第42回
みやこじま ミヤコジマ 宮古島
2018.08.04更新
尋常じゃない夏。赤道直下の国々より、よほど暑い。京都の街はエアコンの巨大な室外機の内にとじこめられたかのようだ。僕もひとひも、「きんじよ」の日陰の歩きかたを、否応もなく、完璧に身につけた。それでも、ミシマ社へ歩いていく三分の間にも、照りつける陽ざしで、むきだしの腕からじょじょに焼肉になっていく。
小学校が夏休みにはいったその日、宮古島へ飛んだ。下りると気温が十度低く、「体温より暑くないとこんなに楽なのか」と、感嘆した。沖縄に避暑にくる、というのが冗談でなくなってしまった。着いた翌朝から南洋の陽ざしがふりそそいだ。けれどもそれは、尋常な、納得のできる暑さだ。島バナナを熟させ、アグー豚を走らせ、ひとをみじめな生焼けの焼肉になどしない。
昼間は新城海岸で過ごす。遠浅の浜に、小ぶりなリーフが無数に点在する。今年はクマノミの数が増えた。去年小さかったのが成長し、よりいっそう小さな幼魚が、そこここのイソギンチャクに見え隠れする。海の家「わーら」は、ひとひにとって親戚のような存在で、おにいさんもおねえさんもおかあさんも犬も、みんなひとひを覚えていてくれて「ひさしぶりー」と、ハイタッチをくれる。
いつでも受け容れてもらえる場所が、少なくともこの世にひとつある、というのは、年齢、性別をこえて、こころのやわらかくこわれやすい芯を包む、安心毛布のように働くだろう(僕にとっての三崎がまさにそうであるように)。
園子さんと三人、リーフをまわりながら、波と岩の造形物である熱帯魚の色かたちを追いかける。誰がまっさきに珍しいものを見つけるか、どこか競い合っている観もある。
園子さんが「オジサン」を見つける。全身みかん色、まさしくおじさんっぽいヒゲを顎の下に二本はやしている。
と、今度はひとひが顔をあげ、シュノーケルをはずして、「いま、オジサンのこどもいた」という。僕はうなずき、訳知り顔で「そら、イトコやな」とこたえる。ひとひは浮かんだまま「そういう魚なん?」
「うん」と僕。「ほかに、マタイトコとかハトコとか、ぎょうさんいてるで」
一時間近く、リーフからリーフへ。ときおり磯の暗い穴からウニがにらんでいる。海岸じゅうのどこに、どの大きさのクマノミが生息しているか、三日もつづけて潜れば、誰にでも把握できる。
魚であふれるリーフと同じかそれ以上に、ひとひが楽しみにしているのが、「わーら」での「お手伝い」だ。宮古島でもとりわけ安全で熱帯魚にも会いやすい新城海岸には、朝七時頃から日暮れ頃まで、遊泳客の姿が絶えない。七歳児でも四年かよっているので、だいたいの仕事の流れは頭にはいっているし、手を抜くことを知らないから、そこらの大学生バイトよりよほど使える。
レンタル用のシュノーケリング道具を真水で洗う。やってきたクルマを駐車場へとみちびく。家族連れやグループ客を、ビーチにならぶパラソルの下まで案内する。「わーら」はだいたいファミリービジネスで、働いているひとらのなかで、ひとひはいちばん末の孫世代にあたる。
ある午後新城についたら、わーら近辺に子らの声があふれている。きけば、わーら家族のほんとうの子どもたちで、みんな「ペンション」と呼ばれるゲストハウスに集い、兄弟それに「イトコ」たちで、こぞって遊びにきたのだとか。
ひとひがその輪に溶け込むのに、さほど時間はかからなかった。水場につづく水路を自分たちのからだでふさぎ、落ち葉とともに一気に流す「ダム遊び」。アダンの幹に裸足でのぼる木登り。
小四でリーダー格の「いくとくん」が、ひとひを海に誘ってくれた。「おとなといっしょじゃないと、海でたらいけないんで」と、僕と園子さんを連れに来た。背が立つか立たないかの浅瀬で、いくとくんは逆立ちでもぐり、浮きあがってきては、「これ、ほしのすな」といって、ひとひや園子さんに手わたした。赤ちゃんサンゴの殻だろうか。もぐるたび、落ち葉を拾うくらい自然に、次々と星型の粒を拾ってくる。
そのうち、ひとひも真似しだす。二歳年上の先輩がするとおり、頭を真下に、勢いよくフィンで水を蹴って、一気に海底まで身をもぐらせる。砂のかたまりをつかみ、海面へと浮きあがると、目を近づけて指でさぐり、
「あった、あった」
そういっていくとくんに見せる。
「やったな」
先輩も嬉しそうだ。すぐさま海中に身を躍らせ、いくつも、いくつも、極小の星のかけらをもってあがる。
夏休み。はじめて会う田舎の子と、一瞬で友だちになり、日暮れまで遊びまわる。僕はそんな、嘘みたいな情景を目の当たりにしていた。ライフジャケットをはずし、ふたりは野性の兄弟イルカのように、飽きることなく潜水をくりかえす。
垂直に、もぐっては浮かび、もぐってはまた浮かぶ。横方向に駆けまわるより、垂直運動のくりかえしのほうが、ひょっとして、気持ちがより通じあうのかもしれない。ひと潜りごとに、ひとひの表情が変わり、色は浅黒く、だんだんと海の子っぽくなってゆく。いくとくんが笑い、ひとひが目を瞬かせる。ひとひはいま初めて、「友だち」とふたり遊びまわる喜びを感知し、町育ちのからだの芯をふるわせているのにちがいない。
翌朝は、別の浜でウミガメに会った。海底で海藻を食みつづけるウミガメは、肺呼吸するは虫類だから、十分に一度ほどの頻度で、呼吸のため海面へと上がってくる。
ゆったり、ゆったり、浮上してくる。ひとひはゆっくり腕をまわしながら待ち受けている。
僕と園子さんとガイドさんの姿は、ひとひの視界からかき消えている。海も、空も、地球も。ひとひの目、ひとひの頭にはいま、ウミガメだけがある。ひとひの芯がまた、たったいまふるえている。生命が生命と出会う。互いの頬がぎりぎり触れ合う。ひとひはウミガメになにか大きなものをもらった。沈んでいくその巨体を、月が沈んでいくように、シュノーケルの息を鳴らしながらえんえん見送っている。
最終日、いくとくんは小学校の用事で来られなかった。内心、消沈しているはずのひとひだが、リーフに誘うと、
「うん」
と太鼓みたいに返事し、ひとりで浜むけて駆けだした。今日ははじめっからライフジャケットをつけていない。
遠くのリーフには行かない。近場の、背がかろうじて届く浅瀬でだけもぐる。くりかえし、くりかえし。いくとくんの感触をたしかめる、芯のふるえに触れる、たぶん、ただそれだけのために。
「おとーさん、ほしのすな」
泳いで、もってくる。僕の手に握らせる。ウミガメは新城にはいない。今日はいくとくんもいない。けれどもひとひは、いっちょ前にひとりで「海の子」をやっている。
「ふわ、ふわ、おとーふぁん」
シュノーケルをくわえたままの声で精一杯叫んでいる。
「おとーふぁん、うみひぇい、うみひぇい、ふぉら、ほこ、ほこ!」
くるりと反転し、僕ももぐった。海底の砂地、僕とひとひ、園子さんの作る三角形の中心で、白地にブルーのストライプをつけた、おさないウミヘビが、さまざまな幾何学模様のダンスをおどっている。
「こっちからなにもしなけりゃ、ウミヘビは安全」と、わーらのおかあさんから教わっていたので、ひとひは騒がず、海面に身をあずけて、シュノーケルの息を響かせながら、生命の踊りを見守っている。はてなマーク、S字、こまかなふるえ。ひとひの芯にあるのはこんな風に動く白い紐なのかもしれない。
ウミヘビが地面を離れる。龍の子が天をめざすように、ゆっくり、ゆっくり、海面に浮上してくる。そうしてひとひのすぐ横に、鼻先だけ突きだして、ぷっ、ぷっ、と息を吸った。
ウミヘビも、は虫類だった。ひとひはゴーグルのなかから世界を見つめた。ぽっ、とまた海に没したウミヘビの子は、陽気にリズムを取りながら身をくねらせ、宮古島の海に消えた。
編集部からのお知らせ
いしいしんじ「夏のきんじよ祭」開催します!
7月14日から8月末にかけて、いしいしんじさんの「きんじよ」の本屋さんを総動員したイベントを開催します。いしいさん親子と一緒に京都の街を遊び尽くしましょう! ぜひご参加ください。
参加書店は以下のとおり。各書店の店内では、原画展、パネル展などお店ごとに個性的なフェアを開催します。とっておきのお土産もご用意します。また会期中はイベントも盛りだくさん! 随時お知らせしますのでおたのしみに!
●丸善京都本店
「京都うちゅうじんトーク」 ゲスト:山下賢二、加地猛、奥村仁
8月5日(日)14時から・無料・要申込・定員35名
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展示企画:いしいしんじ全著作展!
●京都岡崎 蔦屋書店
「いしいひとひのくねくね書道」
8月6日(月)13時から・無料
→詳細はこちら
『きんじよ』のビジュアル担当・いしいひとひくんが店内を練り歩き、書籍を販売!ご購入の方にはひとひくんによるくねくね書道を一筆プレゼントします。
●誠光社
「いしいさんとゆくごきんじよツアー」
8月11日(土)13時から・料金2000円・要申込・定員10名
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8/25(土)〜8/31(金)*1週間限定上映!
●ふたば書房ゼスト御池店
展示企画:いしいさんの似顔絵展!
●ホホホ座浄土寺本店
展示企画:いしいさんの制作ノート展!