第12回
知識としてのファッション- ALIE WEAVERという人物について
2018.09.11更新
6月末に東京の神宮前で"BEING AND TIME"(存在と時間)というタイトルの展覧会を行った。参加アーティストは2人の写真家 濱田大輔と、スウェーデン出身のJörgen Axelvall(ヨーガン・アクセルヴァル) 、そしてKLEINSTEIN(YUSUKE KOISHI + MIKI KOISHI)の3組だ。主催スポンサーの意向で、生と死にまつわる内容を展示することになったのだが、より抽象的に「存在と時間」に関する考察を展示するという場にすることにした。
展覧会をやることに決まったのが開催日の約6週間前だった。詳細は殆ど決めずにテーマを簡単に共有しただけだったが、不思議なもので、ある程度感覚が通じてしまえば大体のことが細かいところまでできてしまう。我々は3組で打ち合わせをすることは一度もなく設営の日を迎え、しかもキュレーションのイメージ通りの空間が完成した。
ヨーガンの制作、展示した作品は、『HERO』と『HEROIN』というタイトルの写真が2点。『HERO』は彼がウフィツィ美術館を訪れた時に撮ったアレクサンダー三世(アレクサンダー大王)の石像を写したもので、もうひとつの『HEROIN』は彼がニューヨークで活動していた時の死にかけているヘロイン中毒の友人の姿だった。ウフィツィ美術館にあるアレキサンダー大王の像は32歳で生命力溢れたままこの世を去った若者の彫像だが、この石像のモデルがアレクサンダー大王本人であるかどうかの歴史的根拠は定かではないという。その反面、確実に存在していたニューヨークの人間の「存在」は確かではある一方で、希薄であるというのがヨーガンの作品のテーマであり、展覧会タイトルの解釈だった。写真家の濱田大輔が撮影したのは、静的に捉えられた日常の存在の影のイメージ。普段通りすぎてしまう、何気ない日常。そこにひっそりと存在する生と死の影を繊細に切り取った作品は、鮮やかでありながら繊細なイメージで、木製のフレームのディテールの選び方は彼らしいものだった。
私たちが制作したのは、『NON-TRIVIALS』(非自明な人々)というタイトルの12枚のTシャツとドローイング2点による連作である。12枚のTシャツの背中には名前と背番号をプリントし、額装した。
BARTHES 80
DERRIDA 4
EINSTEIN 55
FOUCAULT 84
GROTHENDIECK 14
HEISENBERG 76
MARX 83
NIETZSCHE 0
SONTAG 4
TURING 54
WEAVER 99
WITTGENSTEIN 51
このリストに挙げられた名前は、今現在、頻繁に引用され、語られる人間たちである。EINSTEIN、DERRIDAやFOUCAULTといえば、おそらくアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)、ジャック・デリダ(Jacques Derrida)やミシェル・フーコー(Michel Foucault)であると察しがつく人も多いだろう。しかし、全員に察しがつく人は世界を探してもどれほどいるだろうか?
人間は古来から「何かを知っている」ことに重きを置いてきた。大昔、社会では書物が貴重であったし、一部を除いては多くの情報は口伝された情報を記憶し、暗唱することが知性の証明だった。ユダヤ人やイスラム圏のコミュニティでも聖書やコーランの暗唱は、古来から続く、尊敬を集める行為である。日本でも古来からそうだった。
抜群の記憶力を持つものとして称賛された人物といえば、『古事記』の編纂に関わった稗田阿礼だろう。『古事記』の序文には以下の様に記されている。
「時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。」
訳:一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』と『先代旧辞』を誦習せよ」と命じた。
(Wikipedia『稗田阿礼』の項目より)
およそ1400年前、文字を読み書きできる人間がまだマイノリティーだった時代である。読み書きのできる人間が特権階級に限られ、また読み書きの行為が知的だと考えられていたことは、想像に難くないことだが、大きな情報を記憶するというのはさらに一段上で一目置かれる能力だった。知識があり、それを蓄積できるというのは一つのファッションだったのだ。
さて、当たり前の様に書物が生まれ、膨大な情報へのアクセスが可能となった現代では、新たな知を創造することが崇高なものとされてはいるものの、その創造が困難であるせいか、今でも「知っている」ことが一般的な知性の、あるいはインテリの証明になっている。今では物事を知るための方法が多様化したこともあり、「知っているべきものを知らない」ことは知的怠慢としてより扱われてきているような気がしないでもない。昔は、論壇の中でインテリらしき人間たちがあれやこれやと論じ合い、時に相手の見識の欠落を批判していたものだが、最近ではインテリとされている知識人が、ちょっとした知識の欠落を理由にTwitter上で一般人に叩かれ、時に炎上しているのは見慣れた光景だと思う。炎上したコメントの応酬を見ていると、私は何故かポール・ニューマン主演の『タワーリング・インフェルノ』(1974)を思い出してしまう。
さて、展覧会の話に戻ると、『NON-TRIVIALS』の12人の中に、実は存在しない人物の名前がある。『WEAVER』である。「ALIE WEAVER」と私たちが名付けたこの人物は、私たちの創造した人物である。しかし、不思議なことにDERRIDA、EINSTEIN、WITTGENSTEINといった巨人たちと並べられると、「そういったカテゴリ」にいる人間ではないかと人は錯覚するものだ。まさにこの錯覚こそが、作品の意図だった。
今、何か知らないものがあると真っ先に使うツールはGoogle検索だろう(Googleがブロックされた中国では「Baidu」という検索サービスが一般的だが、VPNを使ってGoogleを使う人だっている)。
レセプションには大勢のゲストが集まったが、実際にここに挙げられた名前でわからない人物を見つけるとGoogleですぐに調べる人が何人かいた。何か知らないものを調べるという習慣のある人はこのALIE WEAVERが存在しない人物だとすぐに気が付いたようだ。「インターネット上で検索して出てこなければ、存在していないのに等しい」というのが今の現代社会である。逆説的だが、「インターネットで検索さえされなければ、架空の存在でも生き続けることができる」のが我々の住む世界なのである。既に死んでしまった、EINSTEIN、TURING、DERRIDA、GROTHENDIECKといった知の巨人の中に並ぶALIE WEAVERは、それを調べなかった人にとっては偉人として永遠に生き続けるのである。
作品がTシャツだったのは「虎の威を借る」という言葉をもじった皮肉でもある。歴史を振り返っても古今東西、死んだ偉人の威を借りて物事を語るのは人類史の中でまだまだ続く長い「ファッショントレンド」だからだ。
今日もあちこちで固有名詞を添えられたもっともらしい言葉が世界中に溢れ、咀嚼されることなく拡散されていく。知識に裏付けされた知性が否定されては元も子もないが、我々人間は今も昔も随分と怪しい世界の狭間を生きているのである。
濱田大輔
http://www.daisukehamada.com/
Jörgen Axelvall
http://www.jorgenaxelvall.com/
KLEINSTEIN
http://kleinstein.com/
All photo by Jörgen Axelvall
Exhibition "BEING AND TIME" 2018. 6.25 - 7.1
Sponsored by The Japan Memento Mori Association
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(左)
"Hero / Alexander / PolaroidⅠ20" (2018)
Archival Pigment Print / dry mount 72.9 x 91.3 cm
(右)
"Heroin / Niklas / Polaroid #033" (2018)
Archival Pigment Print / dry mount 72.9 x 91.3 cm
Artworks by Jörgen Axelvall
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"Untitled" (2018)
C-print Signed on verso 42.0 x 58.4 cm
Artworks by Daisuke Hamada
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(左)
"History of the Ignorance" (2018)
Mixed Media 50.0 x 70.0 cm
(中)
"The Formal Structure of the Question of Being, ALIE WEAVER" (2018)
Mixed Media 50.0 x 70.0 cm
(右)
"Non-trivials" (2018)
Silkscreen on cotton T-Shirt 42.5 x 52.5 cm
Artworks by KLEINSTEIN