第19回
転んだもっちりおばあさん
2025.01.15更新
年の瀬のスーパー銭湯は、とても混んでいました。
私は、こういうお風呂にはいるとき、いつもコンタクトレンズをしています。裸眼でも行動ができなくはない視力ですが、たくさんの裸体が目の前を横切っていくときに、それがクリアに認知できると、人間ではなく肉体という感じがして良いのです。おぼろげな見え方だと、目の前の肉体を気配として察知してしまい、気配として察知すると、気配を、人間だな〜と感じてしまい、なんとなくリラックスできませんでした。人間じゃなくて、詳しい肉加減があると、年齢とかによる少しの違いさえあれど、たくさんの肉が年の瀬に疲れを癒しに来てるんだな、と自分もひとつの肉として安心してその場にとけこむことができました。
自分とお湯との境目すらなくなってだいぶぼんやりしてきたころ、そろそろ出ようかな、と思いました。すると、近くにいたおばあさんが転びました。おばあさんは、ジェット噴射のお風呂に入るため、階段をのぼるところでした。階段で足をすべらせ、転び、お風呂の中でたゆたゆとゆれていたたくさんの肉たちが、びっくりしました。おばあさんは、なかなか立ち上がれないようでした。
人が目の前で倒れることって、たまに、あります。最新の記憶で人が倒れるのをみたのは、このあいだの夏のことでした。歩いているまっすぐな道の遠くのほうで、自転車にのった人が、ふらっとよろめいて倒れました。まわりで歩いていた複数の人たちが順次駆け寄り、抱え起こしているのを見た私は、このままのスピードで歩いていったら渦中に飛びこんでしまう、という焦りのようなものをいだき、確信犯的にやや歩みをゆるめたのでした。
そのときの記憶が、今の私を底上げしました。私は、まさにそのジェット噴射のお風呂に入っていたところで、転んだおばあさんから、二番目の近さにいました。ここぞ助けるとき、と感じ、人助けをゆるやかに拒否してしまったかつての自分を更新すべく、おばあさんのもとへと急ぎました。体を洗う用のタオルを手で持ってはいましたが、前を隠すことは状況にそぐわないように感じ、中途半端にひらひらさせながら駆けつけました。おばあさんの背後にいた、一番目に近かった人はタオルで隠すことなんて気にせずバーっとやってきて、おばあさんを助け起こしました。「痛みはどのあたりですか、腰のあたりですか、動けますか、立てませんね」と的確におばあさんを確認し、患部に自分のタオルをかぶせました。おばあさんは「あいたたた、手すりはちゃんと掴んだんだけど、」と悔しそうに痛がっていました。確かに、今からお風呂につかって極楽な思いをするはずだったのに、突然痛くなってかわいそう...とすでに多様なお風呂を堪能していた私はかなり同情的な気持ちになり、しかし、一番目の人がいろいろやってくれていたのでやることがなく、全力をこめて、大丈夫ですか......と言う顔つきをしながら、おばあさんが転んだはずみに手放したタオルを拾いあげたりしていました。しゃべれるが動けないおばあさんの様子を見てとった一番目の人は、そのまま一糸まとわぬ姿でスタッフの人を呼びに駆けていきました。おばあさんは変わらず同じ姿勢で「あいたたた」と倒れていて、私がいても役には立たなかったんですけど、一人でここに倒れているのは心細いかもしれないし、という理由で、そばに残りました。服を脱いでいる私たちは同じ場にいる似たような肉たちだけれども、駆けていったあのひとは俊敏な肉だ、と思いました。おばあさんは倒れている肉で、私はその横にたたずんでいる肉だ、と思いました。おばあさんは、すごく白くて、ふくよかで、肌がもちっとしていました。ずっと、大丈夫ですか......という顔をしてても事態は改善できないので、私は横座りで両手を床についている体勢のおばあさんにそっと手を添え、「なんか、もっと楽な体勢になっても良いんじゃないですか、床にべちゃっと寝転んじゃったりとか」と声をかけてみました。ただ、これが本当に相手の身体のことを想像できていなかった言葉で、それを素直に受け取ったおばあさんは、両手をのばして上半身を支えることをやめようとし、しかし、体勢を変える、ということ自体が新たな痛みをもたらしてしまい、また「あいたたた」と言いました。私は慌てて「大丈夫です、すみません、そのままで大丈夫です」とおばあさんを元の体勢に戻しました。なんか、私は今おばあさんを助けることなんてできてないのに、おばあさんを助ける構図にはなってしまってるんだ、と実感しました。そういう構図になると、助けられる側は助ける側の言うことをそのまま聞いてしまうんだ、と思いました。助けてないのに、私の言葉を信じ込ませてしまう環境をつくって、なんて身勝手なんだろう、と思いました。
手を添えたときにしっとりと残ったおばあさんの肌の感触だけが生々しく、永遠かと思う時間が過ぎたころ、一番目の人が戻ってきました。今、スタッフの人呼んできましたからね、とその人は言うと、「痛いままですか、しびれはありますか」とおばあさんに問いかけました。その物言いに、この人は、おばあさんの肉体の内部のことまで十分に想像できているんだ、と衝撃を受けました。私は、おばあさんが転んだ、という状況を受け止めることしかできなかったけれど、一番目の人は、見えているおばあさんのさらに奥の、神経が大丈夫かなんてことまで思いやっていたのです。
やがて、服を着たスタッフの人がやってきて、「はーい、立てる? 立てないね、車椅子持ってきましょっか」とサバサバ話しかけ、おばあさんは車椅子という言葉にビビり、「そこまでは大丈夫です!」と言い、「だったらすぐ隣にあるベンチにうつれる? そこに座ることを目標にしてみよう」と銭湯での客の転倒に超絶慣れている様子でスタッフの人は言いました。一番目の人とスタッフの人がおばあさんの右半身をささえて左隣にあるベンチにスライドさせようとし、私は左半身を支えようとしたら逆に皆の邪魔になって身を引き、よいしょと、おばあさんは、無事ベンチに座ることができました。場はおさまり、まわりで見守っていた人たちもそれぞれのリラックスに戻り、おばあさんとスタッフの人が、一番目の人と、私にも一応お礼を言って、その場は解散となりました。
私は、そのまま脱衣所へ逃げ込みました。全然、うまく助けられなかったな、と思いました。ただ駆け寄っておばあさんの横にわずかな時間、たたずんだだけだった。変に手を出して失敗してしまった。「助ける」ってむずかしい。とは言え今回は「駆け寄らない」という選択はすべきでないと思った。ただ、わざわざ「助ける」ことをしに行ったのに、そのあとの自分の行動については受け身で、おばあさんの体に想像を働かせることができなかったことを、後悔しました。お正月にお餅を焼くたび、おばあさんのもっちりとした肌を思い出しました。もう一度、倒れた誰かを助ける場面があるときまで「しびれはありますか」という文言はきちんと覚えておこう、と誓いました。
そしてやはり、この件が深く心に刺さったのは、助ける側も助けられる側も特に助けていない私も、みんな全裸だったからなのでした。普段の私だったら、一番目の人が着ている服装なども加味し、こんなに的確におばあさんを救えるなんて、ひょっとしたら看護師さんなのでは? なんてことを推測してしまい、気が引けて逃げ出したかもしれません。そういうのがなくて、一番目の人の全裸の体から発せられる助ける力の高さに、同じく全裸の私はただ、すごい、と思い、助けられたおばあさんもまた全裸、という状況がありました。社会における役割とか、見た目とか、性格とかの差が弱まり、肉としての私たちが引き立てられ、だから、助けるにしても助けられるにしてもそれぞれの立場って肉が違うだけなんだ、と思い、違う肉なだけである私たちが、ひとつの世界を共有している以上、助けたり助けられたり助けなかったりというのは、私たちのあいだをつねにぐるぐるまわっていて、流動的なものなのかもなあ、と思いました。