第17回
贈るの苦手
2024.11.14更新
ここ数年、贈りものを選ぶ、ということが苦手というか得意でないな、と自覚するようになりました。誰かを祝福したい、お礼を言いたい、という自ら発した能動的な気持ちを、お金を使って相手を喜ばせるモノに変換することについて、なんだかその変換が、ひどく無茶なことのような、アクロバティックなことのような気がしてしまい、おめでたい嬉しいありがとう、の気持ちをそのままうまく凝固させ、格別おいしいお菓子かなんかにすることはできないのかなと思います。
特に旅先でのお土産や、誕生日のプレゼントなど、受け取る側も受け取ることを薄々勘づいている贈りものだと、やや構えられているその手元に向かって、いったいなにを投げればはまるのか、全然違う方向に飛んでっちゃったらどうしよう、と悩めば悩むほどわからなくなります。今までも、相手に良かれと思われなければという下心ばかり発動し、推測しすぎてよくわからなくなった結果、あげるまでにまったくなにも買えなかったり、現金をあげたり、ネットで入手した謎の素性のものをあげたりすることがありました。
誰かに何かをあげたいな、と思ったときに、自分が確固たる態度で良し、と選んだものを、相手もまた心の底から良し、と思ってくれるなんて、まったく奇跡みたいなことで、自分と相手が違う生き物である以上、そんなことは不可能なのでは、とものを選ぶ時点で諦めて、その場に座り込んでしまいたくなります。
しかし、ものを貰う立場に立つときは、相手の気持ちが潤沢に変換された嬉しいものを貰うことが大変よくあり、おおいに染み入る反面、私はこんな思いを誰かにさせたことが果たして今まであっただろうかと、心に小さな影が落ちます。受け取るこちらの構え方を正確に見極め、距離感も把握し、きれいにすぽっとはまるものを投げてくれる能力の持ち主には、もはや自分とは次元の違う生き物なのかもしれないと、恐れの念を抱きます。
つまり、ものを選んで贈ることって、きちんとお互い向き合って、相手のことを理解することが必要とされるから、日常を生きる中でもひどく難易度の高い、高貴なことなんじゃないかと私はずっと怯えています。
その人と出会ったのは、恵比寿駅前のプロントでした。
初めての新聞連載小説の挿絵の仕事がはじまるというタイミングで、これから一年かけて紙面上で行われる連載の流れ、挿絵の納品の仕方、新聞の印刷に適した絵の方向性、など一通り説明してくれたあと、編集者さんは、ギンと私の目を見て言いました。「三好さん、新聞連載のお仕事をするうえで、なにが一番大切なことか、わかりますか?」
なにか試されているのかな......と思い、毎日の新聞に掲載される挿絵だから、バリエーション豊かな絵を描くことですか? とモゴモゴ答えると、彼女は「いえ、ご自身の、健康です!」と、厳かに言い切りました。「一年というのは長いです。人生にとって、とても長い時間です。予測のつかないご病気や入院、女性の方は妊娠や出産の可能性だってあるでしょう。その都度、ご自身の体調を一番に優先されてください。スケジュールはそれに合わせて調整すればいいんです。」ギンから一転、慈愛に満ちた物言いに、私は、すっかり感動してしまいました。この編集者さんと一年間連載をともにするんだなあと、心強く、しみじみと思いました。
しかし、一緒にプロントを出る瞬間、彼女が突然「あっ忘れた!」と叫んだのです。
びっくりして「どうしたんですか?」と聞いたところ「お土産を買い忘れました!」とのことでした。どうやら打ち合わせに来る前に、私にお土産を買おうと思っていたのを今思い出したようです。私のほうはお土産なんて貰うとも思っていなかったので、言わなきゃいいのに! と思いましたが、編集者さんは心がおさまらない様子で、「今から買いましょう一緒に!」と言い出します。これから貰うお土産を一緒に買うのは絶対変だと思ったので、本気で断るも編集者さんは引きません。いらない私とあげたい編集者さんの押し問答は続き、解決しないまま、プロントを出たすぐそばに花屋があるのを二人で発見しました。すると彼女は「じゃあお花、お花を買いましょう!」と朗らかに宣言し、私も「えっお花もらえるんですか、欲しいかも〜。」となってしまい、あれよあれよと私に好きな花を選ばせて、小さなブーケをくれました。なぜ今自分が花を買ってもらっているのかいまいち飲み込めませんでしたが、彼女はお土産をあげることをまっとうし、私もお土産をもらうことをまっとうし、お互い一件落着という感じでにこやかにその場を離れ、そのあとおよそ一年間、私はその人にあたたかく見守られながら新聞連載の挿絵を描き続けました。
それがどんなお花だったのか、今となってはもう思い出せませんが、そのときの気持ちと感じはとてもよく覚えていて、なんか、ものをあげるって距離感をうまくはかって相手のことを思いやるだけじゃないんだな、というか、あの場ではものが人と人をつなぐ的な贈り物の価値が失われ、編集者さんのものをあげときたい気持ちが私のほうへなだれこみ、私がその気持ちにおぼれてしまい、お花をもらった嬉しさよりも、その人を面白く思う気持ちがずっとあります。
私はそれまで、贈りものをするということを真正面から端正に行うボール投げのように思っていたけれど、こういう巻き込み型の形態もあるんだな、と人生が元気になりました。
だからと言って、それで贈りものが得意になるかというとそんなことはなくて、まああの編集者さんみたいなキャラには一生なれないだろうしな、と思うし、ただ、贈り物をするっていうのはそんなに重く考えることではないのかもな、と少しだけ気持ちを刷新して、しかしこうして現在も、来たるべき友達の結婚祝いや誕生日プレゼントに、いったい何をあげれば良いのだろうかと、頭を悩ます毎日です。