暮らしと浄土

第3回

忘れられたツネイチ

2021.12.23更新

 九月。長かった夏休みが終わり、子供たちは最初の登校日を迎えた。

 そして学校から家に帰ってくるなり4年生の娘が開口一番大きな声で言った。

 「ツネイチ忘れとった!」

 ・・・意味わからん。全くわからん。

 このツネイチが常一、つまり宮本常一を指していることだけはわかる。

 戦前から戦後の高度経済成長期にかけて日本中をくまなく歩き、生涯にわたって各地に息づく暮らしを記録し続けた稀代の民俗学者・宮本常一だ。彼はここ周防大島出身でうちから近くの図書館には記念館も併設されている。それは島に暮らす人間なら誰もが知っていることだ。

 だが、ツネイチを忘れるとは? 意味わからん。なんなんその使い方。どっかそこらを歩き回る新しい遊び?

 娘に詳しく聞いてみると、どうやらそれは夏休みの宿題の一つであるという。なんでも、宮本常一が撮った周防大島の写真の中から生徒がそれぞれ好きな一枚を選び、その写真の場所が今現在どのように変わっているのか、当時の生活はどのようなものだったのかを考える。さらには当時を知る人にインタビューなぞをして、より詳しく探るものだという。

 素晴らしいじゃないか。それはとてもいい宿題だ。自分が今生きている場所がどんな場所なのかを考えるきっかけになる。それに足を使わなくちゃできないというところもいいね。ナイス小学校。

 ・・・え?

 ・・なに? 

 まさか全然やってないの?

 「うん。なんにも」

 と、誇らしげに頷く娘。おのれよくもそんな一番時間がかかりそうなやつを。これはもう一緒にやるしかないか。

 娘が選んできた写真を見せてもらうと、それはモノクロの坂道の写真だった。大きな石垣に挟まれたまっすぐな細い坂道。とてもよく見慣れた風景だ。それもそのはず、そこに写っていたのは僕らが暮らしている集落の50年ほど前の姿だった。

 「近くやけえすぐ終わると思ってこれにしたー」

 モノクロでわかりづらくはあったが、確かに僕らの集落だ。だけど、その写真に映る場所が正確にどこなのか、僕にはパッと分からない。何度も通ったことがあるような、ないような。

 こんなときはやはり先輩に聞いてみるのが一番だろう。

 僕と娘は近所に住む、山本さんに聞きに行くことにした。

 山本さんは、いつも色々なことを教えてくれる一人暮らしのおばあちゃんだ。前に訪ねたのは春先だったか。あのときはそうだ、初めての牡蠣打ちに連れていってもらったんだ。牡蠣打ちというのは砂浜に牡蠣を採りにいくということ。

 「満月から三日後のこの潮の日がええ、夕方、浜にきんさい」

 山本さんは旧暦のカレンダーを見てそう言った。

 え? 満月? 月を見て決めるの?

 なんにも知らない僕らはぽかんとしながらも、言われたとおりに家族みんなで出かけて行った。

 その日、砂浜は今まで見たことないほど完全に潮が引いていた。いや、道路からしょっちゅう見てはいた。だが、自分たちの足でそこに立つのは初めてだった。いつもよりもずっと砂浜は広くなっている。そこら中にたくさんの岩が落ちていた。落ちていたっていうのはあくまでこちらの感覚か。普段は海の中にいるから見えないだけで、そこにいつも彼らはあるのだから。ということは今、海の中を歩いているのか。普段見えないところが見えている、そう思うだけでなんだかワクワクしてきた。

 「これよこれ」

 岩の一つを指差す山本さん。

 え? ただの岩じゃん。

 牡蠣の蓋を開ける道具は、金槌に似ていて、先の方を細く長く尖らせた格好をしている。事前に言われていたので、あらかじめ僕らも手に入れておいた。近所の古くからある金物屋さんでは普通に売っている。

 山本さんが岩のゴツっと膨れているところをその金槌で叩く。

 パカっ

 中から現れたのは紛れもなく牡蠣だった。

 うおおおおおーーーー!

 僕らは感動した。牡蠣じゃん。マジで牡蠣じゃん。え? この岩みたいなのならそこら中に落ちてるよ? もう今夜はフライで決まりじゃん。

 あったよー! こっちにもー!! 子供たちも興奮している。いや僕の方が興奮している。なんだこれは。楽しいぞ。釣りは待つのがどうも性に合わないと思ってたんだ。だけどこれはいい。とてもいい。なにしろ自分で歩いて拾いに行けるんだから。気分は縄文人。採集社会万歳。

 初めのうちはなかなか上手く蓋を開けることができなかったが、やっている間にだんだんコツがわかってきた。興奮の1時間で僕らのバケツは牡蠣でいっぱいになっていった。

 「そろそろ終わるかのー」

 声をかけてくれた山本さんのバケツを見ると、僕らのよりはるかに大きいバケツがいっぱいになっている。しかもピカピカでキレイだ。いっぱいだと思っていた自分たちの牡蠣が急に少なく見えてきた。それになんだか汚らしい。グチャグチャしてるし、牡蠣の殻の破片がいっぱい紛れこんでいる。

 山本さんレベル違うやん。生きるスキル高すぎやん。

 「遊び事よ。毎日遊ぶんが忙しゅうて忙しゅうて」

 なんてかっこいいんだろう。少し汗を滲ませて笑顔で言った山本さんを見て、いつか僕もそんなふうに言ってみたいと思った。

 娘はノートや筆箱、そして宿題のモノクロ写真を持って、覚えたてのディズニーの歌を歌って歩いている。道すがら、山本さんの畑の前を通ったが誰の姿もない。きっと家にいるのだろう。

 家の前に着くと、山本さんは畑から帰ってきたあとのようで座って休んでいた。

 挨拶をし、事情を説明すると、

 「私にわかるかねえ、誰か他の人に聞きんさい」

 と言いながらも、快く家の中に招き入れてくれた。

 「まあ上がりんさい」

 僕らは山本さんの家に上がり込み、ちゃぶ台を一緒に囲んだ。娘が例の写真を山本さんに渡して見てもらう。

 「はあこれは、どこかいね。ん? あー、・・・ここは柳原の家の前の道じゃ。今はおらん家じゃね。この家は確か旅館じゃったと思う。」

ーー旅館? 旅館がここにあったんですか? 誰が泊まるんですか?

 とても信じられない話だった。僕らの集落は、現在30戸ほどしかなく、お店はもちろん自動販売機一つすらないようなところだ。旅館なんて考えようもない。

 「ほうよ。3軒あった。

 昔はたくさんの人がお大師様に参ったんよ。」

 お大師さまとは、島のお遍路、八十八ケ所にお祀りされている弘法大師のことだ。それぞれお堂になっていて、島のどの集落にもある。

 「みんな船でくるけえね。昔は全然道がなかったけえ。」

ーー車は来れない?

 「来ない来ない。見たこともなかった。道がないんやけえ。船よ。ここへは船でしか来れんかったから。」

ーー歩く道は?

 「あっこにため池があろう?

 あの脇を通って山道を歩いて片添の方に抜けよった。これぐらいの道しかないけどね。」

山本さんが両手を開いて示してくれた幅は大人一人がやっと通れる程度だ。

ーー学校へはどうやって行ってたんですか?

 「中学校へは、白木の山を超えて歩いていくんよね。1時間。途中には松茸やら何やらあるんよね。あっこは昔、松茸山じゃったけえね。」

ーー松茸? それ採っていいんですか?

 「採っちゃいけんのよ。人のもんじゃけえ(笑)

 だけど悪いことばっかりするおっちゃんらがおったんよ昔は。大きな袋へいっぱいの松茸を持って帰ったりしよったんと(笑)。」

ーーどうやって食べるんです?

 「炭火で焼いて砂糖醤油かけて食べたり、お寿司の具にも入れたり。

 あとは干しといて、おつゆとかね。煮染めとかに入れて。それこそあの頃は今の椎茸とおんなじくらいよ。火事がなけりゃあね。」

ーー火事? 山火事があったんですか?

 「そう。大きな山火事があったんよ。あの松茸の山はみな燃えた。あれから松茸もでんね。4月の4日じゃったと思う。大火事じゃった。もう家の近くまで火の粉が来てね、恐ろしかった。消防車なんかないけえね。

 車が通るようになったんは、昭和37年の4月じゃったと思う。バスの開通式があった。だけどあの頃はまだ作りたてじゃけえ、よう崩れよった。そのたんびに船に乗ったりね。」

ーー小学校はどこだったんですか?

 「小積小学校。」

ーーここに小学校があったんだ・・・何人くらいおったんですか?

 「20人。」

ーー全校で?

 「いやいや1クラス。」

ーー1クラス!? そんなに子供おったん!?(娘)

 そんなに多くないだろうと思われるかもしれないが、今、娘が通っている小学校はいくつもの小学校が統合された後だが、それでも全校生徒で40人程度だ。まさかこの地区だけでそんなに子供がいたとは想像もできない。

 「昔はそれぐらいよ、みなどこも。」

ーーそれって何年前ぐらいですかね?

 「うーん。何年前かねえ。

 ・・・・・あの、原爆が落ちた時、あの時がちょうど登校日だったんじゃないかと思う。

 みんなで並んでね。お宮(神社)の端に水道があるじゃない? あの辺を歩いてた時に、空がパーっと赤くなった。じゃけえ8時15分ごろかねえ。ちょうど登校日でみんなで歩いていきよった。空がパーって赤くなって、みんなで、あー! あれなにー! ってすごい恐れたんですよ。そのまま歩いて行ったけどね。」

ーー山本さん今おいくつですか?

 「85歳。

 じゃけえあん時は2年か3年生くらいじゃった。6、7人で一列になって歩いていきよった。

 そしたら空がね。うん、一瞬。ピカーっと明るくなった。何かは分からんかったけど、みんなが恐れた。あれは忘れんね。」

ーー大島は戦時中どうだったんですかね? あまり聞いたことないんですが。

 「私らは夜中に空襲になったら靴っていうものはなかったけえ、草履でも履いてから畑へ逃げてくんよ。昔は防空壕掘るっていうても、男の親は戦争に出ておらんし、おじいさんしかおらんし、おじいさんと防空壕掘るいうてもなかなかことにならん。じゃけえみかん畑へ急いで逃げてくんよ。家族がみんな。ほいで、親がみかんの枝を引っ張って寄せて、綱で石と結んで隠すんよね。上から姿が見えんように。」

ーーぶち(とてもの意)爆発した? 撃たれたん?(娘)

 「いやここらはなかったけどね。空襲警報が鳴ったらね、みんながそこの畑へ隠れる。

 だから昔は家も暗くしてね。上から見えんようにね。電気はもちろん黒い布をかけて。」

ーー黒いぬの?(娘)

 「昔は吊るした裸電球じゃったんよね。傘があって。その傘のところに黒いスカートみたいなのを親が縫うておいてね、空襲警報が鳴ったらパッと下ろすんよ。みんなそうやっとったんじゃないかねえ。蔵も白い壁じゃったからね、おじいさんらがコールタール? あんなのをみな塗って黒うした。」

ーーみかん畑に隠れとったん?(娘)

 「防空壕が間に合わんけえね。みかんの枝の下に隠れて、枝の間から、松山が爆弾落とされて燃えるんが見えるんよね。」

ーー燃えるのが見えるん!?(娘)

 「そりゃ見えるよね! 夜じゃったけえ、真っ赤んなって・・。ああ、伊予がやられちょるとかって言っちゃあね。松山はだいぶやられたと思う。じゃけえそれがみな見えるんよ。山からね。」

ーー子供も逃げたん?(娘)

 「子供も皆逃げるよね。」

ーーなんで爆弾落としたん?(娘)

 「戦争じゃったけえね。私らが小さい頃は。」

 ふと娘の方を見ると、持ってきた白い紙に、赤く燃えている四国を絵に描いている。

ーー道がない頃、人との交流は村の中だけでしたかね?

「あの頃、他の村の人って見たこともなかったね。

 じゃけど戦後になったら、どこからか人がきよった。お米と・・物々交換じゃったんかなあ。お腹んとこにね、お米入れてきて、買いよったです。

 この人らは行商人でね、闇よね。いろんなもの服の下に隠して持ってきよったですよ。

 うちは畑がたくさんあったからカボチャとか色んな野菜を作りよったよね、したら、そこの畑に人が入っちゃあね・・・・・盗っていくんですよ。そりゃあやっぱり食べれん人がいっぱいおる。畑がない人もおるじゃ? 畑がないと食べれん人もいっぱいおるじゃ? じゃけえ家族が多い人なんかが盗っていくんよね。3度のご飯を食べれる人は少なかった。まあ2食。私らでも、お米作りよっても。

 そうそう。配給じゃったよ。とうもろこし。それをもらってもそのままじゃ食べれんじゃない? カチカチじゃから。親が石臼で挽いて。」

ーーあ、乾燥したとうもろこし?

 「そうそう。カッチンカッチンの。今思うと牛の餌のようじゃったね。じゃから親も子供にどう食べらそうかと思うたんじゃないかねえ。それをガラガラガラガラ石臼で挽いて、それがええ具合に潰れんのんよねえ。

 じゃけそれを今度はパンとかにするんですよ。そっれがまった美味しくないんよ。親が蒸したりしてくれるけど、食べれんくらい美味しない。美味しくなかった。それでも食べるもんがない。砂糖とかもない。今みたいになんでもある世の中じゃない。塩も皆自分たちで作りよった。うちらは畑があったから、麦や米やキビやアワとかも作りよった。それでも麦ご飯ですよ。反対に、お米とかは、多少でも闇で売らにゃお金がない。じゃけその、麦ばっかりのご飯。おじいさんとか年寄りがおるじゃない? その人んとこにお米が行くように炊くんですよ、(釜の)上のところに少しだけの米。そのところだけをおじいさんに取ってあげる。仏様と年寄りにあげる。」

ーー家長だから?

 「そりゃそうですよ。」

ーーかちょう?(娘)

ーー聞いてた? 今の子供と逆だね。お父さんの方が冷たいご飯食べたりするんだから。

 「ハハハ。昔はね。家の主? おじいさんとかおばあさんとかを大切にしていたけえね。」

ーーむぎばっかりのごはん?(娘)

 「昔の大きな丸麦。その麦を一生懸命食べる。でも、泳いで帰るとそのご飯がまたおいしいのよね。塩でにぎって、梅干しを入れてね。大きな大きなおにぎりを作って。それがまたおいしいのよ。で、昼ごはん食べたら、またすぐに泳ぎに行くんよ。そいじゃけえ晩まで泳ぐんよ。そらあお腹は空くよね。親は晩にはご飯があるだろうと思って、帰ってきたら、何にもない。みいんな子供達が食べてしもうとる(笑)

 お米とか麦とかをつくように、親が準備して山へ行くんよね。じゃけえそれこそ泳いで帰ったら眠りながら臼をつくんですよ(笑)。精米所なんかないけえね、自分で臼でつくんですよ。1時間くらいかかる。足踏みの臼で。」

ーー知っとるよ、これやろ、シーソーみたいなやつ。(娘)

 娘はさらさらと書いた絵を山本さんに見せる。

 「そうそうそう。それよ。ダイガラ。」

ーーやったことある!(娘)

ーー前にあれで餅ついたことあるね。あれで精米もするんですか? もちつくやつかと思ってました。

 「もちもつくけどね。精米が主ですよ。餅は正月だけ。あれと味噌を作るとか。大豆を潰すのにね。それこそ大変です。

それが泳いでくたびれ果てて帰って、臼でつくったってつかれやせん。眠とうて。ついてもついても(米が)白にならんのよね。・・それが子供の仕事じゃった。兄弟二人で一緒についたりね。しよったんじゃけど、まあ眠り半分じゃけえ、お米にならんけえ怒られるんよね(笑)」

ーー梅干しもみんな作ってました?

 「そうそうどの家もね。塩やら醤油やらなんでも作る。ほとんど自給自足じゃけえ。ああ言う保存食は全部作っとった。お正月とか、盆とかは豆腐なんかもね。何事かあるいうたら、近所のおばさんたちと集まって、豆腐作ったりね。」

ーー豆腐? 豆腐を作る?

 「外に土で大きなカマドを手作りしてね。

 お盆とか正月とかっていうたら、みんなが集まって、豆腐作るんですよ。大豆は自分とこで植えるでしょう? 年寄りがみな覚えちょるんじゃろうね。それこそ美味しい豆腐ができる。本当に大豆の匂いが、味がするけえね。」

ーーみんなが農家か漁師?

 「・・この頃は農家が良かったよねえ。漁師って言っても、今みたいに大きいんじゃない。ついおかず獲りにいく。夕飯のおかず獲りにに行くくらいの漁師じゃったけえ。どんどん網で(獲って)売るとかそういうんはなかったけえ。戦後になってイワシ網しよる人の手伝いに、それこそうちの親たちも、元気な人は網引きに行って、それで少しイワシをもらってくるんよ。で、それを湯掻いて干して、自分とこのイリコを作る。」

ーーイリコまで作ってたんですねえ。

 「そう。10人なら10人。15人なら15人。皆同じように分けたんでしょうね。少ししかもらえんでも文句言うような人はおらん。みんな持って帰ったら急いでイリコにする。買うということはほとんどなかった。」

ーーお金を使う場面というのはあんまりない?

 「使う場もないが、お金もない。売るところもない。あるのは・・・・戦後になって浜の方やらに、だんだん豆腐屋さんとか、ちょっと飴とか売る店ができだして。」

ーーそれはお金で買うんですか?

 「そう。その頃はもう豆腐一丁なんぼで。」

ーー他には何屋さんがあったんですか?

ーー野菜屋さん!?(娘)

 「はは、野菜屋さんは無いねえ。野菜はみんな自分のうちで作るけえね。お米とか、塩とか、色々売ってる萬屋さんかなあ。あと、たばこ屋さん。飴やらハガキやら売りよったと思う。」

ーーえ? 飴? ぶち美味しそう。どんなお菓子売ってたん? 駄菓子? 水飴とか?(娘)

 「水飴とかはなかったと思う(笑)。これじゃ宿題は全然進まんね。」

ーー進んどるよ、だってほらこんなに! 1、2、3、4、・・・(娘)

 沢山描いた絵のたばを数えながら山本さんに見せる娘。

ーー質問です! 家はどうやって建てよった? 大工さん?(娘)

 「家は、山から、山の木を切って、で、それを山から木出しをする。木出しと聞いたら若いもんが皆行くんですよ。みいんなで力合わせて一軒の家ができる。木を山から出すときは、友達なり、近所なり、親戚なりが集まって。皆んなで寄ってたかって引っ張り出すんよ。大変でしょう。木を切ることもね。女性は近所、親戚が集まって、食事の用意をして昼も夜も食べてもらう。まああんまり買うのはなかったと思うよ。自分らの山にあるものを使う。あんたがうちの(山の木)が使えるならあげるよっていう具合。」

ーーみんなで力合わせて作るんだ! 大イベント!(娘)

 「そうそう。」

ーー手伝いの人達は、自分たちの仕事をその日はしないで行くんですか?

 「そうそう。時間で仕事に出るんじゃない。昔は。自分のうちの仕事をするんじゃから、その協力はすぐできる。明日って言われりゃ明日行けるんよ。そりゃあまあええわね、今みたいに時間で人に雇われるんじゃない。自分がそれこそ山の大将でから。一家の主人はそれこそ、身軽にすぐ動ける。その話を聞いたら、すぐに都合をつける。」

ーーえ? 設計とかもしたの?(娘)

 「それは大工さんがやる。宮大工さんもおったし、案外大工さんはおったけえね。」

ーー質問です! 宿題はどれくらいありましたか?(娘)

 「うーん、あんまり覚えんねえ。どうじゃったかなあ。・・昔はねそれこそ勉強は二の次、三の次でね畑へ行くんよ。麦焼きの時は夜中の2時くらいまで仕事しよった。」

ーーえ? 2時? どういうことです?

 「昔は米でなしに麦も作るじゃ? 二毛作で。で、それをする時、麦を刈って乾いたら夜焼くんですよ。昼間は焼かれんけえ。昼間は暑いし、火が走るんが見えんけえね。夜焼くんですよ。夕方から。そしてそれをね全部片付けて、帰る。そうすると夜中の2時くらいまで。ちょうちん、カンテラよね。それを持って親の手伝いする。歩いて帰るときは眠りよる。風呂入っても寝ちょるんよ。」

ーー学校なんか行かれんじゃないですか?

 「そうよ。学校行っても眠たいぎりよね。」

ーーえー。昔に行ってみたいな。そいで一日ぐらい生活したい。ちょっと楽しそう。(娘)

 「ハハ。まあね。それこそテレビで島で暮らすなんとかってやりよるけど、あんなようなものよ。麦を刈って干すんよね。干して、返したりしてよう乾いたら、今日は風がないけえ、今日麦を焼くよっていうて、焼き始める。焼き始めたら、そこが全部終わるまではやめれんじゃん?」

ーーえ? 麦の実を焼くんですか?

 「そうよ。麦の穂は、実の周りに針のようなトゲがついちょる。それを焼かんにゃ、中身を出せんし、痒うてやれんじゃ? じゃけえ、麦わらと、その先の実と離すことと、麦の周りを焼いて麦だけにするんですよ。」

ーー焼く作業というのはどんな感じですか?

 「大変ですよ。焼き始めたら、一束ずつ焼くけえね。束を回しながら焼く。消えんうちに次の束をもってきて、穂の落ちた束を水んなかへつけて火を消す。全部焼けたら灰になるでしょう? 灰にならんように、麦わらから穂を落とす。で、麦わらは麦わらで実が離れたら、これまた風呂木にせにゃならん。じゃけえそれもいる。野菜を作ったりするときの下の敷物にもする。夏の野菜もんを作るときに敷いて、野菜を乾燥から守る。じゃけえそんなですよ。何もかもがみな宝ですよ。

 麦は焼いたら今度はダイガラでつく。真っ黒になった穂を殻と麦の実とに分ける。とにかく実にするまでが大変なんです。「今日は麦を実にするよ」っていうたら、それも朝早うからやるんですよ。庭いっぱいに干しちょいて。よう乾かして、穂から一粒一粒になるようにね。顔も手も着物も真っ黒にして汗びっしょりで作業するんよ。目だけが光っちょってお化けみたいじゃったね(笑)まあなんちゅうても、それこそ一つの仕事、一つの食材が口に入るようにするんは大変ですよ。

 でもその時の手伝いが嫌とか苦しいとか思ったことはなかったね。みんな懸命じゃったけえ。昔の大人はすごいと思う。工夫しながら、考えながら、知恵を引き出しその時代を生きてきたんじゃろうね。」

 山本さんに話を聞いたのは2時間に及んだ。

 その間、娘は寝そべったり、転がったりしながらも、聞いた話を絵に描き起こしていた。

 原爆で空が赤く光った絵。戦闘機が空を飛ぶ絵。畑を耕す絵。ダイガラで米をつく絵。美味しい手作り豆腐の絵。みんなで家を建てる絵。子供達が浜辺を走り回る絵。

 帰り道、山本さんに教えてもらった写真の場所に行ってみた。その場所は僕らが海からの帰りにいつも通る石垣の坂道だった。50年前に撮られた写真を前に掲げ、見比べてみる。僕も娘も思わずアッと声を上げた。間違いない。ここだ。無くなった小屋や、新しく建った家など違うところも少しはあったが、その石垣だけは何一つ変わっていない。僕たちもその場で写真を撮ることにした。50年前にこの場所で写真を撮った宮本常一が頭をよぎる。彼がファインダーを覗き込み、考えていたことはどんなことだったろうか。この景色を残したい、そう思ってシャッターを切ったのだろうか。

 さらに50年後はどうなっているだろう。僕らがiphoneで撮ったこの写真を見てくれる人はいるだろうか。その時もこの石垣は変わらずここにあるのだろうか。

 何もかもがとてつもない速さで変わっていく時代だ。変わらないものを見つけることはあまりにも難しい。だけど変わらず残っていてほしいと思うものがある。

 日が暮れて薄暗くなった坂道を僕らは歩いた。鈴虫だろうか。一際大きな虫の声が聞こえてくる。どうしたらあの小さな体でこんなに大きな声を出せるのか、頭の中でぼんやり考えながら山本さんの話してくれたことを思い出す。夜中まで麦を焼いていた幼い山本さんもこの虫の声を聞いていただろうか。

 家の灯りが見えてくる。オレンジ色の光が家の窓から漏れているのが見えると、いつもどこか心が落ち着くのは、街灯が少ないせいじゃない。きっとそこで待っている家族を思い浮かべるからなんだろう。

 お腹を空かせた僕らは空気の中にご馳走の匂いが混じっていることに気がついた。家に着くと妻が夕飯の準備を終えていた。今夜は牡蠣フライだ。すぐ目の前の海で採れた牡蠣に、近所でもらってきた大きなキャベツ。それに味噌汁のダシはもちろん島のイリコだ。

 サックサクの牡蠣フライに家族みんなで笑顔がこぼれる。これは変わってほしくない。山本さんの話したような自給自足の暮らしは僕たちには到底できないだろう。味噌汁を一口飲む。思わず息を吐いてしまう。内臓に染み渡るように美味い味噌汁は日本人で良かったと心から思わせてくれる。これも変わってほしくない。

 ビールを腹に流し込んでさらに僕は笑顔になる。やはりこれも変わってほしくない。

 50年後か。もしも運よく生きていたなら僕は88歳だ。孫の一人や二人いるのだろうか。少し多くなった家族と一緒に、またこの牡蠣フライを食べたい。味噌汁も飲みたい。ビールも飲みたい。丈夫な歯と、健康な胃袋。これも変わってほしくないなと思う。

内田 健太郎

内田 健太郎
(うちだ・けんたろう)

1983年神奈川県生まれ。養蜂家。東日本大震災をきっかけに、周防大島に移住。ミシマ社が発行する生活者のための総合雑誌『ちゃぶ台』に、創刊時よりエッセイや聞き書きを寄稿している。2020年より、周防大島に暮らす人々への聞き書きとそこから考えたことを綴るプロジェクト「暮らしと浄土 JODO&LIFE」を開始。2024年、みつばちミュージアム「MIKKE」をオープン。著書に『極楽よのぅ』(ちいさいミシマ社)がある。

MIKKE

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