犬のうんちとわかりあう

第6回

ぷよぷよの扱い

2023.12.13更新

 そのおしゃれなコーヒー屋さんで、私の心は窮地に立たされていました。

 ケニア、タヒチ、ホンジュラス。グァテマラ、ブラジル、エチオピア。友達への手土産にコーヒー豆でも、と立ち寄ったのですが、カウンター上のメニュー表を見ていると豆の選択肢がありすぎて弱りました。「どんなコーヒーがお好みですか?」能力の高そうな店員の人が語りかけてきます。好みの味を述べればそれに合わせて豆を選んでくれるっぽいのですが、いったいどう答えるのが正解なのでしょうか。そもそも、友達にあげるコーヒーなので私が好きな味を述べてもしょうがないかもしれないという葛藤が訪れたのち、とりあえず方向性を示さないと豆が買えないから、と去っていきました。苦めのが好きです、という言葉がすぐそこまで出かかっていましたが、酸っぱいのが好き、と言うほうがかっこいい気がする、と引っ込んでいきました。だいたい、苦いとか酸っぱいというような私の主観的な感想で、こんなたくさんの産地の中から豆が選んでもらえるものなんだろうか? なにか他の答え方があるんだろうか、という疑問も出てきました。そんないろいろが頭の中でぐるぐると渦をまいているあいだ、私自身はずっと「......。」という状態で店員の人の前に立っており、店員の人も私の回答を「......。」と待っており、もうこの沈黙を引き延ばせないギリギリのところで、「......このお店のおすすめを教えてください。」と声を絞り出しました。

 コーヒー豆を無事に買えた私は、店を出て、先ほど感じた「もうこの沈黙を引き延ばせないギリギリのところ」を思い返していました。「もうこの沈黙を引き延ばせないギリギリのところ」とは、私と店員の人が会話を成立させるうえで、これ以上沈黙が続くと気まずくなってしまう、という時間の区切りの話でした。時間の区切りだから目には見えないのですが、あのとき、これ以上言葉を発さないと何かが破裂してしまうような焦りを私は明確に感じていました。会話というものの中には、なにかそういうぷよぷよとしたかたまりが存在しているのだ、と思いました。場に応じてそれを膨らませたり、しぼませたり、適当にただよわせたりして、言葉と言葉のあいだにぷよぷよがあるのが、人同士の会話、なのではないでしょうか。

 一度、このぷよぷよの扱いを、ものすごく失敗した覚えがあります。

 ずっと前の引越しで、インターネットの解約手続きを電話でしたときのことでした。機器の返却や、解約日までの料金の日割りについて説明をしてくれたオペレーターの人がとても丁寧で、インターネットのことがあまりわかっていない私にもとても丁寧で、世の中に存在する人たちすべてに、この人はこんなにもやさしいんだろうか、と想像したら泣きそうになってしまい、説明が終了し、「ありがとうございました。」と言い合って、失礼しますと告げられた後も、なかなか電話を切ることができませんでした。私はスマホを持ったまま「......。」と、彼女のやさしさの余韻にひたってしまったのです。そんな私の目の前で、ぷよぷよは徐々に膨らんでいきました。ぷよぷよが破裂寸前になっても、私は電話を切ることができませんでした。ぷよぷよを無視して、電話を耳に当て続けました。オペレーターの人も私とのこの時間を終わらせたくないはずだ、と思い込んでいました。

「お客様」オペレーターの人が申し訳なさそうに言いました。「私どもは、こちらから先にお電話を切ることができません。どうぞ、お客様からお電話を切っていただけますでしょうか。」

 私は泣きそうな声で、別れを告げ、電話を切りました。恥ずかしさで消え入りそうでした。自分の感情の発露を優先し、会話を終わらせなかったことで、自分からは電話を切ることができないというシステムに縛られた相手に、気まずい思いをさせてしまいました。ぷよぷよを無視して起こった、人との会話におけるとても悲惨な事故でした。 

 あんな事故は二度と起こすまい、とコーヒー豆が入った紙袋を片手に歩きながら、私は、掘り起こしたかつての記憶を丁寧に埋め直しました。

 そして、人とコミュニケーションをとるということは、なんとスリリングなことなんだ、とも思いました。

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三好 愛

三好 愛
(みよし・あい)

1986年東京都生まれ。 イラストレーター。ことばから着想を得る不思議な世界観のイラストが人気を集め、装画や挿画を数多く担当するほか、クリープハイプや関取花のツアーグッズなども手がける。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)、『怪談未満』(柏書房)がある。ミシマ社が刊行する雑誌『ちゃぶ台』8号、9号、10号に「絵と言葉」を寄稿。

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