第7回
香山哲さんインタビュー「生活を大切にする漫画を描く」(前編)
2022.07.17更新
今回の「本屋さんと私」は、漫画家の
香山さんの代表作は、ドイツでの移住者としての暮らしを描いた漫画『ベルリンうわの空』。この作品を読んだとき、私(編集チーム・角)は、こんな漫画には出会ったことがない! と衝撃を受けました。
スーパーでの買い物も、日々のちょっとした会話も、貧困や差別の問題も、なんとなく心惹かれてしまう雑貨や街角の張り紙も、いち生活者の目線から地続きに描かれていきます。また、街の人びとはみんな、人とも動物とも植物ともいえないような不思議な姿をしています。
そんな香山さんの絵や言葉に触れると、社会の豊かさと困難を考えるきっかけが生まれるとともに、自分の弱さや好きなことを大切にして生活しよう、という感覚がじわ〜っと染み込んでくるのです。この世界はどうやって描き出されているのだろう・・・と気になり、ぜひお話を伺いたいと切望しました。
どうして「生活」をテーマにした漫画を描こうと思ったのか? 登場人物はどうやってデザインされている? 「小さいもの」から社会を考えるおもしろさとは? 2日間にわたってお届けします。
(取材・構成:角智春)
香山哲(かやま・てつ)
漫画家。ベルリン在住。『香山哲のファウスト1』が2013年に第17回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査員推薦作品に入選。『心のクウェート』がアングレーム国際漫画祭オルタナティブ部門ノミネート。おもな著書に『ベルリンうわの空』『ベルリンうわの空 ウンターグルンド』『ベルリンうわの空 ランゲシュランゲ』(ebookjapan 発行:イースト・プレス)など。現在、「香山哲のプロジェクト発酵記」(ebookjapan)、「スノードーム」(生きのびるブックス)を連載中。
自分と大勢を結びつける共通項が「生活」だった
――漫画は昔からずっと描かれていたのですか?
香山 はじめは、中学生のときにコンピューターゲームを作りはじめたんです。画面のなかで、たまごっちみたいなキャラクターがちょこちょこと動いてストーリーを進めていくようなゲームでした。自分でお話を書いて、イラストも描いて、音楽も作って、すべてひとりでやっていましたね。
――総合的に創作されていたんですね!
香山 ひとりでゲームを作るのはやっぱり大変で、人形劇にしたほうが楽なんじゃないかとか、映像を作ってみようかとか、いろいろと考えるうちに、漫画もいいかもしれないと思ったんです。
20歳くらいのころに漫画を描いてホームページに載せてみたら、たぶん数十人しか見ていなかったと思うのですが、「うまい!」と反響をもらいました。そこでしばらく練習することにして、古代が舞台の、旅人の物語のようなものを描いてみたんです。
――最初の作品はファンタジーだったのですね。一方で、『ベルリンうわの空』はご自身のベルリンでの生活を描いた作品ですよね。「生活」を漫画のテーマにしようと思ったきっかけはありますか?
(『ベルリンうわの空』シリーズ)
香山 いろいろなものを作ってみても、全然だめな時期があったんです。身近な人たちは褒めてくれるのですが、遠くにいる人にまで届くということがないままで。10年以上、漫画賞を獲ったりもしないまま、できることをやって暮らしていました。
そんな中、たまたま、生活をテーマにした漫画を描くのがいいかもしれないと思ったんです。
僕自身が好きなこととか、内面の葛藤を深く掘り下げて描いたとしても、個性が強く出すぎて、読者にとっては受けとりがたいものになってしまうかもしれない。でも、生活のことを細かく描いていく作品だったら、みんなと重なる部分が大きくなると思いました。
単純な共感とはちがって、「この視点でこれを見たことがなかった」というような感覚が得られる作品にしたかった。たとえば、「赤飯は私も好きだったけど、ケチャップをかけて食べる人は初めて知った」みたいな(笑)。僕にとっては「生活」が、自分と大勢とを結びつけてくれる共通項だったんです。
(『ベルリンうわの空』P8)
――たしかに私も『ベルリンうわの空』を読んでいるときは、自分にもこういう生活がありえるかもしれないと考えました。
香山 以前、自分が作ったゲームでも、「生活」に関係があるものを作っていました。ネズミたちが猫に集合住宅を占領されてしまって、それをお金で買い戻そうとするゲームです。ネズミは、暴力では猫に敵わないから。
――お金で住宅を買い戻すんですか。すごいゲームですね・・・。
香山 なんでわざわざこんな努力をしなきゃいけないんだろう? と感じながらお金を貯めつづけなきゃいけないという、けっこうつらいゲームですが、遊んでくれた人はいました。
でも、実際の生活のなかで、家賃やローンで苦しんでいる人はすごくたくさんいますよね。ゲームをやることで現実の問題が解決するわけではないですが、自分の気になっていることとつながっていて、見過ごせない根本的な問いをしつこく思い出す内容だったからこそ、遊んでもらえたのかもしれません。
自分みたいな人の背中を押せたら
香山 それから、僕のように日本で生まれ育った人にとっては、「生活」とか「自分」を大切にするということがけっこう足りていないんじゃないかとも感じていました。
『ベルリンうわの空』を描きはじめたときに僕は30代後半でしたが、自分の育った環境を振り返ってみると、他人に愛を注ぐためにももっと自分をちゃんと愛さなきゃいけない、といった視点がものすごく足りなかったなぁと。
(『ベルリンうわの空 ランゲシュランゲ』P99)
――『ベルリンうわの空』は「ケアマイセルフ」が重要なメッセージになっていますよね。自分の弱さとちゃんと付きあって暮らすことが大事だよなと思い出して、深呼吸できます。
香山 僕はぎりぎり昭和生まれで、小学校のころは年配の先生が棒で殴るとか平手打ちするとかがまだあった世代です。自分たち自身はセルフケアやメンタルヘルスの発想がほとんどない世界で過ごしてきたけど、いま、そういう考え方が社会のなかにやっと出てきた。そんな過渡期にある人たちの背中を押せる内容にできたらいいかもしれないと思いました。同じように感じている人は少なくないだろうから、テーマとしても通用するし、役に立てるかもしれないなと。
――香山さんがそういう視点を持つようになったのは、ドイツでの生活の影響が大きいですか?
香山 そうですね。ドイツで暮らしはじめたころは、自分もセルフケア的な発想が足りてなくて、堂々とできていないなぁと感じたりしましたね。ここで接する人たちは精神的に豊かで頑丈にできているな、訓練しているんだなと。
たとえば、問題が起きてしまったときの整理の仕方がうまい人が多いと感じました。自分のせいで起きたことと、事故で起きてしまったこととの線引きがうまい。嫌な出来事が自分にドーンとぶつかってきたときに、この部分は自分の生まれた環境のせいで、ここは相手のせいで、ここはたまたま運が悪かったせいで、残った部分が自分の至らなさによって起こったことだから、そこだけ反省して改善すればいい、みたいなふうに切り分けて考えるんです。あらゆる問題について、反射的にそういう受け止めかたをしているように見えました。
――自分を守るのがうまいんですね。
香山 そういう生きていくうえでの考え方のひとつひとつが、最終的には、社会制度や法律の設計ともつながっていると思うんです。暮らしの端々や、日常のコミュニケーションの隅々に、どういう社会になっているかが宿っていると感じます。
(『ベルリンうわの空 ランゲシュランゲ』P26)
香山 とはいえ、それぞれの人生に起こるような問題をうまく整理する思考は、ある程度秩序だった社会でないと成り立ちにくいと思います。たとえば、突然犯罪に巻き込まれたり、つねに命を脅かされたりするような場所では、問題の切り分けは何の意味も持たなくなってきます。ドイツ社会も、生まれや学歴などによる差別や格差があからさまに維持されてしまっていて、そういう意味では、すごく冷たい側面もあります。
失敗したとしても、珍しい漫画を作りたい
香山 ただ、こういうテーマはどうしても真面目な話になっちゃうので、扱うのは難しいだろうなとも思っていました。
――一息つくポイントを増やせるという意味では、漫画というかたちはすごくいいのではないでしょうか。
香山 『ベルリンうわの空』は3冊目までありますが、1冊目では読みやすさをかなり意識しました。2冊目・3冊目は、1冊目を気に入った人が読んでくださるはずなので、フォーカスをより主題に絞って、あえてエンターテイメント性が低い設計を目指しました。ホームレスや失業の問題など、深刻なテーマについて扱う量が増えました。それで手に取らなくなる人もいるだろうけど、より珍しい漫画にしていくというか。つまらなく感じたとしても、味わったことのない苦さとか、まずさに出会うようにできればなと思いました。
そういう漫画は説明や紹介が難しいから、売るのは簡単ではないとも思います。出版社が本の企画を作るときには、できるだけジャンルのわかりやすいものにすることが多いですよね。でも、そうすると内容の上限が決まってしまうし、単純に自分がおもしろく感じられなくなってしまう。だから、時間がかかったり、失敗したとしても、変なふうに作れたらいいなと思いますね。