第14回
《移住を生活する》能登半島編その3
2020.12.27更新
引き続き能登半島で行っている移動生活中に書いた日記をお届けします。
11月23日
「昨夜なかなか寝られんで、すいません。中入って休んでください。朝ご飯もうすぐできますから。寒かったでしょう」
7時過ぎくらいにお母さんが家の外から声をかけてくれた。すいません、というのは起きて声をかけるのが遅くなってしまってすいません、という意味だろう。寝られなかったというのも気になる。心配してしまっているのか。なんだか気を使わせているみたいで申し訳ない・・・。
「おはようございます。いえいえ、寒くないですよ」
とドアを開けて顔を見せて答える。
「いやあ、寒いでしょう。どうぞ中へ入りまし」
と返される。僕は寝袋を脱ぎ、7時半くらいにお寺に上がらせてもらった。キッチンから朝ごはんを用意する音が聞こえている。と、広間でこの文を書いていたら「寒かったろね」と引き戸を開けてお母さんが声をかけてくれた。
「いや、寒くないんですよ」
と、僕は本当のことを言うのだが、
「寒かったと思うわ」
と返される。どうしても伝わらない。
「いや、本当に寒くないんですよ」
と今度は片手を上げて「マジなんだ」という身振りとともに言うと
「そうなん? 不思議やねえ」
きっと本当に不思議なことなんだろうな。外からトンビの鳴き声が聞こえる。しばらくして卵焼きや里芋となめこのお味噌汁や雑穀米の朝ごはんをお盆に載せて持ってきてくれた。
「あんまり眠れなかったんですか」
と聞いてみると、
「ゆうべなんか寝られんで。眠り薬飲んだら寝れたんやけど。なんで寝られんかったんやろ」
と言うお母さん。
「うちは健康に気をつけて、雑穀米なんですよ。普通のお米じゃなくてすいませんねえ」
お母さんはそう言って、一旦キッチンの方へ引っ込み、数分後に小分けになっている雑穀米の素をわざわざ持ってきて「これいれるんや」と説明してくれる。再びキッチンへ引っ込み、今度はすこし紫色がかった白い大根のようなものを薄切りにした野菜をタッパーに入れて持ってきてくれて、
「これ、ヤーコンっていうんやけど知っとりますか。なんか、中国の方の野菜やと思うんやけどなあ。そのままでもちょっと甘くて美味しいですし、ドレッシングかけてもいいですし」
「ありがとうございます。美味しいですねえ。さっぱりしてて」
「そのままでも甘いやろ」
「甘いですねえ」
お母さんは再び引っ込み、今度は「山菜薬草早わかり百科」という図鑑を持って来てページをめくりながら「ヤーコンでとらんか」と言っている。ヤーコンを図鑑で探してくれているのだ。「図鑑世代」だと思った。山菜や野草が大きな写真入りでたくさん載っている面白そうな本で、僕も一冊家に欲しいと思った。
「この辺は、わらびはあんまり出ない。あれは雑木林やから。この辺は青い木ばっかりや」
と言ってページをめくっている。お母さんは本を閉じて。
「去年までは畑もやってたんですけどね、南瓜とか30個くらい獲れて。この部屋の3倍くらいある畑なんやけど。今年やめてしまった。もう歳やしねえ。あの子はやろうって気になっとらんし。今年草刈りさせたら、大事な茗荷の木まで刈ってしもうて。普段やってないとできないねえ・・・」
「昔はわたしも金沢にいてね。金沢の女子短出て、県庁務めてた。農業試験場の中にある部署でね。食生活の指導やったり、台所の指導やったり、家計の設計助けたり。地域をまわってグループごとに指導してね。それを60の定年までやった。羽咋にも輪島にも通った。最初は車が支給されなかったから、バイクで通勤してたけど、そのうち車が入ってよかったね。バイクでひどい怪我してね。山坂田舎周りやから、材木にひっかかって二回転してここの骨(左足の膝の上あたりを指す)折った。みつき入院した。配給されたバイクで。田んぼに飛んだこともあったし、バスに追い越される時に転んだこともあった。ようよう命あったわ。しゅうとがいたからね、3人の子供の面倒を見てくれた。でないと仕事できんわ。私はなんも子育てせんで」
と言って笑う。僕も笑う。
「うちの主人は客来るのが好きな人でね、写真好きでカメラ持って。この集落に写真クラブってのがあるんや。4、5人いるんやけど。主人が亡くなってから、あんた入れって言われとるけど、カメラなんてできんしって言ったら、多少下手でもあれは良いカメラだから大丈夫だって言われてね。男ばっかりのところに女一人で入るのも嫌やし、この辺にはカメラ趣味持ってる人もいないし。もう少し若ければやったけど、もうあっちの世界に三分の一足突っ込んどるしね」
ははは、とお母さんが声を出して笑う。僕は昨日、お母さんは詩吟をやっていて石川県老人の部で3位になったと言っていたことを思い出した。
「でも、詩吟は今もやってるんですよね」
「詩吟は今もやってます。声だすのが大事なんですってね。わたしはね、5回がん手術してるんですよ。いまも乳がんある。四週間にいっぺん注射してる。もう歳やから、手術はできんから薬で治療しとる」
朝ごはんを食べ終え、10時半過ぎには善通寺を出発した。絵も日記も終わっていなかったけれど、輪島市内まで17キロあり、早めに出ないと暗くなってしまう。後で絵が描けるように写真を撮っておいた。この日記は輪島で書いている。道中、能登半島で初めてのトンネルを通った。「長いトンネルがある」と柳泉寺の住職さんに言われていたのだけど、歩道は広く明るいトンネルで、それほど苦労しなかった。東北で歩いたあの地獄のようなトンネルに比べたら・・・。
図書館で僕の本を見て、そのあと新聞で僕の記事を見つけ、どこかで会えるかなと期待していたという家族連れが、珠洲市への一泊旅行の帰りに僕を見つけた喜んでいた。
輪島の街に15時過ぎについた。町というより街という感じだ。久々に2~3階建ての建物がたくさん並んでいる場所に来た気がする。これまで通って来た集落に比べれば圧倒的に栄えている。若い人もたくさん道を歩いている。それでも空き家であろう建物が目立ち、隆盛は既に過ぎ去った感が否めない。永井豪記念館や漆芸専門の美術館があったりして、ぜひ普通に観光をしたいところなのだけど、何しろ日記が2日分溜まっているのでそんな時間ないかもしれないな・・・と思いながらGoogle マップで「寺院」を調べ、一軒目の敷地交渉をした。
「すいません、住職さんですか」
「はい。住職ではないですけど」
「ちょっとお尋ねしたいんですけど。あのですね、僕この写真のような、発泡スチロールで作った家をですね、背負って歩きながら移動生活をしながら絵を描いているアーティストなんですけど」
「はい」
「なんていうか、今日の家の置き場所を探してまして」
「ああー・・・」
「この家を置いて寝るみたいなスタイルでやってるんですけど、境内をどこか貸していただけないかなと思いまして」
「ちょっといま寺、行事しとるもんで、また明日もちょっと続くんで、いやあ申し訳ないけど・・・」
「難しいですか」
「うん」
「わかりました」
「ええとねえ、キャンプとか、そういうところは?」
「キャンプ場ありますか?」
「袖ヶ浜行くとキャンプ場あるんですけど。いま閉まっとるから自由に使えると思います。トイレもあるしね」
とキャンプ場を教えてもらった。調べたら確かにあった。しかもウェブサイトを見たら夏季シーズンは料金がかかるが、夏季以外のシーズンは無料で自由に使えます。自己責任でお願いします。トイレも使えますがシャワーは出ません。という文言がわざわざ書かれていた。これはもうここしかないと思い袖ヶ浜へ。この日記を書いている僕は今そこにいるのだけど、本当に海の目の前にあるキャンプ場で、行く前は風が心配だったけど、キャンプ場ならどこかしら風が当たらない場所くらいはあるだろうと推測してきたら、ちょうど良いところがあった。何匹も猫がまわりをウロウロしているし、見たことのない数のトンビがすぐ頭の上をピーヒョロロと鳴きながら飛び回っているけれど、人はほとんど入ってこなさそうだ。
夜、柳泉寺の住職さんが、僕が描いた鐘の絵を使って除夜の鐘のチラシをつくってもいいかと画像付きのメッセージをくれた。当然快諾した。嬉しい。
11月24日
ドバアアという波の音が3~5秒間隔で外から聞こえる。風はほとんどないのだけど、それでも波は荒い。袖ヶ浜海岸はこれまで通って来た海岸のなかでも特に波の音が荒い気がする。
23日の夜はこのキャンプ場に家をおいたあと、輪島カブーレという小さいながら居心地の良い施設、おそらく若い人たちが地域おこし事業として立ち上げ、オープンして1年程度の新しいスペースだろうと勝手に想像している施設で温泉に浸かり、その食堂で天丼を食べ、11月21日の日記の続きを書いているうちにパソコンの電池が切れそうになり、もう思い切っちまえと、自分の家ではなく「ホテルルートイン」にGoToトラベル割引を使って泊まった。日記が溜まりすぎていたので充電しながら集中して仕事をする必要があった。しかしホテルにチェックインした後すぐに取り掛かった11月21日の日記(6000字になってしまった)を書き終わったところでパソコンではなく僕の方の電池が切れ、「ディズニーシアター」を開いて、ずっと見れてなかった「マンダロリアン」のエピソード3と4を観た。マンダロリアンは最高だ・・・。マンドーが親として人間として成長している様が描かれていて素晴らしかった。特にエピソード3で、マンドーとしては絶対に許せないであろう、マスクをすぐに外してしまうマンダロリアンに「This is the way」と言われたときに「This is the way」と返したシーンは感涙ものだった。彼の愛用の宇宙船であり家でもあるレイザー・クレストで、マンドーがおそらく僕の家よりも狭い寝室に入って寝ていることを想像するだけで元気が出てくるし、エピソード3ではもうこれは絶対に飛べないだろうという酷い壊れ方をしながらも宇宙をどうにか飛んでおり、海に落下しながらも誰も死なずに目的の星に着陸できたシーンを見たときは、僕の家のドアは半壊しているけどこれに比べたら全然マシじゃないかと思えた。
翌朝はホテルのチェックアウトを延長してまで日記を書いていたけど23日の日記までは未だ辿り着けず、ホテルをでて日記を書けそうな場所を探した。輪島で有名な、地元の食品や漆器などを売る朝市が行われていた通りを、出店の片付けをしている地元の人たちを眺めながら歩いた。魚介の匂いがする。輪島は何故か、どことなく九州を彷彿とさせる。国の中央部から離れた場所で栄えた港町の独特な雰囲気が似ている。いくつか喫茶店があったのだけど閉まっていたり、地元のお客さんでいっぱいだったりして、結局キャンプ場においてある家に戻り、結局夜までかかって23日の日記を書き終えた。まだ輪島で絵は一枚も書けていない。
海を見ると漁火が! ずっと遠くの海の上空、雲の一部が光を放っている。横に長い五個の光が、等間隔に空を照らしている。その光源であるはずの船の光は見えない。地球が丸いからか?
11月25日
輪島の袖ヶ浜キャンプ場から東に14キロほど歩いたところにある、海と裏山に挟まれた国道に沿って広がっている「名船」という細長い集落の、港の目の前から斜めに入れる数十メートルの坂を上がったところにある「名船寺」というお寺の本堂の軒下に置いた家の中にいる。浜辺では何よりも存在感があった波の音もここでは聞こえない。坂道は狭く、このお寺の向かいには弁当か、なんらかの食品を詰め込む作業をしている小さな工場があり、その中の物音が路上に漏れている。僕が最初に家を持って上がって来たときはちょうど4トンくらいの工事現場のトラックがこの坂道を降りるところに遭遇した。慎重にのろのろと動いていた。ハンドル操作を間違えれば数センチで脱輪してしまうくらいの道を見事に乗り切っていた。
昨日の朝は10時過ぎくらいには袖ヶ浜を出発して輪島の市街地を西から東へ横断し、249号の海沿いの国道へ出て東へ歩き始めた。12時前ごろに写真家の木奥さんが車で合流して、僕を数時間ずーっと追いかけて撮影してくれた。僕は木奥さんの車に荷物の一部を預けて軽量化したのでいつもよりぐっと身軽に。
昨日「クルーズ」で取材を受けた内容がテレビで放送されたらしく、歩いていると10分に1度くらいの頻度で車が停まってカメラを向けて来たり、車から降りて「写真1枚いいですか?」というスタンダードな要求の他に
「近くの学校で非常勤で勤めとるんですけど、白い家が歩いてたって言ってもみんな信じないもんで、ちょっと撮ってもいいですか?」
と携帯を僕に向けながら言うので「構わないですよ」と答えたらカメラを顔に近づけて、
「なぜこれをやってるんですか?」
と、何やら動画を撮りはじめてインタビューしてきたので、ちょっと面倒だなと思いつつ軽く説明していたら、僕の家に取り付けられているGoProに気が付き、
「あ、これ撮影してるんですか? うつさないでくださいよお(笑)」
と自分を棚に上げるおじさんや、
「テレビ見ました!これ差し入れです」
と言って横向きに移動するような不思議な挙動で「ひとくちメロンパン」という、中身が崩れたお菓子を渡してくる女性や、
「がんばれ! がんばれ!」
と叫びながらパチンパチンとすごいテンポで手を叩きまくるおじさんなど、多様な人々のへんてこな応援をうけた。
12キロくらい歩いたころ、昼の2時前に「千枚田」という道の駅に着く。それまで商店などは一つも見つけられなかった。そこで木奥さんと一緒に「ふぐらうめん」と名付けられた河豚ラーメンを食べる。そこは「白米」という美味しそうな名前の地区で、道の駅からは千枚田と呼ばれている棚田を眺めることができで、僕たちの他にも県内や北陸ナンバーの車から降りてきた人たちが写真を撮りまくっていた。僕たちを含めて全員マスク姿。棚田の下はすぐに海の岩場になっていて「あんなに海のギリギリまで田んぼを作って大丈夫なんだろうか」という疑問を木奥さんと考えるなどしていたら「村上さんですか?」と後ろから声をかけられた。見ると法衣を着た男性、明らかにお寺の人で「はい」と言ったら「おおなみです。珠洲の」と名乗る。なんと明蓮寺の住職が「珠洲に行った際はこのお寺を訪ねてみてください」と紹介してくれたお寺の住職であった。「また近くに来たら連絡してください」と言って別れた。能登は主要の国道が1本道なので偶然人に会いやすいかもしれない。道の駅では、
「21世紀美術館で展示されてましたよね?」
とハモりながら聞いてきた、東京から来たおばさん(というべきかお姉さんというべきか悩む)3人組にも出会った。道の駅を出て東へ4キロ弱歩いたところ、この名船という集落に入ったあたりで、今度は虹に遭遇した。とても濃い虹で、すぐそこにあるように見えた。虹って近いか遠いかよくわからないけど、足元がすぐそこの海辺で消えているように見える。びっくりして思わず家をバス停に脱いで写真を撮ってしまった。木奥さんも「虹やー。村上さん、持ってるな~」と写真を撮りまくっている。
15時半にはこの名船寺に到着、敷地を交渉した。
いつも通り「通りすがりのものなんですが」と切り出し、女性が出て来たので敷地を借りたいという旨を説明した。最初渋い顔をしていたので難しいかと思ったのだけど、次に男性(後で聞くと住職さんの倅だった)がでてきて、
「はいはい、おたく? ちょっと家、見せて。さっき通って来た時に」
「あ、歩いてるの見ましたか?」
「うん、あ、オタクかあー!」
と声を裏返して笑った。
「能登ずっとまわってるの?」
「そうです。今珠洲方面に歩いていて、境内にちょっと一晩置かせてもらえませんか」
「ああ、いいですよ」
「ほんとですか! ありがとうございます」
「前僕、どっかでネットで見たことあるような気がする」
「ネットで?」
「販売してなかった?」
「家は販売してないです」
「まあ、いいです。どこでも。ここは全然邪魔じゃないし、裏も邪魔じゃないし。あれ、なんだったら家おいて行ってもいいし」
「いや、家は絶対に持っていきます」
「あれ、ちょっと鶏小屋に良いかもしれない」
「ははは」
「さっき輪島から帰って来たんやけど、朝11時くらいに通る時に、あ、おうち担いでる~って」
「わはは」
「ああ、おたくやったか。まあ、どうぞご自由に」
「ありがとうございます~」
敷地がすんなりと決まった。なんというか、軽快な人で緊張せずにすんだ・・・。家を本堂の軒下に置いたところで再び出て来て
「寝る場所決まりましたかー?」
と声をかけてくれる。
「ここでいいですか?」
「全然大丈夫」
「あの、トイレ。トイレ使うよね?」
「ああ、一応、簡易トイレみたいなのは持ってるんですが」
「ああ、持ってんのか。じゃあそんなに世話せんでもいいか、まあ一応! 一応ね」
簡易トイレと言ってもただの空のペットボトルである。小はできるが大はできない。しかし僕の体は都合よくできているようで、近くにトイレがないところで便意をもよおしたことがない。これも「環境が人をつくる」ということか・・・。荒川修作は偉大だ。でも今思いだしたのだけど数日前、口の大きいペットボトルのようなものの中に脱糞する夢を見た。あれはもしかしたら、大用の携帯トイレを用意しろという予知夢かもしれない。
「ここ、トイレ、ここ」
と、なぜか住職の倅さんが、突然ひそひそ声になって本堂脇の戸を開けてトイレを案内してくれた。
「はい、はい」
と僕もつられてひそひそ声で答える。
「ここは、なぶねじ? ですか?」
「みょうせんじ。です。」
「みょうせんじ。住職さんは何代目になるんですか?」
「僕まだ住職じゃないんだけど、親父は18代くらいかなあ。」
「18代・・・。どうもこのたびは助かりました」
「いやいや、ご飯用意せえって言われたら困るけど場所だけならね」
「はい。場所だけで」
「ここは蓮如さんのときに、よくある・・・真言か天台だったかな・・転派してね」
「ああ、じゃあ真宗大谷派ですね」
「そう。今はね」
どこに行っても蓮如さんの名前が出てくる。いったいどれだけのカリスマ性を備えた人だったのか・・・。
「能登は、熊は・・・大丈夫だと思う」
と熊の心配もしてくれた。
「けど、能登島とかは熊いるから」
「そうなんですか」
「あのほら、富山と県境のところから来て、大田火電か、あの辺から能登島までは行ってる」
「熊が」
「うん。だから夜は・・・。まあこの辺は聞いたことないけど」
「猪とかはいますか?」
「いるいる。こっからちょっと奥上がったところ、すぐ猪いる。まだこの辺は降りてこないけど。あ、そこちょうど外灯がつくから」
と言って、電信柱の外灯を指す。
「じゃあ灯りもばっちりで、助かります。ありがとうございます」
「あ、それともう一つ、水どうしますか。外の水道は、これ川の水なんで。昔は飲用にしてたんですけど。最近濁るんで」
「じゃあ、歯ブラシの時に使わせてもらいます」
「歯ブラシくらいやったら大丈夫や。あとは自由にやってください。よろしくどうぞー」
倅さんは軽快に家に戻っていった。気がつけば、小さな綿のような虫がたくさん飛んでいる。雪虫? 虹といい、雪虫といい、なんだか祝福されているみたいで嬉しい。でも木奥さん曰く、路上でちょっと話した地元のお婆ちゃんは虹には全然驚かずに、僕のことを「あれなに?」と聞いてきたという。能登半島、虹はよく出るのかもしれない。
それから1時間ほど絵を描いて、港をぷらぷらと散策したらもう真っ暗で、木奥さんに車で輪島のほうにある温泉に連れていってもらった。名船は小さな集落なので銭湯などあるはずもなく、前日も風呂に入りそびれたので助かった。歩いたときは3時間弱かかった道なのだけど、ものの15分程度で着いてしまった。半端なく速いけどやっぱり車は、なんというかもったいない。物事を飛ばしすぎるというか・・。車で走っているときは歩きたくなるし、歩いているときは車に乗ってしまいたくなる。
風呂のあとはさらに輪島市内まで移動し、ご飯(ヒレカツ定食)を食べて帰ってきた。20時。
木奥さんを見送ったあと、なんとなく海に呼ばれるように坂を降りて港まで降りた。途中、室内干しをしている坂の下の家のお母さんを目撃する。南はすぐ裏山で、北は海。洗濯物はかわきにくそうだ。
波打ち際で、自分が先ほど見た虹のなかにいることに気がつく。風は弱く、ざぷん、ざぷん、ざぷんと波が打ち続けていて、それを眺めている自分が虹の中にいると思うと、現実味が少しずつ薄れていく。海の向こうには漁火が浮かんでいて、上空には満ちていく半月。右には海を望むように鳥居が立っており、波以外に動くものはない。時折後ろの国道を走る車のライトがテトラポットから漏れて砂浜に光を当てる。学生の頃新潟で大勢の友達と夜の海ではしゃいでびしょびしょになって車に乗って帰ったこととか、1週間前に千里浜をずっと歩いてお昼ごはんが買える店を探したこととか、いろいろな過去のイメージがランダムに時間を飛び越えて飛んできて消えていく。波が浜辺を打つみたいに。遡れば僕の先祖はこの海で生まれ、陸に上がってきた。海に呼ばれるのも自然なことなんだろう。
11月26日
「すごいでしょう、音楽に合わせたこの動き!」みたいなことを言って踊りながら襲ってくる長身の女の人から軽快に逃げる夢を見ていたのだけど、「おい!」と叫ぶ男の声が聞こえた気がして驚いて目が覚めた。自分が自分の家の中で寝袋にくるまっていることに気が付いた直後に家の外に誰かの気配を感じ、じっと耳をすましていたのだけど特に音沙汰はなくて、体を起こしてそっと窓を開けて外を見ても誰もいない。人の気配は気のせいだったらしい。でも叫び声が確かに聞こえたような気がするのだけど。iPhoneをつけたら夜中の2時半だった。もう一度横になってすぐに眠ったのだけど、今度は「もしもし」という女の人の声で飛び起きた。今度は家の外に誰かいると確信できるほどはっきり聞こえたので「はい」と中から返事をした。・・・しかし返事はなかった。外は明るくなっていて、6時45分だった。夜中にやったように窓を開けて外を見ても誰もいなかった。ちょっと勘弁してくださいよ。もしかしたら、ここにいると危ないと教えてくれているのか? と思って靴を履いて外に出てみた。すぐ目の前に日本海が見えて、空は雲の白を薄く伸ばし、ところどころに濃い青空が見えてとても綺麗だったのだけど、めちゃくちゃ寒くて、とりあえず海の方までぷらぷらと歩いていったのだけど5分も経たないうちに寒さに耐えられなくなり、家に戻って横になった。気がつけばまた眠っていて起きたら9時半になっていて、今この文を書いている。11月27日の朝、珠洲市の大谷という地区にある「スーパーおおたに」の駐車場にいる。もうだいぶ気温が上がっていて、外はまだ見ていないけど家に差し込んでくる光の具合からして、空は晴れているようだ。パソコンの電池が残り17%。昨日の日記を書き切れるだろうか。
26日、朝から夕方までNHKのカメラがついてきた。宝達志水町のお寺で敷地を借りた時に一緒に歩いたディレクターから、この日はカメラの撮影をさせて欲しいと言われていた。名船寺の本堂の軒下で目が覚めて、横になった姿勢のままパソコンを開いて日記を書いていたら「村上さん」と声をかけられて、ドアをあけたら「ちょっと、この感じ撮影していいですか?」とカメラに撮られた。NHKからは音声さんとカメラマンさんとディレクターの3人が来ていた。
風が強いことが、家の中にいても木々の枝が揺れる音で分かった。名船港まで坂を降りてみたら案の定、耳元でビビビと音が鳴るほどに風が強く、裏山の木の枝もゆさゆさ揺れている。この風の中移動したら僕の家はひとたまりもない。
「今日は歩けません」という話をディレクターとしたのだけど「どうにか歩いてもらいたいんですが・・・」というので一つ提案として、撮影班の皆さんが乗って来た車に家を積んで大谷町まで移動させたあと、海から少し入った風の弱そうなところを歩いている様子と、そこで敷地を交渉する様子を撮影したらどうかと言った。ではそうしましょう、ということになり、僕は家に戻って25日の日記の続きを書いていたら、外で家のサイズを図る声が聞こえる。「横幅入らんぞ・・・」「縦は?」「ぎりぎりかなあ」しばらくしたらディレクターさんが「村上さん」と声をかけてきて
「この家って、軽トラに乗せて縛ればこの風でも運べますかね」
「はい、多分。軽トラあるんですか?」
「軽トラを、借りてこようかと」
「おお」
「縛れば大丈夫ですかね」
「大丈夫だと思います」
と、 撮影班が金沢から軽トラを手配することになった。車が来るまで1時間半くらいかかりそうだということで、日記を書いたあとは名船寺の境内で30分ほどインタビューを受けたのだけど、その最中に救急車がやってきて、みんなで「近いなあ」と話をしていたらなんと名船寺の中へ救急隊員が入っていくのが見えた。初めての事態だ。どうしたらいいのかわからなかった。声をかけるのもなんだか変だし、みんなで突っ立って見ていたら中から担架でおばあちゃんが運びだされていった。すぐ後から住職の倅さんが出て来て、救急車のほうをじっと見ていたので、近づいて「だ、大丈夫ですか?」と声をかけた。
「いやあ、最近退院したんやけど、また今日調子悪くて」
「ああ・・・そうですか・・・なんだか大変なときにすいません」
「いやいや。大丈夫ですよ。年寄りがいると大変やねえ」
もう一人別のおばちゃん(初めて見る人だ)も家から出て来ていて、僕に微笑んで話しかけてくれた
「今日もう出発されるんですか?」
「はい、どうもお世話になりました。ありがとうございました」
「いえいえ、お気をつけて~」
と言い、倅さんと一緒に車にのって救急車の後を追っていった。なんて徳の高い人たちだ・・・。
外で受けたインタビューで体が冷えたので、再び家の中に入って寝袋にくるまってうとうとしていたら「村上さん、車が来ましたので移動の準備お願いします」とディレクターに声をかけられる。タレントになった気分だ・・・。車は大きなバンだった。カメラマンの人が自分の会社から手配したものらしい。家はちょうど荷台に収まった。
そこから17キロほど東へ走って珠洲市に入り「スーパーおおたに」の駐車場で家を下ろして、Googleマップ上ですこし海から離れたところに3軒のお寺が固まっていたのでそこまで歩く。坂の上に大きなお寺(寺というものは大抵坂の上にあるらしい。ここも真宗大谷派だった)があったので門の下に家を置いて敷地を交渉しようと境内に入ってみると、本堂から何かを話している人の声が聞こえる。近づいてみると、内容は聞き取れないのだけどどうやら法話をしているらしい。ここでは敷地の交渉はやめた方がよさそうだと思い、他の2軒のお寺を探したのだけど両方とも一軒家のようなお寺で「境内」と呼べるものはなかった。うろうろと、テレビカメラを引き連れて付近を徘徊していたら、先ほど法話をやっていたお寺からおばちゃんが一人出て来て、一軒家のようなお寺の一方に入っていこうとするので呼び止めた。
「ちょっとお尋ねしたいんですが。すぐそこに小さい犬小屋みたいな家があったと思うんですが・・・」
「ああ、はいはい」
「あれを僕、肩に背負ってですね、能登半島を歩いて、その家の中に寝泊りしながら絵を描いてまわっている絵描きなんですが」
「ああ、そうですか。私また、紙芝居かなにかやるのかなと」
「あ、紙芝居・・・ふふふ。それで今、あの家を置いてそこで寝るんですけど、その置く敷地を探してまして」
「ああー」
「どこか、場所ないですかねえ」
「空き地はたくさんありますけどねえ」
「空き地か・・・この、境内があるお寺って大谷のこのあたりではあそこだけですか?」
「そうですねえ。梨山、っていうところまで行かれたらお寺ありますけど・・・」
調べたら、海沿いをもっと東へ行ったところだった。この風の中で歩くことはできない・・。
「そうですか・・・あの上のお寺、いま法話やってるんですか?」
「はい、お法話。やってますね」
「あれ何時くらいまでやってるんですかね?」
「3時くらいだと思うけど、明日も明後日もやってるからちょっと難しいと思いますねえ・・・」
おばちゃんは自宅のすぐ上にあるお寺の法話を聞くのにちょっと出かける、という程度の薄着の正装だったのでこれ以上引き止めるのは申し訳ない。
「そうですか・・・わかりました。ちょっと他を探してみますね。ありがとうございます」
「はい、すみません、お役に立てんで・・・」
「いえいえ!」
この集落内にはもうお寺はないということだったので、この時点でもう選択肢はひとつしかない。「スーパーおおたに」に行くしかない。再びカメラを引き連れて家を動かして歩いている途中、さっきのおばちゃんが車で通りかかった。
「ここ空いてるよ」
おばちゃんは車から降りて言った。指した場所は一軒家だった。
「え、ここですか?空いてるんですか?」
「今東京に行ってて、空いてるよ」
「そんな勝手に借りて大丈夫なんですか?」
「いや、その時はわたしが言わなきゃいけないけど、もし他になければ・・・わたしいま急用でもう出なくちゃいけないんですけど」
「本当ですか。じゃあ最悪、また伺います」
「はい、はい」
とおばちゃんは再び車に乗り込んで走り去っていった。良い人だ・・・と思った。
スーパーの駐車場の隅に一旦家を置いて、敷地を交渉するべく店に入ろうとしたら入り口のすぐ前に車が停まり、車から出て来たおばちゃん(書いていて思ったけれど、この集落は"おばちゃん"が多いようだ)が野菜か何かをせっせと店内に運び入れ始めたので、「お店の方ですか?」と声をかけたら「いや、いや、違います。お客さんです」と言われた。店に入るとレジに一人おばちゃんが立っており、レジの隣にはおばあちゃんが座ってなにか雑談をしていた。
「こんにちはー」
「はいこんにちは。おうち被ってる人ですか」
「はい、おうち被ってる人です」
「ああ、そうなん。風強いからねえ」
「風強いんですけど・・・テレビカメラに歩かされてるんですけどいま」
「ふふふ」
座っていたおばあちゃんが笑っている。レジに立っているおばちゃんのほうに「店の方ですか?」と聞いたら「店の従業員です。社長は奥にいます」とのことだったので、僕は(カメラを引き連れて)店内奥の暖簾の向こうにある事務室らしきところへ行って「社長さん、すみません」と声をかけた。「はいはい」と出て来た男性は、この集落で見かけた人の中でも一番若いように見えた。
「ちょっとお伺いしたいんですけども、いま僕こういう発泡スチロールで作ったおうちを持ち歩いて・・・」
「ああ、なんか新聞に出とった」
「見ましたか? 何日か前の北國新聞に載ってたんですけど」
「見た」
「この家を置いてそこに寝るんですけど、その置き場を探してまして」
「はい」
「駐車場に、一晩・・・」
と言ったところで社長さんの方から食い気味に
「ああ、いいですよ。いいですよ」
と言ってくれた。
「あ、ありがとうございます! 助かります」
「はい、はい。どうぞ」
スーパーおおたには今の社長で二代目。もう亡くなった父親が始めたお店で、夜は19時半まで、朝は8時から営業している。すぐに食べられるパンやおにぎりや、野菜や肉などの食品の他に、トイレットペーパーや掃除用具や文房具など色々と取り揃えている。僕は晩ご飯用に、パンといなり寿司と手巻き寿司のパックとお茶と暖かい缶の甘酒を買った。店の出がけにレジのおばちゃんに、
「ちょっと、一晩お邪魔します。駐車場に」
と言ったら、
「ああ、そうですか。風強いですよ」
とおばちゃんが笑った。
家を駐車場隅の柿の木の下に設置して窓を閉め、寝る時に邪魔になりそうなサイズの石をどかして銀マットを敷き、床を作っている時にNHKのディレクターから「寝支度をされてるんですか?」と聞かれた。それに対して「いや、僕の家は基本この形態なんですよ」という言葉が口をついて出てきたのだけど、いま考えると確かに、僕の家の基本形態はこの「床が敷かれた状態」であるべきだ。なぜならこれは家なのだから。この発泡スチロールの、基礎のない家形の箱の下に敷地が伴った時に、これは初めて家になる。では僕がこれを肩に担いで地面から浮かしているとき、これはなんなんだ?
日本海をバックにした強風と寒さのなか、手がかじかむ限界が来るまでスーパーおおたにを描いた。店内に、おばちゃんやらおじちゃんやらがどんどん入っては出ていく。なんだか挙動がそれぞれに違う。あるおじちゃんは黄緑色の籠、野菜か何が入っていると思しき籠を両手に抱え、しばらくして手ぶらで出て来た。あの籠は商品だったらしい。最初に話しかけたおばちゃんもそうだけど、誰が店員で誰が客かわからん。レジの隣のおばあちゃんもまだ座っている。
絵を描く手が風と寒さによって限界に達し、家に戻って少しだけ日記用のメモを書いた。単語や短い文さえ書いておけば、後から文章にできる。カメラを向けられながら書いている。
「ちょっと失礼します、うちのバンが来たことも書いてあるんですね」
とカメラマンさんが言う。
「書いてますよ。全部書いてるので。なんならいま『カメラを向けられながらこれを書いている』って書いてます」
「ははは」
「でも、ちょっと書けないですね。カメラ向けられると。」
カメラを向けられると書けない。絵はまだしも、人に見られているときに文は書けない。この違いはなんだろう・・・。
暗くなるころにはNHKの撮影班は帰って行った。ちょっと体が冷えすぎた。でも大谷は小さな集落で、銭湯がない。遠い昔「クルーズ」で偶然出会った奥能登国際芸術祭事務局のスタッフの知人Nさんに電話をかけて「ちょっとお風呂に連れていってもらえないか」と頼んだ。快諾してくれた。
「ちょうどそっちの方に行く用事があるので」
車で迎えに来てもらい、珠洲市内にある「元気の湯」という銭湯へ。男風呂には僕の他に5、6人の客がいる。露天風呂に浸かりながら「風呂に入れてよかった」と思った。心から思った。生活というものは必ずついて回る。僕がいくら家を動かしても、風呂に入りたくなるし、ご飯を食べなくてはいけないし、トイレもいくし、電源もあったら嬉しいし、WiFiもあったら嬉しいし、もっと言うと映画館も美術館も服屋もあったら良い。そういうものを、移住を生活する、の中では一つ一つ探していかなくてはいけない。今日は風呂がないかもしれないとか、トイレが遠いとか、そういうことを毎日考えて家を組み立てないといけない。そしてそれには時間がかかる。だからこの生活は忙しくなる。絵を描いたり日記を書いたりするから忙しくなるのもあるけれど。この辺境の地では強くそれを感じる。家の敷地を間違えればご飯が手に入れられなかったりする。昔鹿児島で家を動かしていた時や、奥入瀬にいた時にはそうなった。「貝ひも」で二食をやり過ごしたり、1キロくらいあるサラミと水だけで1日過ごしたりした。風呂も時々なかったりする。家賃を払うということは、そういうものを一本化してパッケージ化された場所を手に入れるということだ。つまり時間を買っている。
「たしかに昔のロックの方が凄そうだもんね。昔のロックって、ただアバンギャルドで・・・概念がなかっただけだもんね」
と言いながら、浴場から大学生くらいの男二人が脱衣所に出て来た。
「俺はこれから、美容タイムが始まるわけよ」
「え、そうなんすか」
「そうなのよ。サウナも最近はまっててさ・・・やっぱさ、女性にサウナを勧めるのは、これはただ"美"だよね」
不思議な話をしている。風呂場を出てNさんに迎えに来てもらい「スーパーおおたに」の駐車場へ戻った。
家の中でも波の音が聞こえる。ゴオオオという感じでリズムがない。
11月27日
これから27日の日記を書こうと思うのだけど、いま時計は既に28日の午後3時20分。僕は北鉄バス「珠洲特急 金沢駅西口行き」に乗って羽咋市のあたりを爆走している。爆走という言葉がぴったりの速さ。十日ほど前に右足と左足を交互に動かすことによって時速4キロで北上した道を、ガソリンの燃焼によるエンジンの高速ピストン運動や車体の複雑なスプリングとホイールの構造によって生み出された時速80キロという驚くべき速さで南下している。文化庁の「継続支援事業」への応募などいくつかの仕事と、何人かの客人を金沢21世紀美術館で迎えるために一旦、体だけ金沢へ行き、10日ほどで家、つまり珠洲市に戻る予定。
昨日の朝は、日記を書いていたら一度人が近づいてきて「村上・・・」とおばちゃんの声がして家の周りをぐるぐるまわって訝しんでいる以外は誰も近づいて来ず、ゆっくり日記が書けたし、例の不思議な二つの声以外に起こされることもなく、ちゃんと眠れた。前日の日記をひと段落させたころにはもう11時近くになっており、僕は荷物を片付けて床と寝袋を格納し、窓を開けて家を動かすモードに変えてから「スーパーおおたに」へ挨拶に行った。売店のおばちゃんが「おはようございます!」と声をかけてくれた。一晩この集落で過ごしたせいか、昨日よりも親密に接してくれている気がする。あるいは朝だから元気なだけかもしれない。
「社長さんいますか?」
「社長はまだ帰ってないんですが・・・昨日は寝られたんですか? 寒くなかったんですか。あんな狭いとこで、体曲げんと寝られないんじゃ・・・」
「いや寒くはなかったですよ。狭いのはまあ、慣れてますから」
「でも良い天気になってよかったですねえ。天気悪かったらどうしようって昨日思っててえ」
能登は語尾の音を少し上げて、母音を強く発音する人が多い。「てえ」の場合は「え」がはっきりと聞こえる。
「もうそろそろ出発しますので、社長さんによろしくお伝えください」
「峠の方を行くんですか?気をつけて」
「はいーありがとうございますー」
店を出ると、珠洲市役所の広報スタッフの方が二人僕の家を撮影していた。Nさんが呼んだらしい。「村上さんが珠洲にたどり着くまで何度か車で来るので、歩いているところを撮影させてもらいます」と言われた。二人に撮影されながら柿の木の下に設置した家を持ち上げて(関係ないけど家を持ち上げるときにゴゴゴゴ・・みたいな効果音を付けてアオリ気味でスロー撮影すれば、ウルトラセブンでウルトラホーク1号が出撃するために山がぱかっと割れて基地が露わになる時とか、ハウルの城が動き出す時のような壮大な感じになることだろう)、11時には出発。行き先は南東に13キロ進んだところにある「奥能登国際芸術祭事務局」と決まっている。スーパーのおばちゃんが「峠」と呼んでいた通り、途中すこし山を超えるような形になるので覚悟して歩いたのだけど、それほど急な坂道ではなかった。
歩き出して30分程度経った頃に僕の左に軽トラが止まり、中からおじさんが
「ずっと歩きですか?」
と声をかけてきた、
「はい。え? どういうことですか?」
「車とか載せんのですか?」
「え。車に載せてくれるんですか?」
「どこまでいくん?」
「珠洲です」
「珠洲の飯田まで?」
「はい」
「じゃあ車乗せるけ」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
となったのだが、すぐ後ろからついて来てるであろう市の広報スタッフのことや、昨夜NHKのディレクターが「あまり歩いているシーンを撮れなかったので、今日一人で追加撮影に来たい」と言っていたことを思い出した。僕はもしや歩くことを求められているのか? 一人なら喜んで軽トラックに載せてもらっているところだけど、今回の移住生活は一人でやっている気がしない。まあ名船から大谷も車で来てしまったし、珠洲の峠がとんなものか歩いてみるのもいいなと思いなおし、
「やっぱいいや! いいです! ありがとうございます!」
とおじさんに向かって叫んだ。
「いい?」
と言って、おじさんと軽トラは走り去っていった。しかし、iPhoneの電波がずっと圏外だった。ラジオは聞けず、音楽もiPhoneにダウンロード済みの数少ない楽曲しか再生することができない。せめて圏外じゃなくなるところまで載せてもらえばよかったと思いつつ音楽を聴きながら僕は新しい遊びを開発した。GoProで窓の外を撮影しつつ、右手には広島で昔メンダーさんにもらったアサラトを持って四つ打ちを刻みながら、ローリングストーンズやサザンオールスターズの曲(歩きのリズムに合うもの)をイヤホンで聴いて歩く。これが楽しい。路上の落ち葉が靴に踏まれて鳴らす音や、石を蹴る音や、道路脇に生えている植物が僕の家の壁や屋根に当たる音が、アサラトのリズムにアクセントを加えてくれて、MVを作っているような気分になる。「移住を生活する」6年目にして初めての遊びだ。二曲ほど撮影した。
12時ごろにNHKのディレクターさんから「やっぱり今日は撮影しません」というメッセージが入り、チクショウ軽トラ乗っとけばよかった~と思ったのだが、歩いたおかげで映像が撮れたし、一つアイデアも生まれた。皆僕に対していろいろな質問をしてくるのだが、僕はそれに素直に答える前に「その質問にはお金かかります」とか言ったらどうか。「家は何キロくらいあるのか」という質問はもう息がウッとなるほど聞かれていて、僕はそれにいちいち「測ったことないけど15キロないくらいだと思います。測ったことないけど」と答える。もうお金をとりたい。「ご飯はどうするの?」は五百円。「お風呂はどうするの?」は千円。「寒くないの?」は百円でいい。「寒くないです」と答えればいいだけだからな。
道中「寄り道パーキング若山の庄」にある「お母さん食堂」というところでうまい海苔やワカメが入った美味しい磯うどんを食べて腹ごなしをしていたら「ちょっとみなさん! 来てください! あの、先生? テレビで見ました! あの家運んでらっしゃるんでしょう?」とおばちゃんに話しかけられ、「寄り道パーキング若山の庄」のスタッフに取り囲まれ「あの家何キロくらいあるんですか?」という質問に答えながらうどんを食べるなどの修行を経て、15時過ぎには珠洲市飯田にある芸術祭事務局に到着。到着してすぐに、知らないおばちゃんが車で近づいてきて干し柿とお茶とあったかい缶コーヒーを差し入れてくれた。僕は缶コーヒー以外は受け取った。
事務局のテーブルで先ほどもらった干し柿をむしゃむしゃと食べながら、安定したネット環境と電源があることにこの上ない喜びを感じながら溜まっていたパソコンの作業などをこなしつつ(なんだか色々な締め切りが来るのだけど、今日メールが来て明後日の朝までに確認お願いしますとか、そんなんばっかりだ。速すぎる)、珠洲市生まれの芸術祭事務局の職員さんと雑談などをしていたら、スーツ姿で肩まである髪がさらさらしているにいちゃんが部屋に入ってきた。数年前に東京から珠洲に移住してこちらで会社を立ち上げた人で、「能登に来て上手くなったのは、草刈りと祭と麻雀」だという。珠洲のことをいくつか教えてくれた。僕は能登半島の外浦をずっと歩いてきて、黒い屋根瓦の家がやたらと多いなと思っていたのだけど、それらはほとんど珠洲で作られていたものらしい。ここはかつて屋根瓦の生産が盛んだった。黒い瓦は、雪を溶かすとか、釉薬が雪を滑らせてくれるとか、色々なメリットがあるとのことだった。また輪島から珠洲まで歩いている時に、おじちゃんやおばちゃんに「どこまで行くんだ」と聞かれて「今日は珠洲まで」と答えてもピンときていない表情をされることが多かったのだけど、芸術祭の事務局が「飯田」という集落にあることを知ってからは「飯田まで」と答えるようになり、そうしたらみんな「ああ、飯田までね」というようになった。珠洲市は合併されて生まれた街なので、飯田とか、宝立といった具体的な地名を出した方が納得する。特に高齢の人は自分を「珠洲市民」とは思っていないかもしれないとのこと。もう一つ、能登半島はものすごく祭の数が多いのだけど、集落ごとにキリコを持って独自で祭をやるくらい多いので、担ぎ手が不足していて、他の集落から助っ人を呼ぶこともある。それは昔から自分たちの祭の時期に、普段世話になっている人を外から招いて、輪島塗などのお椀で食事を出してもてなし、自分たちのキリコを担いでもらうという「よばれ」という風習として存在していた。人足の補充システムが風習の中に組み込まれている。ちなみに能登には「あえのこと」という面白い風習もある。毎年12月5日と2月9日に豊穣を祈って田の神様を家に招き、田んぼに送りだすのだけど、実際に戸を開けて神様を中に招き入れ、お茶を出したり、御膳を用意したり、お風呂に入ってもらったりするという一連の動作を行う。家庭によってやり方が少しずつ違うらしい。親から子へ伝承されるもので、その伝わり方が違うからだろう。
6時近くになってから二人でご飯を食べに行き、そのあと彼が贔屓にしているというスナックに入った。そこでは「くいなぐち・へりむしろ・はげ・かに・うお・ずいねん・じゃばみ」など、珠洲市には変わった苗字の人がたくさんいるという話や、ママは珠洲に移住してきて30年経ち、自分はもう珠洲の人だと思っているけど未だに他所から来た人だと思われているという話など聞く。と、書いたところで、僕もママのことを「よそから来た人」として見てしまっていたかもしれない、と気がつく。生まれた場所によって「その土地の人かそうではないか」を決めてしまう、この無意識は一体いつ覚えこまされたんだろう・・・。
それにしても、手と足が痒い。10箇所くらい刺されている。どうも数日前から寝袋の中にダニがいるらしい・・・。「海の方は訳のわからん虫いるよ」とママは言っていたけれど、一体いつ寝袋の中に入り込んだんだろう、と不思議に思っていたのだけど、さっきわかった。輪島の袖ヶ浜キャンプ場には野良猫がたくさんいた。ご飯を食べた後、キャンプ場に置いてある家に帰ったとき、ドアを開けたら中でガタン! バタバタと音がしたのだった。野良猫が、僕の家の覗き窓から侵入して寝袋の中に入っていたのだ。あの時に寝袋にダニが移ったのだ・・・。
バスが金沢に到着した。ゴミを一袋抱えていたので雨の中ゴミ箱を求めてすこし彷徨ったのだけど、どこにもない。ゴミは全員、自分の家庭で指定ゴミ袋にいれて指定された曜日に出せってことか。住所がない人はどうすればいいんだ?
編集部からのお知らせ
金沢で、村上慧さんの展覧会が開催されています。
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会場:金沢21世紀美術館 展示室13
会期:2020年10月17日(土)-2021年3月7日(日)
10:00〜18:00(金・土は20:00まで 1/2、3は17:00まで)
休場日:月曜日(ただし11月23日、1月11日は開場)、11月24日(火)、12月28日(月)〜1日(金) 、1月12日(火)
料金:無料
お問い合わせ:金沢21世紀美術館 TEL 076-220-2800