きんじよ

第38回

はじめて FLY ME TO THE MOON

2018.04.12更新

0412-1.png

 ハイハイするようになって、ひとひは、毎朝おきるとまっすぐ、僕の部屋を目指してくるようになった。シングルレコードを収めた長細い段ボール箱の前にすわり、手にしたレコードをなんでも、引き抜いては投げ、引き抜いては投げ、引き抜いては投げ。

 好きな歌は、クレイジー・キャッツ「スーダラ節」、小林旭「自動車ショー歌」、スペンサー・デイヴィス・グループ、ザ・フー、ザ・ジャムなども。いちばんのフェイヴァリットは、1950年代ロンドンのアイドル、アルマ・コーガンのうたうスタンダード「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。

 あれは八月だったから生後十ヶ月。ある朝ひとひは、いつものようにハイハイでやってきて、なにげなく段ボール箱に手をかけ、すっ、と一枚引き抜いた。みると、アルマ・コーガンの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。

「おおっ、いっぱつか。やるなあ」

 といって僕は盤をターンテーブルに載せ、ひとひを抱っこし、曲に乗せて躍る。ひとひはキャイキャイよろこんでいる。

 段ボール箱には二百枚ほどの外国盤がランダムに突っこんである。そして五十年代六十年代のイギリス盤、アメリカ盤は、ジャケットなどなく、レーベルの英字で演奏者と曲を見分けるほかない。字など読めないひとひには爽快な一発だったろう。  次の朝、ひとひがハイハイではいずってきて、また段ボール箱に手を入れ、さっ、と一枚抜いた。取りだしたのは、やはり、アルマ・コーガンの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」にほかならなかった。

「ふつかつづけてって、すごいなあ」

 そして三日目、ひとひはまた、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を抜いた。キャイキャイ笑いながら。いっしょに歌をききながら、僕は少し考えた。スリーブや盤をほかと見比べ、どこにも特徴がないことをたしかめた。そして、園子さんと三人で朝ごはんを食べたあと、部屋に戻って、レコード箱のなかの並びを、いっそうごちゃごちゃにかき乱した。

 四日目の朝、ひとひはまっしぐらに畳を横切り、レコード箱の前にやってきた。そしてクロールのように腕をまわし、左手を箱のなかにざぶんとつっこんだ。そして、レコードを一枚つかんで引きあげた。アルマ・コーガンの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。
 僕は生後十ヶ月のひとひにむかって土下座し「すみませんでした。よけいなことをしました。もう、すきなだけ、すきなレコードをひいてください」と謝った。ひとひはおもしろそうにキャイキャイ笑っていた。

 その夏、ひとひの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」一発引きの朝は十日連続してつづいた。超能力、というわけでは、たぶんない。その十日間、ひとひの前の、あの段ボール箱のなかのレコードはきっと、すべて「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」になっていたのだ。だから、どれを抜いてもそれにしか引き当たらなかったのだ。


 うまれてはじめて書いた漢字がこの連載の第11回のタイトル「茶」だった。

 子どもは文字を、はじめてその前に立つ、ある種の「風景」として見る。じっくり、じっくりと見る。そしてうつす。大胆に。ていねいに。手や腕だけじゃない、全身を波打たせて。

 模造紙に腹ばいになったり、壁に落書きしている小学生を、うしろから見てみる。「きょうりゅうが、なきました」「ドラえもん、ふんころがし」。肩が、背骨が、腰が動き、空間に透明な文字を描いていく。文字を書くとは、踊りのことなのだ。

 絵や地図も同じこと。目と手先でやっていると思い込みがちだが、小さな子がなにか描くとき、彼ら彼女らのからだは、その絵のなかに完全に「はいっている」。ずぶずぶ頭まで「浸っている」。だから、楽しい。だから戻ってきたくない。この世のすべてが絵に、漢字に、音楽に、かんたんに変わる。全身で飛びこめばいい。クロールの要領で泳ぎだせば、どこかから、必ず「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のメロディがあふれだし、体内を満たす。からだが、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」そのものとなる。

 大人になると忘れがちだ。誰にだって、はじめて書く文字があった。はじめて目の当たりにする漢字は、風景にしか見えなかった。絵を描き、うたをうたった。そのたび全身で浸りきった。

 そんな記憶がない、というひとがいる。じゃあ、うたでなく、虫だったかも。土や壁の模様や雨だれ、星だったかも。ほんと、忘れがちだけど、「はじめて」をもたなかった人間など、この世にただのひとりさえいない。そして、無数に出会う「はじめて」のうち、なにかに全身を浸しきったことのない子どもも、ひとりだっていやしないのだ。

 はじめての自転車。
 はじめての持久走。
 はじめての外国旅行。
 はじめてのプレゼント。

 大人になったら、じゃあ、はじめて、はなくなってしまうのか。すべて、慣れきったなにかの繰り返しにすぎなくなるのか?
 そんなのは、ただの手抜きだ、と僕はおもう。

 昨年の秋、僕は、はじめて、もともと自分のうちだったゲストハウスに、宿泊客として泊まった。神奈川県三浦市、三崎の家に、家族といっしょに。もうなくなるのが自然、と思いこんでいた大切な家に。

 二階のベッドに寝転ぶと、天井板はすべて取りはらわれ、高々と、屋根裏までが見通せた。まるで船に乗っているようだった。腹ばいになり、ガラス窓をあけてみる。赤い城ヶ島大橋がまっすぐに伸びる、見慣れた、北条湾の風景が、まあたらしい漢字みたいにそこにあった。僕は「きんじよ」に帰っていた。園子さん、ひとひといっしょに。そこはなつかしく、あたらしい場所だった。

 はじめての外国語。
 はじめての、年下の恋人。
 はじめての盆栽。
 はじめての人間ドック。

 こどもの頃を思いだすと、僕たちにもひとりひとり、距離も厚みもことなった、「きんじよ」があった。そこに入り込み、膝を丸めて座っているだけで、息が自然とととのう。無理にはしゃぎまわる必要はない。いい子ぶらなくたっていい。

 だのに、ひとりじゃない。

 そこには、見えなくても、誰か、ひとがいる。次の角を曲がったら、はじめてだけれどなつかしいステキなことが、まちがいなく待っている。だから、角を曲がる。また、次の角。さらに次。さあまた次の角。また次、とどんどん角を曲がって、そうして僕たちは、いま、ここにいるのだ。

 生きているかぎり、字を書き、風景を見わたし、歌を口ずさんでいるかぎり、そこはいつだって、「きんじよ」にほかならない。

 ミシマ社のこちら側に、ひとひいわく「レトリバーのおっちゃん」○○さんが住んでいる。むかし飼っていたラブラドール・レトリバーが大好き。毎朝、錦林小学校までの交通路の「みはり」をしてくれている。
「おはよう!」
「おはようございますー」
「きぃつけていっといで!」
 その温厚さ、毅然な様は、失礼ながら、近所を守るレトリバー犬のようなのだ。

 今朝ピンポーン、とドアベルが鳴って、ハーイ、と飛びだしていったひとひ、
「おお、おはよう」
 と玄関に○○さんがいて、大いに喜ぶ。
「おはよー!」
「ああ、あのな。うちのメダカ、そこんとこの水槽に、十匹いれといたから」
 と、○○さんは指さす。そう、うちの玄関先にもメダカの水槽があって、この寒い冬を四匹が乗りこえた、と思っていたら三匹に減ったばかり。そしてもう春だ。
「ありがとー、ありがとー!」
 靴下のまま、外へ出るひとひ。水槽のなかをじっと食い入るように見つめる。その背中の上から、○○さんは覆いかぶさるようにして、
「あれ、ぜんぜん動きよらへんな。底にいてるやろ。なんか沈んどる・・・」
 そういってひしゃくでトン、と水槽を打つや、十数匹のメダカが、ぱぱっ! と花火みたいに散らばった。その勢いに、うははは、と爆笑するひとひ。

 ○○さんは軽くうなずき、
「もう来週やな。二年生や」
「うん!」
 古い水槽のなかで、あたらしいメダカたちが、ツイツイ泳ぎまわっている。桃色の星雲みたいな桜吹雪のなか、耳にはきこえない、ちょうどいい距離をおいて、誰かが「フライ・トゥ・ザ・ムーン」を口ずさんでいる。

いしい しんじ

いしい しんじ
(いしい・しんじ)

1966年大阪生まれ。作家。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。2012年『ある一日』で織田作之助賞、2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。『ぶらんこ乗り』『麦ふみクーツェ』『ポーの話』『海と山のピアノ』(以上、新潮社)『みずうみ』(河出文庫)など著作多数。

編集部からのお知らせ

『きんじよ』が2018年5月22日に発売!

2018年5月22日に創刊するミシマ社の新シリーズ「手売りブックス」にて、「きんじよ」が本になります。乞うご期待!

kinjo_shoei.jpg

『きんじよ』いしいしんじ(ミシマ社)

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • 生まれたて! 新生の「ちゃぶ台」をご紹介します

    生まれたて! 新生の「ちゃぶ台」をご紹介します

    ミシマガ編集部

    10月24日発売の『ちゃぶ台13』の実物ができあがり、手に取った瞬間、雑誌の内側から真新しい光のようなものがじんわり漏れ出てくるのを感じたのでした。それもそのはず。今回のちゃぶ台では、いろいろと新しいことが起こっているのです!

  • 『tupera tuperaのアイデアポケット』発刊のお知らせ

    『tupera tuperaのアイデアポケット』発刊のお知らせ

    ミシマガ編集部

    10月の新刊2冊が全国の本屋さんで発売となりました。1冊は『ちゃぶ台13』。そしてもう1冊が本日ご紹介する、『tupera tuperaのアイデアポケット』です。これまでに50冊近くの絵本を発表してきたtupera tuperaによる、初の読みもの。ぜひ手にとっていただきたいです。

  • 「地獄の木」とメガネの妖怪爺

    「地獄の木」とメガネの妖怪爺

    後藤正文

    本日から、後藤正文さんの「凍った脳みそ リターンズ」がスタートします!「コールド・ブレイン・スタジオ」という自身の音楽スタジオづくりを描いたエッセイ『凍った脳みそ』から、6年。後藤さんは今、「共有地」としての新しいスタジオづくりに取り組みはじめました。その模様を、ゴッチのあの文体で綴る、新作連載がここにはじまります。

  • 職場体験の生徒たちがミシマ社の本をおすすめしてくれました!

    職場体験の生徒たちがミシマ社の本をおすすめしてくれました!

    ミシマガ編集部

    こんにちは! ミシマ社自由が丘オフィスのスガです。すっかり寒くなってきましたね。自由が丘オフィスは、庭の柿の実を狙うネズミたちがドタバタ暗躍しています・・・。そんな自由が丘オフィスに先日、近所の中学生が職場体験に来てくれました!

この記事のバックナンバー

ページトップへ