第10回
こうして「母」を身につける
2024.04.17更新
「ママ、大変!」
子どもを保育園に迎えに行ったら、保育士さんからそう声をかけられて、まさかまた子どもになにかが起こったのでは...と怯え、「え!」と返したところ「チャックが全開です」と言われました。私のズボンのことでした。
恥ずかしさの隣に少し懐かしい感情があったのは、「あ、本来の私、ここにいたんだ」とあいているチャックの向こうに「ママ」と呼ばれるのではないほうの自分を垣間見ることができたからです。「ママ」と「保育士」という役割の関係しかほぼ発生しない日常の中で、本来の自分の性質(チャックをよく開けたままにしてしまう性質)を、第三者に発見された体験は、ずいぶん久しぶりな気がしました。
名前と身体が距離をとり始めたのは、結婚をして名字を変えてしまったときからだったと思います。日常生活では旧姓を、書類上では新姓を、仕事上では旧姓を、病院では新姓を使い分けてゆく生活は、なんだか自分の存在がブレブレになってしまうようで、加えて子供を産んでみると、保育園や小児科では、もう完璧に新姓の人間で生きていかなくてはいけなくなり、1人の人間をブレさせて対応するよりは、分離して2人になってしまったほうが早い! と思いました。仕事をする時間と育児をする時間で、自分をうまく切り替えるため、1人増やすことにしました。そこで「母」という役割を背負った新たな人間が誕生したわけですが、いきなり「母」として誕生したわりにはあまりにも経験値が低い。社会の人たちみんなが思っている「母」という役割に、見よう見まねで演じながら慣れていきます。子育ては、愛情メインで語られがちなわりに技術として身につけなければいけない項目がかなり多く、とりあえず今までの自分みたいなものはかえりみず、演じる中で「母」を身につけてゆくことが、早急に必要そうでした。子育て以外の部分で培ってきた自分のことは横に置き、役割に身体をただただ慣らしていくためには、子どもを毎日生かすのだ、という明確な目標に向かってひた走れば良いわけで、余計なことを考えない分ある意味ちょっと気が楽だな、とも思いました。
けれど、ふとした瞬間に、それはたとえば「歯磨きしないと虫歯になっちゃうよ」とか「アンパンマンばっかり見ていないで早く寝ないと」と、自分が子どもに投げかけているときなんですが、自分の歯の管理すらしっかりしてこなかったし、夜更かしをして朝寝床から出られない甘美な背徳感は自分だって知っているのに、なんでこんなことをえらそうに言っているんだろう、とふと我にかえってしまって、そうするともう一方の自分がふわ〜と上のほうに現れ、「私」は今、全力で「母」を演じているんだなあ、と冷ややかに俯瞰してしまいます。
こんな気持ちでは「母」を真っ当できない、と思い、あわてて役割を演じる自分に戻りますが、違和の感触はそのまま残り、このまま演技を続けていって、この「母」役が身につきすぎてしまったらどうしよう。完璧に演じすぎて役が私になってしまって、旧姓を失い、新姓を失い、あげくに「◯◯ちゃんママ」という呼称しか残らなくなってしまったらどうしよう。そんなうっすらとした恐怖、のことを忙しい日常の狭間でぼんやりと思い、でもなんかまあ、自分のチャックもろくに閉められないうちは、「母」を完璧に演じられる日なんて別に一生こないかも、とも思い、いつも笑顔で「◯◯ちゃんママ、こんにちは~!」と接してくれる保育園の他の「ママ」たちを見ては、この「ママ」たちも少なからず私と同じような気持ちを感じていなくもないんじゃないか、と想像する毎日です。