自分の地図をかきなおせ

第12回

《移住を生活する》能登半島編その1

2020.11.23更新

 11月17日の夜7時。僕は石川県かほく市にあるファミレス「ジョイフル高松店」にいる。この連載の第3回および第4回で記事にした、発泡スチロールの家を肩に担いで歩き、敷地を借りながら移動生活をするプロジェクト《移住を生活する》を能登半島で行っている最中である。金沢21世紀美術館をスタート地点に能登半島の先端にある珠洲市を目指して歩いている。今日で5日目なのだけど、ものすごいスピードで色々なことが起こっては過ぎ去り、一つ前の記憶を処理し終える前に次のイベントが起こってしまうということを繰り返しており、毎日必死で日記を書いている。特に今日はすごかった。結構面白いので、この5日間の日記を第12回の連載とさせていただきます。


11月13日

 金沢市の大野という港町にある「ヤマト醤油味噌」の敷地内、倉庫と職員用トイレの前に置いた家の中にいる。床下は鉄製の網で、この会社の5代目山本さんは「鉄で冷たいんじゃないか」と心配してくれたけれど、実は網で空気層ができる分、アスファルトよりもよほど暖かい。遠くで職員さんが話しているのがわずかに感じられるのと、時々何かをあけるような物音と、少し離れたところで車の音が聞こえるくらいで、とても静かな環境。

 今日、金沢21世紀美術館を出発し、能登半島の最先端珠洲市に向けて歩きはじめた。お昼12時過ぎくらいに美術館の大勢の人たちと展覧会設営を手伝ってくれた人たちと、撮影に来てくれたジョンに見送られながら出発して、ここまで2時間半くらいか、10キロもない距離だと思うけど久々に歩いたので足に疲れを感じる。今回はGoProなんかも持ってるから荷物も多いし、重いのも理由かもしれない。道中の十数分間、新聞社の人に歩きながら取材を受けたのだけど、記者さんが頻繁に「今回の旅で楽しみなこととかありますか?」とか「今回の旅ではどんな場所に寝るんでしょうか」とか、「今回の旅」というワードを出してくるので、「移住を生活する」は旅とは違うんだけどなと思いつつ、今回の移動生活はけっこう旅なのかもしれないとも感じる。展覧会の「テーブルトーク」というイベントのために来月の18日までには金沢に戻らなくちゃいけないので、今回は「帰る場所」があるから、僕はそのあいだこの家のようなものを担いで歩く旅をするのかもしれない。

 さて久々の移住日記でなにから書いたものか、移住を生活するときは必ず持ち歩いているこのパソコンは、ここ数ヶ月通常使いしていた大きなノートパソコンよりもふたまわりくらい小さいのでキーボードの位置が手になじまず、思い通りのスピードでタイピングできないのでそれがちょっと書くことを妨げるのだけど、まず書くべきことは、このヤマト醤油の「しょうゆソフトクリーム」はものすごく美味いということだ。2年前に展覧会設営で金沢に来た時に初めてひがし茶屋街にあるヤマト醤油の店舗でしょうゆソフトを食べ、その美味しさに衝撃を受けたので今回も展示設営期間中にひがし茶屋街へしょうゆソフトを食べにいき、これがめちゃくちゃ美味いんですよという話を、展覧会オープン2日目に写真家の木奥さんと学芸員の野中さんと話していたのだけどそしたらその日の夕方に、僕の展覧会の会場で「面白いですね」と話しかけてくれた人がこのヤマト醤油味噌の5代目山本さんだったという奇跡から始まった縁の連鎖によっていま僕はここで敷地を借りている。山本さんは面白いですね、と言った後に「僕の家はずっと金沢で仕事をしているので、面白いなと思って」というようなことを言っていて、その言い方から直感的に「代々この土地で商売をやっている家の人なのかな」ということは感じたのだけどまさかついさっき話をしていた醤油屋さんの人だとは、そんなことあるのか。

 そういえば今日は美術館を出発するときに「村上さんですか?」と聞かれて「はい」と言ったら「双葉中ですよね?」という想定外の質問が飛んできて、僕は葛飾区立双葉中学校卒業なので「え、双葉中ですけど・・」と返したら「僕も双葉中です」と言われ、おいおいまじかと思うまもなく「同級生です。吉浦です」と彼が言うので、振り返って顔を見たら3年の時に同じクラスだった吉浦くんがそこに立っていた。そんなことあるのか。20年ぶりに会った。マスクをしていたけど、間違いなく吉浦くんの顔だった。観光で来ていると。「じゃあ」と言って数秒挨拶して別れた。恐ろしいことはあるものだ。

「え、これなに?」

「これなんか、人が住んでるらしいっすよ。金沢21世紀美術館でもやってるらしいっす」

「え、ほんと?」

「ほんとらしいっす」

「なんもないから、触らないで下さいとかもないん?びっくりした、犬小屋できたんかと思った。わからん。現代アートはわからんわ」

 という声がすぐ外から聞こえる。こういう時どうしたらいいんだろうというのはもはや永遠の問題だ。先方はまさか中に人が入っているなんて思っていないだろうから、僕が中から突然「あ、中にいますよ~」とか言ったらものすごくびっくりするだろうしちょっとやりたくないし、かといって黙って聞いているのも悪い気がする。どうしたらいいものか。これに関してはラジオでもやってリスナーから面白解決策を募集したい。

 美術館でみんなに見送られる時に、アーティストで数年前から一緒に仕事をしているジョンさんに映像を撮ってもらったのだけど、見送る側十数人が全員マスクをつけていて、僕もマスクをしながら家を担いでいて、それが映像に収まっていると思うとすごくコンテンポラリーなものが撮れた気がする。しかしマスクは邪魔だ。このコロナのパンデミック事態になってから、「移住を生活する」の持ち物にマスクが加わって面倒だ。不織布マスクしか持ってないから何枚用意しておけばいいものか迷ってとりあえず5枚持ってきたけど、いよいよ洗えるマスクを買った方がいいかもしれない。

 美術館から海の方へ向かうバイパスを歩きながら、「本屋プラグラジオ」の「上方落語の話」という回で桂文五郎さんが弟子入りの際の苦労話なんかを聞きながら歩いてたら「21世紀美術館の展示を見ました」という人が3組、声だけ遠くからかけてきた1人と、吉祥寺に住んでいるという旅行客と、東京から3年前に越してきたというお母さんと子供2人と会った。お母さんは展覧会を見て「東日本の震災のときは私も同じようなことを考えてたけど、なんかいまではすっかり定住しちゃって・・・展示であのころのことを思い出しました」と言っていた。「僕もこの活動によって思い出させられています」と言った。お母さんは、「展示で見た家が歩いているのを道でたまたま見つけて、子供を引っ張って走って追っかけて『村上さんですか!』と呼び止めたはいいけど、いざ目の前にすると何話せばいいか」みたいな感じに一瞬なっていた。

 あと僕の本を読みましたという人が車から1人声をかけてきた。しかし金沢の街中をでて1時間も歩いたらそういう人には会わなくなった。

 こうやって歩いてると、ふだん自分がいる「都市部」とか「街の中」ってのは本当に僅か、人が大勢いるエリアはごく一部だということがよくわかる。街の中心部を出てちょっと歩くとすぐに車だけが走っていて人にはあまり会わないバイパスに出るし、もう少し行けばきっと道の両側が山で道路だけが真ん中にずーっと続いているようなエリアに出る。そこを1人で歩くことになる。こういう「土地の比率」を思い出せるのはこのプロジェクトのいいところで、それは少し「楽しいこと」かもしれない。基本は街に暮らしているので世界が街で閉じてしまっているけど、この人口密な国だけでみても、土地のほとんどは山とか川とかだし、そのごく一部が道路になっていて、さらにその一部が街になっているに過ぎない。

 数日前に「移住を生活する」は緊張するし疲れるし大変なんだけど、「両側が山で、真ん中にアスファルトの道路だけが続いてるようなところを歩くこと」はちょっと楽しみにしてるな、と自分で気がついた。それはなんでだろうって思っていたけど、たぶん土地の比率を思い出せることも大きい。街の中を歩くのは嫌だ。人の目があるから。

 ともかくそんなふうにしてヤマト醤油味噌に到着して山本さんに電話し、お父さん(4代目山本さん)にも挨拶して、敷地をいまの場所に決めた。お父さんは「電源がいるじゃないか」と言ってドラムコードをわざわざ持ってきて僕の家の前までセッティングしてくれた。ありがたい・・・その電気のおかげで、こうして僕は長々とパソコンを開いて日記を書くことができている。その後、暗くなる前に絵を描かねばということで絵を描きに大野の街へ紙とペンを持って繰り出した。

 夕方、といっても4時は過ぎているので夜に近い暗さの時間帯で、橋のうえに立って家の絵を描いた。橋は歩行者専用のと自動車専用のが並行して2本かかっていて、なんとも言えず良い雰囲気で、時々学校帰りの小学生とか買い物袋をカゴに乗せた自転車のおばちゃんとか車が通ったりしていて、でも印象としてはとても静かで、それは風がないことが大きかったかもしれない、川の水面は凪いでいて、向こうの海沿いにかかっている橋の外灯がオレンジ色に反射していて、うしろからクアックアッという海鳥の声、空にはウミネコらしきものが羽ばたいている。ここはそれほど長い橋じゃないから下は川のような見た目なんだけど、正面数百メートル先にちょっとだけ海が見える。しかし後ろにも港が見えている。ヤマト醤油があるエリア(つまりいま僕がいえるところ)はお台場みたいに大野の街から分離しているので、橋から見て後ろにも前にも海が見える。そんな川のような海の両岸に、ざっと100くらいの漁船、暗いからよくわからないけどほとんど全部イカ釣り漁船に見えるそれがずらっと並んでいて、そのうち一隻の漁船の前でさっきから出航の準備なのか、女性と男性、ちょっと若く見える女性とおじさんの二人組が岸にしゃがみこんで何か作業をしたり忙しなく動き回ったりしていた。橋の上の電線には切れた釣り糸がぶら下がって、下の漁船の方からは人の話し声だとわかる音。左の空、大野の住宅街に続く道の上が赤紫に染まっていて、道の左には宝生寿しという寿司屋の看板が光っている。とても目立つ。正面の海沿いの橋の左手にはさっき4代目山本さんが教えてくれた防風林が日本海からの風を防ぐためにあって、そのなかには千二百年以上の歴史がある神社があるらしい、絵を描くのを暗さで中断してからぐるっと大野の街を歩いて回ってみたけど、神社までは行けなかった。

 イカ釣り漁船は、どれも大体細細長いハロゲンランプを大きくしたような電球が船体の上にたくさんぶら下がっていて、船室の上には色々なアンテナらしきものがついている。昔新潟の道の駅で敷地を借りた時、夜に漁火が海の向こうに見えて、海と空の見分けがほとんどつかない真っ黒な本当に茫漠とした空間のなかに漁火だけがいくつか見えて、あそこでいま漁をしてるんだなって思ってた、その漁船がいま目の前にこうして並んでいる、と思うとすごく長い時間をかけてここまできたような気がする。

 しかし風がほとんどない。海の目の前なのに。

 5代目山本さんが、もしよければ晩ご飯一緒に食べましょう、大野の醤油ラーメンの店があるんで、と誘ってくれていて、「僕の家の前に19時集合にしましょう」と僕が約束をした時間が近づいて家に戻ってくる最中、港がすごく明るくて綺麗な白い光が並んでるなと思っていたが、これもイカ釣り漁船の光だった。しかし後で山本さんに「イカ釣り漁の船、綺麗ですね」言ったら、今の時期はカニかもしれない、と言っていた。

 「大野湊食堂」という、素晴らしい中華料理屋で、途中からは山本さんの3歳からの幼なじみの人も合流して、街中華の手本のような見た目の醤油ラーメンや餃子などを食べてから、僕の家の前でジョジョの話やハンターハンターなどジャンプ漫画の話で盛り上がり、その後子供が言うことやることが面白い、という話をして「おやすみなさい」と別れた。

 そういえばラーメンを食べてる途中に急に雨が降ってきて、僕は家の外に置いてあるドラムコードにパソコンの充電コンセントを差しっぱなしだったので、店の傘を借りてあわてて戻ってコンセントを抜いて帰ってきて、そのままラーメンの続きを食べた。とにかく急に天候が変わる街だ。この街の人たちの多くは「1日の天気予報」を見るだけでなく、ヤフー天気や「雨かしら」というアプリを携帯に入れて雨雲の動き予想も睨みながら生活している。僕は家を担いでいる間は雨に濡れないけど、家を置いて外に行きたい時は傘が必要なので持ち歩いた方がよさそうだ。

 5000字近く書いてしまった。もう0時14分。寝なければ。

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11月14日

 昨日、村上家の前で5代目山本さんとその幼なじみのしゅんさんと三人で立ち話をしていて、僕が山本さんにラーメンをご馳走になったお礼を言った時にしゅんさんが「俺こそ(村上くんに)お金払った方がええんちゃうか」と言ってくれたのは嬉しかった。「こんな面白い話をたくさんタダできかせてもらって・・」と。僕はなんだか楽になった。このプロジェクトは、人が所有している敷地を借りるという点において、常識的な感覚では「世話になる」と感じるのを避けられない。僕は自分のロジックを組み立てることで、そう感じることに抗うようにしている部分がある。この台詞のおかげで楽になったし、これからもこれを思い出しては自分に聞かせることのできるお守りのような言葉。

 昨日は他にも「大野湊食堂」で「目的地まではやく行かないと」ということを考えすぎると辛くなってしまうという話を僕がした時に山本さんが「カーナビは引き算だから辛い。あの、残り何キロ、という表示が嫌だ。目的地には、足し算で向かいたい」という話をして、足し算のカーナビがあったらいいのではないかという議論になった。「もう150キロも走りましたよ」「もう151キロも走りましたよ」と、たえずドライバーを励ましてくれる。

 2日ぶりに風呂に入ってかなり回復したけれどなんか疲れている。昨日も今日も10キロくらいしか歩いていないんだけど、屋根の厚みを足したことに加えて、荷物も冬仕様かつGoProなどのカメラもあるので家が重くなっている。あるいは、単純に歳のせいか、久しぶりにやっているせいか。今は内灘町の「ほのぼの湯」という、河北潟を望む展望室のような温泉に入れる、公営の施設にいる。休憩室として使える畳の大広間の脇の、1段降りたカーペットのエリアに置かれたソファに座っているのだけど、目の前には河北潟の対岸の白とか黄色とか赤とか青みがかった白とかの光が、それはもうはっきりと「瞬いている」。河北潟自体は真っ黒い空間がそこにあるだけで見えない。

 この温泉でも敷地交渉したのだけど

「道の駅はダメなんですか?」

「道の駅も通ったんですけど、ちょっと道の反対側だったんで、ここまで来ちゃいました」

「ここねえ、基本的に夜、駐車しないんですけど。道の駅やと、他の車も結構停まってるんですよ。夜中ずーっと。やし、できたらそっちの方がいいかな。ここ、ちょっと夜それ・・・」

「あったら不審な感じになっちゃいますか」

「うん・・・ちょっとこちらではまずいかな、っていう。トイレもないしね。申し訳ないんですけど・・・」

「わかりました。じゃああとでお風呂に入りにきます」

「それはぜひ、お越しください」

「何時までやってますか?」

「9時半で閉まってしまうんで。遅くても9時までには入って欲しいです。まあゆっくり入りたかったら8時半くらいに」

「わかりました」

 ということで敷地は断られたのだけど、このときなんとなく、本当になんとなくだけど「この先能登半島では、親切な人が多いかもしれないな」と思った。敷地の交渉がうまくいきそうな気がすると思った。気候が厳しいからか、親切にすることに慣れているような気がした。

 そんで家は今ここから歩いて5分ちょっとのところにある道の駅に置いてある。ものすごく眺めが良いところに置いてある。内灘大橋という斜張構造の大きな橋と、河北潟の対岸の夜景が一望できるくらい、ものすごく眺めが良いところである。風が強かったらあんな吹き曝しの場所に発泡スチロールの家なんて置けたもんじゃないけど、幸い今日から明日にかけては風速3、4メートル程度らしいので置くことができている。

 ちょっと夢を見ていたのかもしれないけど、道の駅でも敷地の交渉をして、原則泊まるのはダメなんですけど、まあ聞かれたらだめだと言いますが、私が知らなければね・・・というようなことをスタッフのおじさんに言われたような気がするけれど、これは夢だろう。しかし今日も本当にいろいろなことがあった。目には見えないスロットのような、ガラガラガラと回っている何か、運命を表している何かがあって「ジャーン、今日はこちらです!」と、ランダムで出会う人が選ばれて、その顔がバーンと目の前に大きく表示されるような感じだ。僕としては、ああ、今日最初のイベントはこういう感じね。と受け止めることしかできない。ドラクエとかゼルダの伝説的な冒険をしているような気持ち。

 まず今朝ヤマト醤油の敷地で目覚めたら、4代目山本さんがなんと発酵玄米のおにぎりとみかんと、なぜか信玄餅二つというメニューの朝ご飯を用意してくれていて、その出し方が粋なもので、僕が起きてお手洗いで顔を洗って工場の方へ歩いて行ったら路上に小さな看板が立っていて、セロテープで貼られたA4普通紙に「村上さん ここです。→ お入りください。 make yourself at home」と英語混じりの手書き文字が書かれており、そのドアを開けたら今度は丸テーブルがあって、「殺菌水」と書かれたスプレーが置かれていて、そこには「村上さんへ ①このスプレーで手をシュッ&シュッしてね。 ②←左手におすすみください。 ③暖かいストーブと・コーヒー・おにぎり あります。どうぞお召し上がりください。」と書かれた紙が貼ってある。それで左に行くと、確かにそこにコーヒーとおにぎりなどが置いてあり、しかし人は誰もいない。山本さんもいない。アトラクションを体験したような気持ち。時間がない朝にコンビニまで行くのはちょっと面倒なので助かったなあ、と思いながら酵素玄米おにぎりを食べて酵素パワーを補給させてもらった。

 ヤマト醤油に置いた僕の家は、港の水辺まで徒歩10秒というところにあり、その水辺は全く人が来ない上に、段になっている家の基礎がちょうど椅子のような高さで座れるようになっているし陽が当たって暖かくて良い場所、もはや「茶の間」と言っても過言ではない寛げるスペースがあり、朝ごはんにおにぎりを一個とみかんを食べたあと2時間ほど家の絵を描いてから、その「茶の間」で信玄餅を二個連続で食べた。そのときにちょっと思いついて、今回の能登半島での移動生活では「住所を持っている家」の絵の他に、自分の家の絵も描いていくことにして、家の前に座り込んで絵を描いていたら、なんと内田洋平さんに会った。信じられない。内田さんとは5年ほど前に京都で人から紹介されたのがきっかけで知り合い、その後も度々「ここで会うなんて!」という場所で会っているのだけど、まさか金沢市大野の「ヤマト醤油味噌」の敷地で会うとは。昨日の吉浦くん事件に匹敵する奇跡。しかもなんと内田さんも5代目山本さんとも知り合いだという。内田さんの人脈はちょっと理解できない凄みに達している。

 お昼12時過ぎにヤマト醤油味噌を出発して、この「ほのぼの湯」を目指してきた。

「おお、あんちゃんご苦労さん。あんた今から能登まで行くのか、」

「そうです」

「おお!きついのう!がんばってな」

と、物凄い濁声のおじさんから声をかけられたりした。今朝の「北國新聞」に僕の記事が載っているらしい。それを見たんだろう。

 先日美術館でやった「テーブルトーク」をそばで立って聞いていたという男性が、僕が昨日ヤマト醤油で寝ていたということをツイッターで知り、じゃあ今日は内灘だろうと推理して車で僕が歩いているのを探してくれたらしく、歩いていたら声をかけてくれて、「村上さん、差し入れ!」と言ってなんと5000円札を渡してくれた。そういえばそのテーブルトークで「差し入れでお茶とかをよくもらうけど、重いと思ってしまう。お金が一番良い。必要な時だけ重いものに変えられるから」というような話をしたような気がする。しかしまさか本当に差し入れてくれるとは思いもせず。ありがとうございます。

 他にも「金沢21世紀美術館の展示見ました!」という人が二人ほど声をかけてきた。

 そのうちの一人がめちゃめちゃ賑やかなおばちゃんだった。

「この先に温泉ありますよね。」

 と僕が聞いたら

「あるけど、街の温泉やから、ちょっとどうだろうなあ。個人の温泉やったら行けそうやけど。でも、これからあそこは夕日が綺麗だから、とりあえず温泉入って、交渉してみたら?やってみて!頑張って!」

 と言われた。そのおばちゃんとは道の駅でも会った。追いかけてきてくれたようだ。おばちゃんは派手な幌をつけた軽トラに乗って現れた。花屋さんだった。

「これ差し入れ!」と言って、レモンチューハイのようなお酒1缶と、ビーバーというお菓子(金沢のお菓子だよと言っていた)をくれた。この酒は先ほど、申し訳ないけど今日は体調的に飲まんほうがいいと判断してトイレに流して捨てた。すんませんが。おばちゃんはまくしたてるように話をし続ける。

「この先さ、妹の家があるんだけど、何キロくらいかな。1日何キロ歩くの? 10キロか、そんなに短いんだ。じゃあ大丈夫だ。妹の家に泊まれないか聞いてみよっか? さっきも村上さんの話したんだけどさ。多分大丈夫だよ」

「本当ですか。じゃあお願いします」

「ちょっと電話してみよ・・・。もしもし、さっき話した家で歩いてる彼なんだけどさ、今日家に泊めてあげてよ。ああ、うん。おうちの庭で。それかさ、あのへんで、なんか泊まれるお寺とかない? 寺とか、私設の、公共じゃない温泉。お風呂。そんなところにずっと泊まっとるらしいよ。今日はほのぼの温泉が、あそこ内灘町がやってる温泉だから泊まれなくて、この道の駅のすみっちょの寒そうなところに泊まるらしいよ。コンセプト上、おうちの中では寝ないらしいよ。ああ、うん・・・じゃあその辺の温泉教えてあげてよ。ああそう、あれなくなったね・・・」

 というように交渉してくれたのだけど、先方の都合が悪くてだめだった。しかしおばちゃんは名刺を渡してくれて、羽咋市の山の上にある実家の住所を書いて「木曜日だったら、私店休みだからそこ使っていいよ。花屋はね、木の日が休みなのよ。問屋さんが。だから私行けるから。ご飯作ってあげる! 車載せてあげるよ! あ、今週木曜はちょっと京都に行くから無理だけど、帰りに使って! そっから金沢まで50キロ稼げるよ! 5日分! そんで金沢で5日ぐらい休んでればいいじゃない。金沢駅西のうちの店も使っていいよ、ごはんつくるし電源もある。そうしたら店のお客さんたちみんな呼ぶわ! 呼びたい。面白いから!」

 と次々と提案をしてくれて、そんで軽トラで帰っていた。

 それから僕は河北潟の方へ、描くための家を探しに降りて行ったのだけどもう暗くて絵は描けず、そのまま「永」という、派手な電飾で外が飾られたレストラン、店内は油絵のようなものや観葉植物やいろいろな形の椅子やら、お洒落なんだけどちょっと組み合わせが異質すぎる、シュールな空間を兼ね備えたレストランで「合鴨と燻製と焼き葱のわっぱまぶし」というひつまぶし風オリジナル料理と温かいジャスミンティーをいただいて、さきほど差し入れとしてもらった5000円札を使って1480円の会計を済ませてからこの温泉へ来た。すこししょっぱい、茶色味がかった、体に馴染む良い温泉。シャンプーやボディソープやドライヤーが使えて大人500円という素晴らしさ。

 と、いま日記を書いていたらこの温泉ではたらくおばちゃん、お昼に敷地交渉した際に話したおばちゃんが「先ほどはどうも」と話しかけてくれて

「ここは河北潟と海に挟まれた島みたいなところで。橋が全部落ちたらここは島になってしまいますからね、内灘町は。明日6時起きれたら、あの道の駅から内灘大橋の方を見ると朝日が綺麗ですよ」

 と。たしかに内灘町はぐるりと河北潟と川と海に囲まれていて、なにかしら橋を渡らないと来られない。そういう町なんです、内灘町は。という言い方、なんだか心にじわっと浸みた。あの人がここで生きてきた数十年間という時間が、その一言に言霊として乗せられていた。僕は受け取った。

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11月15日

 たまらんなあ。このチェーン展開してるっぽいスーパー銭湯の食堂の雰囲気。たまらん。味噌カツ定食も美味しかった。テレビがついてるし、小上がりになっているフローリングの床を人が歩く足音もドンドンとうるさいし、人の話し声もあってガヤガヤしていて、お客さんも店員さんも匿名な存在という感じ。さっきまでは親子連れが多かったけれど、今は若い男3~4人のグループの割合が大きい。風呂場でも、昨日敷地にした道の駅に併設されたカフェの店員さんを見ても思ったけど、なんだか若い人が多い。

 今日の風呂場は津幡という町にある「倶利伽羅の里 祥楽の湯」。この食堂は倶利伽羅祥楽亭というらしい。目の前の壁にそう印刷された紙が貼ってある。後ろは一つのテーブルに五人の青年が詰めて座っていて、「なんかストーリーだけ見たら、キメツとあんまり変わらん・・」という声が聞こえる。

 昨夜は道の駅で夜10時過ぎには横になって、左肩に突然女の人の手が置かれるというちょっと怖い夢を見て夜中の3時ごろに目が覚めたりもしたけど、結構しっかり寝た。朝の6時ごろに、おじさんの話し声で目が覚めた。どうやら数人のおじさん(推定)が僕の家の周りにあつまっているようだ。これは警戒態勢か、と思ったけれど、よくよく音を聞いていると、かちゃかちゃと何かを準備していたり、「おはようございます」「今日はええね」という会話が聞こえる。僕は昨日ほのぼの湯でおばちゃんに聞いた「あそこは橋の向こうから昇る日の出が綺麗よ」という話を思い出した。この人たちは朝日を撮影しにきている。家の中から外は全く見えないので音から感じるしかないのだけど、みんな僕の家のすぐそばでカメラの三脚の準備なんかをしているのに、僕の家のことは全く話題にしない。助かるわあ。楽だわあと思いながら、僕も東側の窓を少しだけ開けて、周りの人にバレないようにこっそりiPhoneで朝焼けの河北潟を撮影してもう一度横になり、気がつけば寝ていた。それで起きたら7時半くらい。

 道の駅のトイレで顔を洗い、いつもならこのまま絵を描きに行くところなのだけど、この敷地では家を「寝るモード」から「歩くモード」に変えて、家の中をオープンにして不審に見えないようにしてから行った方がいいと判断し、荷造りをした。気がつけばゴミが溜まっている。コロナの影響か知らんが、コンビニから屋外設置のゴミ箱がなくなっている影響も大きい。それにしても、ゴミ箱を置いていないことが多いドラッグストアなんか行くと特に思うのだけど、商品に使われている包装は全てゴミになるのに、それを売っている当の店舗にゴミ箱ひとつないというのは、いずれゴミになるものを町に大量に送り出しておきながら、自分はそのゴミを処理しませんと宣言しているようなものなのではないか? この問題はどう考えればいいのか。ゴミは自分でなんとかしろや。指定のゴミ袋に入れて指定の曜日に指定の場所に出してご家庭で処理しろや、ということなんだろうけど、今の僕は昨日と今日で居住地が違うので指定のゴミ袋も指定の曜日も指定の場所も違う。つまりゴミを出すことができない。でも町からゴミ箱が減っている。疎外感を感じる。金沢で会った元路上生活者の小坂さんはどうしていたんだろう。今度聞いてみたい。

 そんで荷造りしてたら、緑のジャンパー着たメガネのおじさんが話しかけてきた。

「こんにちは!オタクのこと新聞で読んだ!まさかここにいるとは!」

「あはは」

「昨日寒かったやろ!4度!」

「いやあ、まあ寝袋が良いんで・・」

「あっちがな。立山やし。立山連峰!」

 と言っておじさんは日が上った東の方を指差す。

「ああ、そうみたいですね」

「うちのカミさんがあこに入ってるもんで」

 と言っておじさんは、道の駅の隣に建っている金沢医科大学病院を指す。

「荷物届けに来ただけ。昼間は混むから。30キロあるから。」

「どこから来たんですか?」

「白山。白山はな、ずーっとあっちの方や」

 と言って南の方を指す。

「じゃあな。珠洲行くんやろ。8号線がいいぞ」

 と言っておじさんは去っていった。

 その後、道の駅の店がオープンする10時過ぎくらいまで絵を描いてから、北へ向けて出発。とりあえず8号線を歩いていく。

 8号線を歩いていると思っていたのだけどいつの間にか歩道がなくなり、両脇を木々に囲まれて建物一つ建ってない、後から自動車のために作られたタイプの典型的なバイパスに入り込んでいた。地図を見ると8号線ではなくて162号線を歩いていた。なんとなく街中を歩いたほうがいい気がして右に曲がろうとした交差点で、僕の目の前で車が2台止まり、先頭の車からおばちゃんが、マスクの上からでもわかるくらい笑顔が顔に張り付いているおばちゃんが手を振りながら降りてきて、写真撮ってええか、と聞いてきた。後ろの車からもおばちゃんが出てきて、「新聞に載っとったよな」といいながら二人で賑やかに写真を撮り始めたので、こちらも負けじと「僕もお二人の写真撮ってもいいですか」と聞いたら「ええよ。きょうだいなんよ」とおばちゃんが言った。そう言われてみれば似ている。

「私さっき車から見かけたんやけど、先にこっちの用事すまさなきゃならんで、戻ってきた」

 とニコニコしながら。本当にニコニコしながらおばちゃんは話していた。それで「これ」と言って僕に1000円札を1枚差し出してきた。

「昼ごはんこれで食べて」

 というおばちゃん。

「じゃあ、いただきます。ありがとうございます」

 と言って受け取るわたし。

「飲み物あげようと思ったんやけど、飲み物持ってなくてな」

「いや、これが一番嬉しいです」

「昼ごはん食べてな」

 と言って盛り上がっていたら、今度はバイクに乗ったお兄さんがどこからともなくやってきてバイクを降りて

「写真撮っていいですか!」

 と聞いてきた。

「新聞に載ってましたよね」

 とお兄さん。

「わたしな、それ知らんでな! 妹に、なんか変な家みたいなのが歩いてるって言ったら、その人新聞に載っとったで! っていうからな」

 というおばちゃん。

「そうなんですかあ」

 と言って笑顔で返すお兄さん。この場にいるみんながにこにこしている。優しい世界に突然連れてこられたような気持ちになった。

 そのあとも何人かに写真撮っていいですか? と聞かれ、うち1人に「どこから来たんですか」と聞かれた時に、

「21世紀美術館です」

 と答えたら、

「まるびいからですか」

 と言っていた。「まるびい」という愛称が実際に使われているのを初めて聞いた。

 10キロ程度歩いたところで14時に。気がつけば自分の影がぐーんと伸びている。季節柄すでに日が傾いていて夕方のような光の中で、この辺りには銭湯がないことをGoogle マップで調べた。あの花屋のおばちゃんのいう通りだ。それならば道は一つで、駅の近くで敷地を見つけること。そうすれば電車に乗って風呂場が近くにある駅まで行くことができる。横山駅というところが良さそうだったので、そのあたりで「寺院」を調べて「光琳寺」というお寺を見つけ、一軒目の敷地交渉をした。久々のお寺での交渉に緊張を感じながらチャイムを押す。この瞬間が1日のうちで最も心拍数が上がる。

「はい」

 と男性の声が返ってきたので

「すいません、ちょっと通りすがりのものなんですけど。お尋ねしたいことが・・」

「はい。今行きます」

 と言って、40代くらいの男性、おそらく住職さんが出てくる。僕はiPhoneで撮影した自分の家の写真を見せながら

「突然すいません、僕ですね、こういう発泡スチロールで作った家を、背負って、珠洲市の方を目指して・・」

「あ、そうなんだ。すごい」

「歩いてるんですけど。絵描きなんですけど」

「うん」

「昨日は内灘で、今日いまこの辺で敷地、というか寝る場所探してて、土地をどこか貸してもらえないかっていう相談なんですけど」

「どっかこのへんで?」

「はい。境内の・・」

「はは、まあ別にいいですよ」

「ほんとですか!」

 という、ものの3分の会話で1軒目にして交渉が成功した。よかった。

 家を本堂の軒下に置かせてもらい、床を敷いて窓を閉め、寝るモードにしたらすぐに紙とペンをもって絵を描きに出かける。他にやることもないので絵を描くしかないのである。我ながらものすごくテキパキしている。数秒も休まない。借家で生活している時とは比べ物にならないほどの仕事人間と化している。

 ここは横山町というところ。人はほとんど歩いてないけど車は1分に数台、お寺の前の道路を通っていく。空き家も目立つ。

 お寺の門から外に出た時にまず思ったのは「この町は、移住を生活するをやっていない限り、徒歩ではまず通らないし、まして泊まるなんてことは、通常は起こりようがないので、このプロジェクトはやっぱりすごいな」ということ。そんなことをまず思った。新世界だ。新世界はこんなにもすぐ近くにある。狭い道路で、家を畑と竹林がある。家は主に瓦屋根で、木の板張りの外壁。倉もいくつか目に入ってくる。古い歴史を持つ町なんだろうと感じる。僕がこのあたりの人ではないということは、ここに住んでいる人から見たらすぐにわかるだろう。そんな人がこうして、少ない荷物でぷらぷらと歩いている今の僕のような光景は普段はほとんど見かけないであろうことが感覚としてわかる。自分が完全にストレンジャーであることが自分でわかる。

 歩いていたら突然そこそこに大きな公園に出た。ラッキーなことに公衆トイレもある。トイレは古そうだけれど、ジャングルジムや滑り台やあずま屋はどれも綺麗で、周りの錆び付いた景色からは少し浮いている。そこでぼーっと立ってたら、公園のそばにある大きな建物(なんらかの公共施設だと思うのだけど)の前でたむろっていた小学3年生くらい男女4人組から、だれですかー!と声をかけられる。こんにちはー、と言ったらこんにちはーと返ってきた。そしてこちらに近づいてきた。

 そしてまた「こんにちはー」と言ってきた。僕は「あの建物なに?」と、さっきまでたむろしていた場所を指して聞いてみた。一瞬四人がひるんで、警戒するような目つきに変わった。コンマ数秒の無言の時間のあとで

「研修館」

 と、派手な蛍光ピンクのジャンパーを着た4人のなかで一番ワンパクそうな男の子が答えた。

「研修館てなに?」

 と、もう一度聞いた。そしたらそのワンパク男子がズコーッという感じで、後ろ向きに足を大げさに広げて地面にずっこけた。そんなことも知らんの!? と言わんばかり。しかし僕は研修館と言われてもよくわからない。後ろの女の子が

「遊ぶところ!」

 と答えた。

「児童館みたいなところかな。習い事したり、ピアノしたり」

「なるほど~児童館みたいなとこか」

「おじさん、どこからきたん?」

 とワンパクが聞いてくる。おじさんと言われるのはショックだ。

「おじさん・・・おじさんか、もう俺は・・」

「何歳ですか?」

 と女の子が聞く。

「32よ。まだ」

「やっぱり」

 とワンパク。やっぱりとは?

「32ってもうおじさん?」

「だってなんかテレビで32さいからもうおじさんって」

 とワンパク。

「おにおじ。おにおじさん」

「たぶんぴえんおじさん」

「わはは」

 なんか4人で盛り上がっている。

「金沢から来たんだけど」

「じゃあカナエキから?」

「カナエキってどこ?」

「金沢駅。略してカナエキ」

「いや、歩いて来たんだけど」

「ええっ!?」

「でもカナエキは通ったん?」

「カナエキ通ったよ」

「じゃあヨコエキは?横山駅」

「ヨコエキってどこにあんの?」

「ええっ!?」

 またしても、そんなことも知らんのかという驚き方。

「そこ!」

 と言って後ろの女の子が研修館の向こうを指差す。

「歩いてきたん、すごいね?」

「1日で?」

「いや、3日くらいかけて」

「テント?」

「うーん。そうね、まあ荷物はいますぐそこのお寺に置かせてもらってんだけど」

「え」

「ええ! あっこ?」

「取材するんですか?」

 と、さっき児童館みたいなところだと言ってくれた女の子が聞く。この子は頭が切れるかもしれない・・・

「取材っていうかね、絵を描いてまわってんだよね」

「え」

「え」

「あ」

「ぐう」

「あばらの骨が折れたようだ!」

 とワンパクがあずま屋のテーブルの上にうつ伏せになって騒いでいる。

「みんな学校は近いの?」

「かなづ小学校!」

「歩いて10分」

「歩いて25分」

「えっと、歩いて1分」

 みんなばらばらだった。

「ここは? 横山知ってますか?」

「いや、初めてきた」

「え・・ヨチは?」

「ヨチ?」

「ふふふ」

「むこうにある」

「田んぼがいっぱい」

「そんじゃマスク町は?」

 と、例のワンパクが言う。

「マスク町なんてあんの?」

「ありますよ!ふふ」

 と女の子。

「ふふふ」

「へへへ」

 と四人揃って悪い顔をしている。絶対に嘘だ。

「マスクで、建物が作られてるの」

「嘘でしょ?」

「ありますよ」

「だから、マスク忘れて使いたい時はそこからビーって取ればいい」

 とても今の世相を反映している冗談だ。子供たちも敏感だ。マスクを忘れてしまう、ということが彼らの生活のなかでも度々あって、それをどこかでずっと気にしてるんだろうな。しかしこんな昼間に子供たちが公園に集まっているので学校はもう終わったのかと気になって、

「みんな今日は学校・・・あれ、今日何曜日だっけ?」

 と聞いたら、

「え」

「え、え・・?」

 と、またしても「そんなこともわからないのか」と言わんばかりの反応。

「日曜日」

 と、女の子が教えてくれた。

「ああ、今日日曜日か。じゃあ学校休みなのか」

「なんも食べてない!?」

 と、突然後ろの女の子が指差して聞いてくる。曜日がわからないことからそこに繋がるのは面白い飛躍だった。

「いや、食べたよ。さっき、ラーメン」

「どこで?」

「あれはね、えっと、王蘭?」

「え!」

 とワンパク。

「王蘭知ってる?」

「ああ、知ってる!」

「ああ、ああ」

 と後ろの女の子。

「王蘭通ったさっき。王蘭行く?」

「食べに行くときある」

 とワンパク。

「行きたい」

 と女の子。

「王蘭てでも、餃子とか食ったらまあまあ千円ぐらい超えて、ちょっとあれや」

 とワンパク。

「でもラーメン350円だよ。王蘭。安いよね」

「安い」

「でもそれ、何個か頼んでみ? 千円超えるよ」

「まあ千円は超えるな」

「で、どこまで行くん?」

「珠洲かな」

「え、歩いて?」

「え。え。なんで歩いてそんなとこまでいくんですか? 意味あるんですか?」

 とワンパク。

「絵を描きたいんだよ」

「先生それ、あ、先生じゃない」

 ハハハと笑いが起こる。

「それ、お金かけるだけです。無駄に時間使うだけですよ」

「え、そう?歩くの楽しいよ」

「楽しくない。あばら折れるよ」

 このワンパクは「歩くのは時間の無駄だ」と言ったあとも、「公園でこうやって休んでるのは時間の無駄だ」とも言っていた。時間の無駄というワードを連発していた。少し気になる。

 僕はここで子供たちと話していて、自分はいま完全に、昔実家の前の公園にいてよく一緒に遊んでいた、得体の知れない「変なおじさん」になっている。宮台真司ふうにいうと「ウンコのおじさん」になっているなと思った。この町では有名なのかもしれないが、僕は「研修館」が何かを知らない。でも子供たちはそれが「信じられない」と言わんばかりにずっこけたりしてた。今日が曜日がわからないと言ったら目を丸くして驚いていた。僕はこの四人の子供たちに対して、本当に良い仕事をしたと思う。

「じゃあ、そろそろ行くわ。みんな元気で」

 と言って4人と別れた。4人は僕の姿が見えなくなるまでジャングルジムに登って、何かを叫びながら手を振ってくれた。その後横山駅の近くで絵を1枚描いた。始めたのがまだ3時過ぎだったので、暗くなる前に描ききることができた。横山駅は完全な無人駅だけど、電車は1時間に1~2本くらいは走っている。紙とペンを家に置いて、着替えと歯ブラシなんかを持ち、津幡という駅までスーパー銭湯に入りに行く。津幡はこのあたりでは大きな駅みたいだ、路線図の中で大きな文字になっている。2本の路線が通っているし、スーパー銭湯の他にもマックとか、でかいスーパーとか、焼肉屋とか、チェーン店がいくつも駅の近くにある。

 そして風呂。この風呂は良くも悪くもよくあるスーパー銭湯である。週末ごとに赤ワインの湯とか、緑茶の湯とか、日本酒の湯とか、そういうイベントを打つ感じ。風呂から上がって味噌カツ定食を食べて、日記を書いて、ひと段落したところでふと電車を調べたら、20分後に津幡駅を出る電車に乗らなければ次は1時間以上電車がないことがわかり、慌てて風呂を出る。

 21時半。風呂帰りの電車、七尾線。宇野気という駅に着いた時、車内のボックスシートでスマホを見せ合って楽しそうに話していた女子4人組のうち2人が立ち上がり、他の2人に手を振って電車を降りていった。駅の駐輪場へ向かっている。彼女たちはここから自転車で家に帰るんだろう。宇野気駅が最寄りの人は他にも数人。みんなここから家に帰るんだろう。僕はおそらく今後人生で一度も降りることのないこの駅が最寄駅の人たち数人。僕はもう一駅。あの小学生がヨコエキと呼んでいた駅まで。そこに家がある。

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11月16日

 昨日「たまらんなあ」と書いた風呂場と同じところ、祥楽湯にいるが、月曜日なので人手が全然違う。食堂「祥楽亭」には僕の他に男性客が一人のみ。昨日僕の後ろの席で「やべえ、ここの漫画コーナー、キメツがある」と喜んでいた4人組の青年はいまごろどこで何をしているのか。こうも客が少ないとスーパー銭湯の「たまらん感じ」があまり出ない。魅力が半減だ。テレビの音だけがやたらと響いてうるさい。僕もなんだかぐったりしている。こんなことなら、今日借りた家の敷地から歩いて30分のところにある別の温泉に行けばよかったかもしれないと思いつつ、でも当時は30分歩く気力はなかった。昨日味噌カツ定食を食べたテーブルと同じところで今日はナスと鶏肉の餡掛け炒め定食のようなもの。そしてビールと塩キャベツ。塩キャベツはビールとセット注文したのだけど、ビールが残り30パーセントくらいになったころに出てきた。やたらと塩分が強い塩キャベツ。4日連続で歩いていて左足の甲に痛みがあって明らかに疲れているけど、昨日に引き続きビールを飲んでしまった。風呂を出たあとにどうしても我慢できない・・。

 昨日と同じ風呂場だけど、店員さんが違う。ここから家までの距離も10キロ以上違う。駅にして3駅分。風呂も違った。昨日「緑茶の湯」だったところが今日は「赤ワインの湯」になっていた。

 日記を書くエネルギーが足りない。ちょっと食べ過ぎてしまった。塩キャベツは完全に余計だった。いったん宝達にある家に帰って寝た方がいいかもしれない。20時40分発の電車で。いま20時10分。また七尾線に乗って横山駅を通ることになるとは昨日は考えもしなかった。というか、あれが昨日の出来事だなんて信じられない。ずいぶん昔のように感じる。ほとんど前世の記憶みたいになっている。移住生活中の時間の進み方は明らかに定住期間のそれと違う。僕はいま完全に僕固有の時間の中で生活している。昨日の夜から今日の夜までどのくらいの時間が経ったのか。説明ができない。一旦帰って寝ることにする。

 20時40分発。津幡発七尾行きの電車。昨日は気がつかなかったが、車内にゴミ箱がある。また昨日とは打って変わって乗客が沢山いる。目立つのは制服を着た通学生。あと仕事帰りっぽいスーツの男性や女性や、なんだかわからないけど何かの帰りではあるだろうおばちゃんなど。座れずに立っている人も多い。スーパー銭湯が混んで電車がガラガラだった昨日と逆だ。でも平日なので当たり前といえば当たり前。みんな金沢からの帰りだろうか。

 電車に乗ると今日が平日かどうかわかってしまう。もともと曜日感覚が希薄な人生をおくっているけど、移住生活中にこうして電車に乗ると格別だ。ここにあるのは固有の時間ではなくて、社会的な生活を送る者の、通有の時間だ。移住生活をしながらこの土地に流れている通有の時間に触れるとき、いつも心が揺さぶられるものがある。いま宇野気駅で、学生10人以上が降りて行き、さっきまで混んでいた電車内はいつのまにか空席が目立つようになっている。いま降りた学生たちはきっと明日の朝再びこの七尾線に乗って南へ向かうだろう。学校にいくだろう。僕はさらに北を目指して歩いてるかもしれない。でももしかしたら、明日の夜も僕はまた祥楽の湯に入るためにこの電車に乗るかもことになるかもしれない。その時、今日降りたあの学生たちと再びこの電車の中で同じ空気を吸うことになる。何故かそれを願いたい気持ちがある。特に彼らと挨拶を交わすわけでも目を合わせるわけでもないのだけど。

・・・・・

 翌朝8時14分。家から歩いて15分ほどのところにある洗濯場(コインランドリー)で椅子に座って膝の上にパソコンを置いて書いている。洗濯から乾燥までまでノンストップ、8kg少量50分1000円。能登半島生活最初の洗濯。ランドリーの入り口は東向きで、目の前は田んぼと集落、もうだいぶ高く登った太陽の下には、今敷地として借りている照覚寺の住職さんが「ここらで一番高い山」と言っていた宝達山、標高637メートルのシルエットがぼやけて見える。スカイツリーよりも3メートル高い。店内では例の「香水」や「鬼滅の刃」のアニメで使われていた歌が流れている。昨夜は夜中の3時に目が覚めてしまい、左足が痛くてなかなかもう一度寝付くことができず、5時過ぎまで起きていた。連続で歩きすぎたせいだと思われる。それと、やっぱり荷物が重い。ヤマト醤油で塩麹を瓶で買ったことをちょっと後悔している。小さいから大した重さじゃないはずなのだけど、この精神的な負荷・・・。

 日記の続きを。昨日の朝、僕が自分の家の前に座り込んで絵を描いていたら、袈裟姿の住職さんがお盆を持って訪ねてきた。「村上さん、カレー食べません?」と。

「今コンビニでドリア食べてきちゃいました」

「あ、食べてきちゃいましたか。じゃあ私が食べます」

「でもせっかくなんでみかんだけもらいます」

 とみかんとカントリーマアムを2枚もらった。あとカイロ10枚入りも差し入れてくれた。カイロはちょっと重いが、とりあえず受け取る。とりあえず後で処理法を考えるとする。

「ゆっくりしてってください」

 と言って住職さんは立ち去っていった。この言葉で気持ちが軽くなった。

 住職さんに見送られながら11時頃には光琳寺の敷地を出る。そのまま北上し羽咋方面を目指して、お昼ご飯を特に食べるわけでもなくお昼の14時過ぎまで、今日1日、同行取材をしたいというNHKのディレクター1人と共に59号線(西に並行している159号線の方がおそらく旧街道で、こちらは自動車のために後から作られた新道だと思われる)をひたすら歩いていたのだけど、前日までとは違ってほとんど路上で人から話しかけられなかった。偶然なのか、金沢市から離れているからか、あるいは北國新聞に乗ってから2日経ち、効果が薄れてきたのか。新聞の賞味期限は2日程度なのか? 唯一、まほろばという老人ホームの近くを通った時に、車の中のおばちゃんと、路上のおばちゃんからがやがやと話しかけられた。陽が傾いてきた頃に、バイパスから249号線(159号線から続いている道)の旧道の方に切り替えて歩いた。宝達清水というあたりで、大きな石材屋をいくつか通ったのが印象的。

 いま僕がいる「SPEED CLEANERジャスト」というコインランドリーの前を過ぎ、コメリハードアンドグリーンを過ぎ、「小川」という町に入ったところで左手にある照覚寺というお寺で1軒目の敷地交渉をした。最初の住職の奥さんが出てきて、「通りすがりのものなんですが」といつも通りの挨拶から始めたのだけど、すこし不審そうな表情をしている。しかしiPhoneで家の写真を見せて説明をしようとしたところ、「ああ! 新聞で! 21世紀に出てましたね!」と言って、途端に笑顔に変わった。北國新聞はやはりすごい購読率だ。「ちょっと住職さんに変わりますね」と言って引っ込み、今度は住職に同じ説明をする。

「こういう発泡スチロールで作った家をですね、背負って歩いていて。珠洲市を目指してまして。僕絵描きなんですが。この家の中で寝るんですが、昨日もお寺の境内を借りて、そこに置かせてもらって一晩寝て、というふうにして移動しているんですが、いまこの辺りでその場所を探してまして、どこか境内の隅を一晩貸していただけないかという相談なんですが」

「食事なんかはどうなるんですか?」

「いや、近所で食べてきます。ほんと場所だけでいいんですけど」

「ああ、ほんなら・・」

 と言って外に出る住職さん。これはOKということだ。

「一応、屋根があったほうがええよね」

「ああ、上に屋根があったほうがまあ安心ちゃ安心ですけど。なければないで僕の家は雨入らないんで」

「うんうん。まあ、トイレなんかも当然必要になってきます。ここ使ってください」

「ああ。ありがとうございます」

「そこ、どうでしょう。屋根ありますから。ここはね、聖徳太子の二歳像の御堂なんです。弘法大師さんがお作りになられたっちゅう伝説があるんですけど。そのお堂なんです。もしよろしければここ使ってください」

「じゃあここに置かせてもらっていいですか?」

「はいはい」

「ありがとうございます」

 そのお堂は入り口の軒が深く出ていて、僕の家はちょうど軒下に収まった。このお寺はお父さんで何代目なんですか?と聞いてみたら15代目だという。間に「よくわからない期間」があるが、過去帳には15代目ということで載せてあるという。

 その後僕とNHKのディレクターは住職さんに「上がって、お茶でもどうですか」と勧められ、本堂から中へ入り、右へ進んで座布団とテーブルのある和室へ通されたのだけど、その途中にやたら大きなスピーカーやアンプやマイクなどがたくさん積まれていたので、

「大きなマイクとかアンプとかたくさんお持ちですね」

 と聞いてみたら、

「あれはね、私の道楽なんですけど。お寺の住職なのになにやっとるんやっちゅう話にもなりますけども・・どういうことかっちゅうと、カラオケをよく、お年寄りがね」

 と話し始めた。

「お参りなんか終わったであれば、またなんかの時に。カラオケやりませんかっちゅうて。ほんでプロジェクト使って、スクリーン置いて、ほんでカラオケのジョイサウンドのアンプもセットして・・・」

 プロジェクト、というのはプロジェクターのことだろう。

「そういうような道楽でもしながらね・・このごろはそんなような道楽でもしないと、ただ一つ仏事やってるだけじゃちょっとね・・。いまはコロナっちゅうこともね。カラオケも難しいから、寺子屋みたいなことをします。写経をしたり、お話会をしたり、毛筆みたいなことをしたり、御数珠作りをしたり。一月に2回ずつね。15、6人いらっしゃってね。みなさんね、手持ち無沙汰ですからね、結構。門徒さんじゃなくてもどんな方でも。だからやっぱりね、門戸を開いておかないと、やっぱり人の出入りっちゅうのは、寺っちゅうのはね、なかなか難しい時代になってきましたからね。寺っていうのは、ただ皆さんがたのご縁をいただいて物事をやっとるだけじゃ駄目なんですよね。そういった平生、地域の人たちと共有していかないと。先代はそうじゃなかった。私の代からお祭りの神輿さんと一緒に歩いたりね。そういうことをやっていかないと物事のある時だけ一つお願いしますって言っとってもね。なんや都合の良い時だけって言われたり。だから平生からそういうことは大事なんでしょうね」

 こう、住職さんの言葉を文字として書いてうまく伝わるものかわからないけど、とてもゆったり話す人で、何より向こうが緊張していないのでこちらも緊張せずに聞ける。事前に北國新聞によって僕の信憑性が上がっていることに加え、隣にNHKのディレクターもいることもあってか、初対面なのに色々と話してくれた。新しい話がどんどんでてきた。日曜大工をやっていて、両親が住んでいた裏の家を二人が亡くなってから自分でリニューアルしたのだけど、材料費が結構かかりますねえ、という話や、その材料を買うのにコメリ(歩いて数分のところにある)に行くのだけどあまり資材が売ってないので津幡の方の大きな店に行くという話や、学徒兵にとられて戦争に行ったが幹部になってしまったばっかりに戦後には戦犯のような扱いをされて公職追放になってしまい、何もできないもんだから住職になった先代の話や、この寺の中にも無縁墓が増えていて、関係している親族と全く連絡が取れなくなってしまった墓もあり、勝手に処分するわけにもいかないので、インターネットで情報を出したら3人ほど(北海道、福島、神奈川)の方が訪ねてきたという話や、ここらは北海道へ開拓団として行った人の多い地域なので、ここは小川町という集落なのだけど北海道にも小川という町があるという話や、自分が小さかった頃は毎日のように夜になるとこの寺に人がたくさん集まってきてただ話したり茶を飲んだり、時には酒を飲んだりして、しばらくすると帰っていくのだけど、なんで人が夜にこんなに集まってくるんだろうと思っていたが、今思えばみんな集まって話すくらいしか道楽がないからだろうという話や、そうやってみんなで集まるのはいつ頃からなくなったのか覚えていますか?と聞いてみたら、やっぱりテレビが入ってからだろう、昭和30年後半か、その頃からだろうというような話をしばらく聞いていたら、最後に「自分の叔母さんは昔、走り高跳びでロサンゼルスオリンピックに出たことがある。8位入賞だった」という驚きの話をぶっ込んできた。廊下にガラス戸の棚があり、そこにはメダルやバッジや旗や傘などの記念品(LOS ANGELES 1932なんて描かれている)が並べられていた。

「昔はもっとたくさんあったんですけどね、ひとにやったりとか、みなさんがメダルを貸してくれとか何を貸してくれとかいうもんだから、そうやって貸してたら返ってこなくなってね。いまはこんなもんですわ。まあ、そりゃその方その方の考えですから、わたしらは返してくれなんてことも言いませんしね」

 と住職。いや「返してくれ」くらいは言ってもいいんじゃないか?

 この住職のお孫さんは幸いにもこの寺の後を継ぐ意思があるということで、いま京都の大谷大学に通っているらしいのだけど、その孫がちょうど石川に来ていて、今日京都へ車で帰って行ったらしく、家を担いで歩いている僕も目撃されていた。

 また住職さんは、いま僕は「移住生活」をやっているので移動期間ではあるのだけど、ずっとこうしてやっているわけではなく、定住期間もあり、その拠点は東京にあるという話も住職さんはすんなりと理解してくれた。これが自然にできる人はあまり多くない気がする。

 そして僕はなぜか住職の奥さんから「先生」と呼ばれ続けるので笑ってしまった。北國新聞に載っていたからか、美術館で展覧会をしているからか。しかし自分の敷地を貸してあげている相手のことを「先生」と呼ぶことができるとは、なんたる高みか。さすが真宗のお寺だ。

 その後家の絵を途中まで描き、NHKのディレクターにお願いして彼が車で金沢放送局へ戻る途中に祥楽の湯まで送ってもらい、この日記冒頭の状況である。ここ数日間、Wi-Fiが使えて座れる所(オフィス)をなかなか探して行く時間がなくて「マンダロリアン」の最新回が見られないのが嫌だ。今回は28日までに珠洲に着かねばならず、移動に追われているので仕方がないのだけど。しかし今日の住職の話にしても昨日の小学生の話にしても「移住を生活する」はこうやって地方でやると面白い状況がどんどん生まれる。3月に東京でやったのとは全然違う。

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11月17日

 昨日は夜中3時ごろに目が覚めてしまったのだけど、左足が痛くてなかなか寝付けなかった。荷物が普段以上に重い上に連続で歩きすぎたせいだと思われる。

 今僕は「ジョイフル 高松店」にいる。ジョイフルとはファミレスのジョイフルである。ジョイフルには電源とWiFiがあることが多くオフィスとして優秀なので、電車を使ってここまで来た。家は照覚寺から動かしていないので、最寄駅の宝達駅から七尾線に乗って横山駅で降り、そこから20分歩けば着く。まさかまた「横山駅」で降りることになるとは・・。

 今朝、コインランドリーで昨日の日記を書いたあと乾いた洗濯物を畳んでいたら「村上さんですよね?」と女性から話しかけられた。「はい」と答えたら、「わたし、お寺の!」と言ってその人は自分を指差した。よく見ると照覚寺のお母さんだった。住職の娘さんにあたる人。僕と同じく洗濯をしに来ていたらしい。移住先で近所の人(近所というか、同じ敷地なのだけど)にばったり会うのはちょっと珍しい。

「よかったから車乗って行きます?」

 と言ってくれたので、

「じゃあお願いします」

 と答える。車に乗り、

「歩いてきたんですか?」

 と聞かれたので

「はい」

 と答えたら、

「ええー!」

 と驚かれる。ほんの1キロ程度の距離なのだけど。

「今日はどこまで行くんですか?」

 と聞かれたので、

「羽咋のあたりか、でもちょっと左足がむくんじゃってて、もう1日いてもいいですかね?」

 と言ったら、

「大丈夫だと思いますよ!ちょっと帰ったら聞いてみますね!」

 とお母さん。そしてもう1日同じ敷地にいることに。お母さんは、

「大丈夫だそうです!もう1日移住してください!」

 と元気に言ってくれた。もう1日移住なんてなんだか変な言葉だけど、合っている。

 洗濯場から帰ってからお寺の境内で絵を描いていたら、住職さんが「もしよかったら、一緒にいきませんか? ちょっと海の方へいくんですけど」と誘ってくれた。ちょっと迷ったけど、住職さんが一般人が持つには大きすぎるビデオカメラ(遠目からは、また何かテレビの取材が来たのかと思った)を持っていたので、なんか気になって同行することにした。住職さんは「チリハマ」へ向かうという。「チリハマ、チリハマ」と言うので何のことかと思ったが、「千里浜」という海岸のことだった。僕は知らなかったのだけど全国的に有名な「車で走れる海水浴場」で、たしかにみんな車で砂浜を走っている。それが8キロも続いている。ちょっと見たことのない風景。僕たちの他にも栃木ナンバーや京都ナンバーや三河ナンバーの観光客が車を止めて写真を撮ったりパラソルを広げたりしている。さすがに11月なので海に入っている人はいないけれど、天気が良くて風も強くない、絶好の千里浜日和という雰囲気。

「千里浜はね、だいぶ昔からありますよ。もともとはね、ゴミのちり、汚れてたのでチリハマと呼ばれてたんですが、これだけお客さんが来るとね、千里という字になったんです」

 と住職さん。「初めて知りました」という僕のための8キロのドライブウェイをゆっくり走ってくれた。終点から一般道に出ると、「今浜」という町に出る。入り組んだ道と、瓦屋根に木の板張の住宅が並ぶ雰囲気が、なんだか歴史の古さを感じさせる。

「歴史古そうですねえ」

 と僕が言うと、

「ここは昔遊郭だったんです。海の近くってのは、遊郭が多いんですよ。この大通りが特にね。でも昔、明治の始めか、大火があってね。ダメになったんですけど、また復興したんですね。昔の人ってのは、良い生活様式を作りましたよね」

 と住職。

「港の近くってのは遊郭できますよね」

「そうですよね。やっぱりそれがちょうどよかったんでしょうね。いわば一夜限りの商売ですから」

「北前船もね、休みながら行ってたみたいですからね」

「そうそう」

 そのあと住職は「門徒の人がやっている」という鮨屋に連れて行ってくれた。

「お気遣いなくでいいですよ」

 と言ったのだけど、

「いやいや、いいからいいから、予約しますから」

 と住職。鮨屋では

「昔から方言でね、能登のこんじょよし、っていうんですよ。こんじょよしっていうのは、人が良いというか、頼まれても断れないということなんですけど」

 と言う。なんだか複雑な表現だけど、とにかくもてなしてくれているのだ。

「他にも方言でね、ママのまい、とかね。ママっていうのは、ご飯のことで、ご飯が美味いっていうことですね」

 鮨は、めちゃめちゃうまかった。しかも豪華だった。にぎり8貫に天ぷらにお味噌汁にサラダに茶碗蒸しに・・・。

 寿司を食べながら住職に、

「なんで、家と一緒に歩く、という発想になったんですか」

 と聞かれた。

「いろいろあるんですけどね、もともと建築をやっていて・・・」

 などごちゃごちゃと説明したが、

「まあ自分でも、なんでこんなことやってるんだろうって思うことは度々ありますよ」

 そう聞いて住職は笑っている。

「でも、続けているおかげでね、こうやって美術館の展覧会になったり、人にあったり色々とありますからね」

 と言うと、

「それはそうです。お寺でもね、このコロナで仏事が色々できなくてね、でもやめてしまったらまた始めるのが大変ですからね。細々とやっていくわけですわ。門徒さんもいるしね」

「同じですね」

 鮨屋の後は「100mのイチョウの並木道がある。紅葉が綺麗なのでそこへいきましょう。ドローンを取ってきます」と言って一旦お寺に戻り、住職はドローンを手に車に戻ってきた。そしてイチョウの並木道(良い気候なのでここも混んでいた)でドローンを飛ばす住職を追いかけたりなどして、気がつけば13時になった。どうも住職は学生の頃から映像を撮る趣味があるらしい。撮影した映像は富士通のパソコンにプリインストールされている「パワーディレクター」というソフトで編集しているという。趣味が高じて、人権週間のPRで映像を頼まれて作ったり、結婚式の撮影をしたり、その映像にテロップいれたりBGMをいれたりしているという。

「趣味でやりますから、お金は一切もらわないです」

 という。そんな話をしながら13時半ごろお寺に戻ってきた。早い話が住職は僕のために宝達清水町を車でまわってくれたのだった。住職は最後に

「明日お帰りになるときに、私ちょっと朝早く出ないといけないんで。申し訳ないんですけど。また、よろしくお願いします。お気をつけて」

 と言ってお寺に帰って行った。

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村上 慧

村上 慧
(むらかみ・さとし)

1988年生まれ。2011年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。2014年より自作した発泡スチロール製の家に住む「移住を生活する」プロジェクトを始める。著書に『家をせおって歩く』(福音館書店/2019年)、『家をせおって歩いた』(夕書房/2017年)などがある。

satoshimurakami

編集部からのお知らせ

金沢で、村上慧さんの展覧会が開催されています。

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村上慧 移住を生活する

会場:金沢21世紀美術館 展示室13
会期:2020年10月17日(土)-2021年3月7日(日)
10:00〜18:00(金・土は20:00まで 1/2、3は17:00まで)
休場日:月曜日(ただし11月23日、1月11日は開場)、
11月24日(火)、12月28日(月)〜1日(金) 、1月12日(火)
料金:無料
お問い合わせ:金沢21世紀美術館 TEL 076-220-2800

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