第2回
町屋良平さんインタビュー 言語的凝縮を解き放つ(2)
2019.01.15更新
昨年読んだ一冊の小説に、鮮烈な印象を受けました。
町屋良平さんの『しき』。
高校二年生の青春が描かれている、にもかかわらず、読んでいるうちに、いい歳をした自分の体内に、彼らの体感が再現されるような、不思議な感覚。
作中、「きもちがのびやかになる。ひろやか~になる。」という一節が出てくるのですが、まさに、この作品を読んで、そんな気持ちになりました。
その後の最新作「1R1分34秒」が芥川賞候補にもなっている町屋良平さんに、『しき』について、小説を書くことについて、そして本屋さんについて、うかがいました。
■前編の記事はこちら
(聞き手、構成:星野友里、写真:須賀紘也)
直感で「こう」と思ったことが、そんなに間違ってないことが大事
―― 最初は物語に引っ張られるように読んだのですが、改めてじっくり拝読すると、エピソードの置かれ方などがすごく無駄なくみっちり詰まっていると感じました。書き方としては、後から削ったりされるのか、どういうふうにできあがっていくのでしょうか?
町屋 すごくうれしいです。この小説に関しては概ね一気に書いたと言っても差し支えないかなと思うんですけども、この小説には、削ろうと思えば削れた部分がけっこうあって、どれくらい無駄でどれくらい無駄じゃないかっていうのは読者との相性によるのかもしれないと思っています。あまり相性が合わない人からするとすごく冗長かも。でも僕は無駄を含めて全部要ると思っているから書いているわけです。結局自分が一番相性がいいわけですよね。もしかしたら読者の方で、もっと相性が良い方もいらっしゃるかもしれないですけど。
町屋良平さん
―― ご対談のイベントで、小説を書く前ではなく、書き終わった後に取材に行かれるというお話を少しされていたのが、どういうことだろう、と気になりました。
町屋 どちらかというと事前にみっちり取材して書かれる人に対する憧れみたいなのがすごくあるんですけども、自分は「書ける」ってタイミングでしか書けないんで、事前に準備するということがまだなかなかできていないんです。
で、後で確かめようと思って、だいたい小説の中で確認しておきたいことがいくつか出てくるんで、後で確かめるんですけども、経験上、そんなに大きな間違いって起きないですね。直感で「こう」と思ったことが、そんなに間違ってないっていうのが、けっこう大事な気がしていて。それが間違っているなら、やっぱり書かないほうが良かったりするのかもしれません。
なので自分は後で確かめて、結局直さない、ということが多いです。ここはもうちょっと材料としてリアリティがしっかりほしいな、というところは少し書き足したりはしますけども、そういうことは少ないですね。小説に書いたことを実際に体験する楽しさ、みたいな感じで取材することはあります。
前に書いたことを思い出せる時が、次を書ける時
―― なるほど。その「タイミングで書いている」というのは、さっきおっしゃっていた、日常の中で凝縮された思考が解き放たれる瞬間のような・・・?
町屋 これはあんまりうまく言えないんですけど・・・自分の場合ですと、小説をどう書き継いでいこうかっていうのは、頭の調子がすっきりしていたり、体がしっかり立っている時に、それまで自分が書いてきたことがぱっと思い出せるんですね。一気に、固まった形で思い出せるんです。前に自分が何を書いたかっていうことが、だいたい思い出せる時が来るんですよ。そしたら続きが書けるんです。
それで、もうこの次どうなるかわからない、というところでやめるようにしています。で、次書く時というのは、その次がどうなるかわかった時で、次にどうなるかわかった時っていうのは、また前に何を書いていたかとかを全部思い出せるように、同時になっているんですね。瞬間的に。そういう時に書く。なので書くべき体調を見極めるというのをすごく大事にしています。ダメなときに無理に書いてもほんと、ひどいんで。
―― へえー!
町屋 もう少し準備をしたり、しっかり思考を組み立ててから書きたいとも思っているんですけど、そういう方向性ではまだあまりうまくいってないです。
―― すごいですね・・・。『しき』は違うけれど、『青が破れる』などはスマホで書いた、というのも、そのぱっとやってくる書くタイミングでそのまま書けるからでしょうか?
町屋 そうですね。最近はツールも多様化してきて、いろんなもので書く作家さんも増えてくると思うんですけど。『しき』は三人称を使いましたが、自分は一人称の小説家だという認識が、いまはすごくあります。スマートフォンって、普段何においても使いますよね。便利ですし。日常的に友だちにメッセージを送ったり受け取ったり、自分が生きて文章を書くツールとして、もう、体そのものですよね。文体の一部みたいなものにけっこう根付いていて、自分にとってすごく一人称感のある機械なのかなぁ、と思っています。
『しき』をパソコンで書いたのは、一人称感をいったん離れようと思ったから、というのが一つの理由でありました。パソコンを開くと「よし、書くぞ」ってなるので、そうするといろいろ環境が変わってきますよね。いつ書くかとか、どう書くかっていうのも変わってきます。
―― 書く手法やツールも含めて、作品ごとに一つの塊のようなイメージというか・・・。
町屋 それがいわゆるコンセプト的なものでもありふつうの生活でもあると思います。
さくらももこさんの文章から伝わってくる光
―― 本屋さんのお話も、少しうかがえたらと思うのですが、子どものころで印象に残っている本屋さんはありますか?
町屋 もうなくなっちゃったんですけど、小学生の頃に通っていた黒田書店ですかね。文房具も売っている、わりと本当に町の本屋さんって感じで。ひととおりなんでも置きますよっていう感じでした。
―― それはご近所の?
町屋 そうですね。近所といっても、僕は埼玉県越谷市のせんげん台という町で育ったんで、なんでも自転車を使う土地なんですね。もうちょっと北関東に行くとそれは車になってくるかもしれないですけど。だから自転車で10分くらい、けっこうちょうどいいんですよね。自転車に乗ってどこかへ行くという気持ち良さとかもくっついた感覚になっていると思います。
―― その頃は、どんな本を読まれていましたか?
町屋 基本的には漫画だけです。子どもの頃からすごく読書していたというタイプじゃなかったです。
―― その頃に読まれた漫画の中で、ひとつ挙げるとしたら何が印象に残っていますか?
町屋 『ちびまる子ちゃん』かな。僕が文章を書くようになったきっかけも、さくらももこさんみたいなところがあって。『ちびまる子ちゃん』もずっと読んでいたんで、風呂でも読んでたんでふやけて、持つときに指でぎゅっと握ったりしてたせいか、ページが陥没しちゃってましたね。すごい読んでたなぁと思って。今もすごく読んでます。
―― さくらさんの作品の、どういうところに惹かれますか?
町屋 さくらさんの文章に関しては、自分でちゃんと興味を持って読んだ文章ってそれが初めてだったせいか、うまく言語化できない体験として強くあります。絨毯の上で寝っ転がりながら読んでいて・・・、なんかこう漠然とした言い方なんですけど、文章から本当に伝わってくる光みたいな、温かみみたいなのがあったような気がします。
それで自分も、学校でやってる作文みたいなのじゃなくて、なんか違うのが書けるかもしれないっていう感覚に、急になったんですよね。長い文章ってすごいかもっていう。それまではあんまりそういうことはなかったと思います。
―― そうだったのですね。文章を書いてみようと思われたきっかけがさくらさんの文章というのは、意外なようで納得な感じもしました。今日はたくさんお話をうかがわせていただき、本当にありがとうございました。
(終)