一晩でなんとかなりすぎる

第7回

ブチギレるために言葉を覚えた

2024.10.22更新

 公開中の映画『インサイド・ヘッド2』を観に行った。
 いわゆる「脳内会議」というのか、思春期の少女の頭の中で繰り広げられる思考を物語化したストーリーであった。「ヨロコビ」や「カナシミ」、「イカリ」、「ムカムカ」に「ビビリ」など、感情そのものがキャラクターとして登場し、彼らの軽快な掛け合いを通じて、主人公がとるいちいちの行動が決定づけられていく。
 中でも中心的存在に据えられていたのが「ヨロコビ」。もっとも重要な感情として、他のキャラクターたちをリードする役割らしい。名前のとおり、ポジティブで明るい性格の持ち主で、少し早計かつドジなところもあるが、その前向きなパワーで物語を前進させる。
 人間の複雑な感情の機微が、ポップな登場人物たちのペルソナを借りて見事に落とし込まれており、とても面白かったし、示唆に富んだクライマックスには実に感動した。
 鑑賞後、「きっと自分の脳内にも、似たようなキャラクターが住んでいて、日々めまぐるしくあれこれ会議を行っているのだろう」などととりとめのない妄想に耽りつつ、「でも、私の頭の中に、はたしてヨロコビっているか?」と、ふと疑問に思った。
 無論、いるに決まっているのだが、少なくとも映画に出てきたそれより確実に影が薄いと思われる。「自分のような下賤の者が、むやみやたらに喜ぶのは滑稽だしみっともない」という、かわいそうな卑屈の悪魔に憑りつかれているためである。強いていうなれば、泥酔しているときに限り、急に陽気な(そして拙い)マツケンサンバなどを踊りながら意気揚々と登場することもあるが、それ以外の平常時においては、「ヨロコビ」はかなり優先度の低い感情である。
 では、自分の中で主となる感情はいったいなにか?
 これはおそらく「怒られたくない」ではないかと考え至る。
 どこにでも「なぜか怒られやすい人」というのがいると思うが、私は昔から自分がこの枠にあてはまることを自覚している。別に際立って悪いことをしているわけではないはずなのに、どういうわけかよく怒られる。突如として発生する理不尽な怒られは防ぎようがなく、天災のようなものなので、これはもう体質と割り切っている。
 というわけで、これまで体験してきた怒られエピソードには事欠かないのだが、もっとも印象に残っているのは、大学時代、サンドイッチ工場でアルバイトをしていたときの出来事。
 はてしなく広い工場はありきたりな冬よりもっともっと寒く、ただでさえ心細い空間へ、さらに冷たく深いメスを幾筋か入れるように、おそろしいベルトコンベアがけたたましく稼働している。そこへ、作業員が大勢、鈴なりに並び、流れてくる食パンの上に、ハム、チーズ、きゅうりなど、それぞれ担当する具材をのせてゆき、大量のサンドイッチを完成させる、というのがこの仕事の内容であった。
 アルバイト初日、私はチーズ係を拝命した。薄切りの四角いチーズが何十枚かくっついたかたまりを手に持ち、それを一枚ずつはがしながら、食パンにのせていく。
 ところが、これが大変に難しいのである。チーズには粘り気があるので、たとえばおりがみの束などとはちがって、そう簡単にぺらぺらとはがれてくれない。途中でやぶれてしまったり、欠けてしまったりもする。もたもたしていると作業が遅れてベルトコンベアが止まり、そのたびに、全員からものすごく冷たい目で見られる。聞こえよがしにため息をつかれたり、舌打ちをされたりもする。
 冷や汗をかきながら、それでもなんとかコツをつかんで、ようやく役目をはたせるようになってきたな、とほっとしたそのとき。
「○%×$☆♭#▲※!!!」
 少し離れたところでサンドイッチの形を整える係をしていた、おそらくリーダーのようなポジションの女性に、ものすごい声量で怒鳴りつけられた。
 が、知らない国の言語だったので、なんと言われているのかがさっぱりわからず、とりあえず秘儀・めちゃくちゃ申し訳なさそうな顔を繰り出しながら「すみません! 頑張ります」と謝った。
 それでも、彼女の怒りはまったくおさまることがない。私がチーズを置くたびに、間髪入れず「○%×$☆♭#▲※%、%◎&@□!」と罵声を飛ばす。しかもだんだん文章が長くなっていく。まずい。確実にめちゃくちゃ怒られている。しかし、言葉の意味がわからないので、よくない部分を直しようもないし、詫びの意を伝えることすらできない。必然的に、あまりにも態度が悪すぎる奴になってしまっている。
 顔面に豪雨のごとき激しい縦線を入れながらも、とりあえず一生懸命作業を継続していたのだが、リーダーは激怒の果てに、とうとうベルトコンベアを一時停止させた。そしてつかつかとこちらへ歩み寄り、「○%×$☆♭#▲※。」と、心底呆れ果てた顔をしながらも最後のメッセージを伝えてくれ、そのまま、私はチーズ係をクビになった(その後、ハム係・きゅうり係・食パンを機械に投入する係・シール貼り係も次々とクビになり、各所たらいまわしの末、最終的には、完成したサンドイッチがおいしそうに見えるかを確認する係に落ち着いた)。
 そして迎えた翌日。「今日もサンドイッチがおいしそうか見るだけの係になれるといいな」と願いながらバスに揺られ、工場へ出勤したのだが、どういうわけか、前日とまったく同じチーズ係を言い渡されてしまった。しかもご丁寧に、昨日と同じリーダーが、昨日と同じ場所から、昨日より怒りに満ちたまなざしでこちらを睨みつけている。完璧な絶望というものをそのときに学んだ。
 再びの悪夢。恐怖のベルトコンベアが動き出す。
 どうしようもないので、おそるおそるまた食パンにチーズをのせたそのとき。
「チーズはパンの真ん中!」と、リーダーが叫んだのである。
 そこでようやく理解した。私は、チーズをかたまりからはがしてのせることだけに精一杯で、その位置にまで気をつけることができず、でたらめな場所に置いてしまっていたのだ。前日からの疑問がぱぁっと解消され、ものすごく強烈に腹落ちした。
 同時に、リーダーに対して、大きな感動も覚えた。彼女は、私にブチギレるためだけに、わざわざ日本語を覚えてきてくれたのである。
 しかし、考えてみれば前日、猛烈に怒っていたにも関わらず、それが一向に私に伝わらなかったときのリーダーは、どんなにイライラしたことだろう。繰り返し怒鳴って注意しても、きょとんとした顔でチーズを変な場所に置き続けるぼんくらアルバイトには、さぞかし腹が立ったに違いない。本当に申し訳なかった。
「怒りを伝える術がない」というのは、実に苛立つことである。我が身にもかすかに覚えがある。
 私が幼児のころのかわいいエピソードであるが、離乳食を食べていた当時から、食に対する執念がものすごかったという。「あーん」といって親が口に運んでくれたスプーンを、そのままくわえて離さないのである。「まだ言葉も知らないころから食いしん坊で、かわいかったのよー」などと生ぬるい評され方をするが、いま考えてみればあれは、怒っていたのだ。
「おいしいからもっと食べさせろ」という要望を、しかし、赤子であったために伝える言語を持たず、苦肉の策として、スプーンを口から出さないことにより表現していた。なのに大人たちは舐めた顔でデレデレ笑うばかりで、自分のリクエストが正しく伝わらないことにあまりにも腹が立ったため、この怒りを原動力に、言葉を習得していったのではなかろうか。
 人間は、ブチギレるために言葉を覚える生き物である。
 たしかに、自分がこれまで書いてきた文章を顧みても、「なんか筆がのっているな」と思うときは、たいていブチギレているかもしれない。どうしても伝えたい怒りがあるとき、言葉にほの甘い油がのり、きらきら輝く。いい文章を書くために必要なことは、才能や技術をさておいて、まずは「ブチギレ」ることなのかもしれない。
 すなわち、私のインサイド・ヘッドにおいて「怒られたくない」に操縦桿を握らせ、しょうもない怒られ回避ライフに精を出している場合ではない。
「ブチギレ」を推進力として据え置いて、頼もしいエンジンとして活躍してもらおう。きっと怒りに満ちた秀逸な文章を書けるよう、怠けることなくキレ続けたい。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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