第1回
作文の季節
2022.09.23更新
高校時代、夏休みの読書感想文の課題図書は井伏鱒二の『黒い雨』だった。
9月1日が迫っている。何度も原稿用紙の前で鉛筆を握ってみるのだが、どんな言葉も似合わないような気がして、結局一文も書かないまま新学期が始まった。
人生で初めて宿題を提出しなかった。半月ほどが過ぎた頃、国語の教師に呼び出された。宿題をやっていないのは私だけだそうで、このままだと進級できないらしい。やらなかったわけではなく、書けなかっただけなのになあと、私は怒りのようなやり切れない気持ちを感じた。
家に帰ってそのもやもやを母に話すと、父に相談してみなさいと言われたので、父が家に来たときに作文のことを話してみた。私は父とおしゃべりする時間が、とても好きだ。
――こんな小説を読んでちゃんと言葉にできるなんて、そんなの嘘の作文だよ。この本を読むっていう体験が大切なはずなのに、書くことが大事だなんて馬鹿げている――
私のふにゃふにゃした言い分を聞き終わると、父は地球儀と地図帳を持ってきなさいと言い、この地球儀にのっている国の名前を、日本以外全部書きなさいと言った。次に地図帳で日本列島のページを開いて、広島と長崎以外の都道府県を全部書きなさいと言い、作文のいちばん最後に「ここに書いた国のどこにも原爆は落とされていない。ただひとつ、日本の広島と長崎にだけ、原爆が落とされた」と書きなさいと言った。
小学生の頃にサンタクロースがくれた地球儀を回しながら、私はひとつひとつ国の名前を書き写していった。隣り合っている国、たくさんの島がある国、思っていたよりも近い国。たくさんの国があった。聞いたことのない国もあったし、アメリカやドイツ、ロシア、中国、韓国、北朝鮮などのニュースや教科書でよく聞く名前も、なんだか新鮮な感じがした。名前を書くことは想像以上に時間がかかったけれど、少しわくわくした。
日本は海に囲われていて、国境を線で引かれているわけじゃない。地球儀で見ると、隣国との境目がわかりやすく、独立しているように見えた。原爆がこの国だけに落とされたことも相まって、日本ってちょっと特別な国なのかもしれないなと思った。しかしその優越感への怖さや罪悪感を、大人になるにつれて知っていったとき、私はとてもぎょっとした。
大学時代、オーストリアに留学したとき、クラスメイトはさまざまな国から集まっていた。むしろオーストリアで生まれ育った人は、とても少なかった。そして皆、政治のことを含め社会問題のはなしをよくしていた。アトリエでもカフェでも繰り広げられるその光景に、驚いた。
週末やバケーションになると、私はヨーロッパのいろんな国を旅した。電車に乗っていると隣の国に着く。入国審査なんてない。どこの国の人なのかとか国境とか、そういう境目がこの世界に存在することがとても不思議に感じられた。
この数年、私は韓国の文学や音楽、映画やドラマに惹かれているのだが、広島や長崎の原爆で被爆したのが日本人だけではないという、考えてみれば当たり前のことに突き当たったとき、今まで私が日本のなかから見てきた世界はなんだったのだろうと、途方もない気持ちになった。
夏休みの作文で、もうひとつ忘れられないものがある。
中学3年のとき、人権作文の宿題が出た。それが何かの賞を獲り、賞状と立派なペンをもらった。
私にはダウン症の幼馴染がいる。保育園の頃から彼とはとても仲が良く、小学校に入ってからも同じ学童保育だったのでよく遊んだ。けれど学童は3年生までで、特別支援学校に通っていた彼とは次第に疎遠になっていった。
幼い頃、とてもわがままだった私は、同級生と付き合うのがあまり得意ではなかった。そんな私にも彼は優しく、ユーモアがあり、一緒に遊ぶのが楽しくてしかたなかった。彼はみんなの人気者だった。私は作文に、そんな彼とのたわいのない日々を綴った。そして最後に「彼がくれたたくさんの心のプレゼントを、私も誰かに贈れるような人になりたい」と書いた。
自分で書いたその言葉が、時が経つほどに私を苦しめた。
彼と共に過ごしていた頃は、彼との違いを感じたことがなかった。しかし彼と離れ物心がつきはじめたとき、街中でダウン症や自閉症の人たちとすれ違った際、どう振舞っていいのかわからなくて避けてしまうこともあった。
ずっと彼と一緒に過ごしていたとしたら・・・。彼の姿がなんとなくそばにある人生だったら・・・。"いい作文"を書こうとしたあの始業式の朝、私はなんと書いただろう。
なんとなくの正しさが決まっているこの世界で、その正しさを手に取らなくてもいい。正解を書くのは一瞬だが、その後の時間は生きている間、永遠だ。言葉の向こう側に行こうとするよりも、わからないことはわからないままで、なるべくそのままの心の風景を、書き続けられる人になりたい。
2014年、留学先のウィーンにて