2018.08.18更新
ある一人の成長を客観的に見ることって、案外むずかしいことかもしれません。個人にかぎらず、組織においても、きっと同じ。
「わ、大きくなったね〜」
なんて言われるのは、せいぜい高校生くらいまでのこと。身体的成長が終わると、「成長したね」なんて言葉を他者から言われることは、めったにない。師匠、みたいな人がいて、その人と数十年ぶりに再会、みたいなことがないかぎり。だから、わたしたちはつい数字というものに頼ってしまう。
「営業成績、先月より120%アップっすね」と営業マンは言われ、「利益は前年度と比べ30%減です」と組織で発表される。こういう数的指標を絶対視し、「経済成長」しないかぎり企業の存続はありえない。そして経済成長には人口増加は必須です。という考えが、新自由主義者と言われる現在の経済界(と政府)にはまだまだはびこっています。
それに対し、いやいやずっと成長なんて無理ですよ、地球だってほら有限なわけで、いつまでも開発・開拓できるわけじゃない、もういい加減、経済成長なんて言わないで、人間の身体的実感に即した生き方をしていきましょうよ、たとえば小商いとかしてさ、と言ったのが平川克美さんです(『小商いのすすめ』2012年刊)。もう少し言うと、国民経済という観点に立って「縮小均衡」をめざしましょう、ということを唱えておられます。
これ、つい「縮小」のほうに気をとられがちですが、大切なのは「均衡」です。「拡大」であれ「縮小」であれ、経済と生活(社会の安定と個人の幸福)が「均衡」していることが重要なんです。国民国家という単位で考えた場合ーー。
まあ、その国民国家というもの自体、世界中で行き詰まりが起こり、崩壊に向かいつつあるという状態ではあるのですが。そういう世界的流れを背景に、日本でも「均衡」が崩れてしまっている。その解決策として、経済界を中心に、なお「経済成長」というかたちでの均衡を求めようとしている。けれど、それは「均衡」の向かう先がまったくもって間違っている。というのは、そもそも、いまの日本では、有史以来初の人口減少が起こっています。これは、結果です。平川さんが『21世紀の楕円幻想論』のなかで述べているように、人口減少は、経済成長の足かせとなる原因ではなく、経済成長をしてきた過程でわたしたちが選択してきた結果、なのです。
原因と結果をはき違えては、おかしなことになる(現にいっぱい起こっている)。たとえば集中豪雨が起きて、被害がひどい。これは結果であり、これを踏まえて被災活動をしなければいけない。これに異論をはさむ人はいないはず。なのに、今の社会がおかしいのは集中豪雨が原因だからだ、と捉えたらどうなるでしょう? ちょっと、おいおい、と思いませんか?
いやいや、集中豪雨は天災であって、人口減少は天災じゃないでしょう、という人がいるかもしれません。が、集中豪雨だって、長い目で見れば、地球温暖化という人災の結果と言えるはず。どちらも、この百年ほどの人間の選択の結果起きたことです。
ともあれ、人口減少という結果を前提に、これからの均衡は求めなければいけない。これはもう、絶対と言っていいと思います。
しかし、この考えはなかなか経済成長至上主義者の方々には受け入れられないようです。少なくとも、政策に携わっている人たちや日経株価を日々気にしながら生きている人たちにとっては。
うーん、困った。原因と結果をはき違えて、間違ったかたちでの「均衡」を目指されたら、あらゆるところに歪みが生じてしまう。拡大均衡論者からすれば、発展、拡大すれば全て解決するわけだから、「ちいさなもの」への気配りなどどうだっていい。だから、どうしても言葉が雑になる。与党政治家たちの発言を見てればよくわかりますよね・・・(例を挙げることすら厭われますが)。もう、いい加減限界にきている。
そんな思いを日々抱いているわけですが、つい先ほど、こんなアイデアを思いつきました。
「小商い的経済成長」という概念を持ち込んではどうだろうか。
いえ、なにか具体的な指標というわけではありません。ただ、営業的数字以外の「成長」にもっともっと目を向けてほしいな、と思ってのことです。大人だって、身体的成長が終わった瞬間、成長自体が止まるわけではない。同じように、組織であれ、個人のしごとという単位であれ、数値化されない成長は日々、あるはずです。というか、小商いなんて、その連続で、それがあるからこそなんとか持っている、というのが本音なはず(実感込めて言いたいです)。
自社の例で恐縮ですが、この4月に入った新人ノザキひとり見ても、すさまじい成長をしている。使えなかったパソコンのソフトが使えるようになり(ちなみに僕は使えません・・・)、つい先日、『奇跡の本屋をつくりたい』という間もなく出る本をともに責了までもっていきました。編集デビューを果たす、わけです。だからといって、「稼げる」わけではない。数的評価が絶対視されてしまうと、稼ぎのできない動きは無価値にされかねない。けれど、それだと、新人を受け入れる、といったことがむずかしくなってしまう。人が育つ。という、本来、組織にとってもっとも大切な機会であり、喜びであるはずのものが失われてしまう。そんな事態が起こりかねないわけです。数字というひとつの評価軸しかもてないとすれば。
・・・・・・。
上田誠さんのことが言いたかったのでした。そのために書き出した一行目だったのでした。
「ある一人の成長を客観的に見ることって、案外むずかしいことかもしれません」。この一文のあと、ヨーロッパ企画の新作『サマータイムマシン・ワンスモア』について述べるつもりで書き出したら、ずいぶん遠くへ来てしまいました(どうしてだ?)。
気をとりなおして、再開します。
ある一人の成長を客観的に見るのって、案外むずかしいことだ。ただ、作家さんの場合、ときどきすごくわかりやすいかたちで、それが可能なときがある。それは、同タイトル、同テーマの作品を十数年のときを経て、つくりなおす、書き直すような場合です。
ヨーロッパ企画・結成20周年記念企画として、現在、15年前に再演された(初演は2001年)『サマータイムマシン・ブルース』と新作『サマータイムマシン・ワンスモア』が、同時に上演されています。先日、たまたま両作を1日のうちに観劇するという幸運に恵まれました。最初に『ブルース』を、あとで新作を観たのですが、まあ、どちらも面白いこと。ただ、新作の練り具合というか、構造の複雑さは、作・上田誠さんのこの15年の「成長」を感じないではいられませんでした。ふたつの作品を同日に観たからこそ、くっきりとわかりました。なんといいますか、ごっつい。実に、ごっつく分厚い作家になられたもんだ、と脱帽気味に感嘆せずにいられなかったのです。
こういう他者の成長を体感できることは、観劇者、ヨーロッパ企画のファンにとっては、たまらないものです。一方で、外のひとたちに伝えるのはとてもむずかしい。わかりやすい指標があるわけではないので。実際、観客動員数でいえば、毎回、満席です。今年にかぎらず、去年もその前もその前も・・。ということは、数字によって成長を評価するのは不可能に近い。ですが、一昨年の作品『来てけつかるべき新世界』を観たとき、「傑作だ!」と思ったものですが、その傑作すら超えてきたのが今年の新作だとわたしは感じてます。
その「超えた感」をうまく成長のひとつの評価軸としてつくれないものだろうか?
と考えていたら、気づけば「小商い的経済成長」というアイデアにまで飛んでいったのでした。 まあ、そんなふうにいろんな軸を盛り込んだ指標があったらなぁ、と思います。そうしたら・・
拡大均衡が可能となる!?
人口減少という結果を前提に、ちいさなことを大切にした、社会の安定と個人の幸福が訪れる。これまでの経済成長はないものの、それ以外の複数の軸が分厚くなるというかたちで「小商い的経済成長」が起こりつつ。実際に起きているのは「縮小均衡」なのに、経済成長論者たちも納得してしまっている。だって、数字が伸びているから! おお!
まあ、ひと夏の思いつきということで。