第21回
学ぶこと、歩くこと、計測すること(藤原辰史)
2022.09.14更新
歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。伊原さんから藤原さんへの前回の便りはこちらから。
藤原辰史>>>伊原康隆
書くことと学ぶこと
伊原さんが、脳だけではなく「手を使って書いて学ぶ」ことの重要性を福井謙一さんの『学問の創造』(読んだことがないので書評メモもありがたかったです!)を引用されながら主張されていたように、学ぶことと、アナログな「身体性」の関係は切っても切れないことに、私も同意します。とくに、脳を休ませる、という伊原さんの表現には、思わずうんうんと首を縦に振りました。「学ぶ」と「疲労」はユニークなテーマだと思います。身体性とは、人文社会科学の分野で頻繁に登場する概念ですが、脳のはたらきだけでは必ずしも説明のできない生命体としての人間の身振り・振る舞いと定義しておきましょう。
「手を使って書く」ことで思い出すのは、現在の職場で助手を務めていたころ、各地の文書館で、史料のカメラ撮影が禁止されていたので、必死になってドイツ語を書き写してきたことです。書き写すと時間がかかってしまい、短期滞在の場合は貴重な滞在時間が失われますが、ただ目で追って読んでいるだけでは見過ごしてしまうような細かな事実に気づくこともありました。
たしかに、カメラで史料を撮れば、短期間で大量の史料を得られ、帰ってからじっくり読み直すこともできるでしょう。ただ、現地で「コピー禁止」というしおりが挟んである史料の内容を手で写して、場合によっては近くのアーカイブの専門家に聞きながら読んでいくと、どうしてここは複数形なのだろうか、とか、なぜ、ここでこんな副詞を使ったのだろうか、とか、細かいところにも目が届くようになり、書いている人の息遣いやリズムを感じることができます。
デジカメの登場で、今ではすっかり手で史料を書き写すことはなくなりました。が、メモ帳は必ず持参することにしていて、それに聞き取ったことやアイディアなどを書くことで、のちに色々執筆しやすいようにしています。
伊原さんのご自宅にお邪魔したとき、読んでおられる記事を見させていただきましたが、書き込みがたくさんあって、伊原さんの読んでいるときの手の動きが生きいきと伝わってきました。
悲劇の痕跡を歩く旅
三週間のヨーロッパの旅から帰ってきました。今回の旅は、実はベルリンだけではありません。紛争の痕跡を歩くことをテーマにしました。私が頭でっかちの歴史研究者になろうとしていると反省していたからです。
ベルリンの連邦文書館で、ナチスの東欧支配をめぐる史料の収集のかたわら(カメラでの撮影の制限がかなりゆるくなっていて驚きました)、クロアチアの首都ザグレブ、クロアチアのナチスの傀儡政権が運営したヤセノヴァツ強制収容所の跡地、ボスニアのモスタルやスプリットといった旧ユーゴスラヴィアの内戦で多くの人たちが殺し合った現場を歩いたりしました。
また、スペインのマドリードとトレドでは、1936年に始まり、欧米各国を巻き込んだスペイン内戦の痕跡を辿ったり(内戦期のナチス・ドイツによる空襲を描いたピカソのゲルニカをマドリードの美術館でじっくり鑑賞してきました)、ワルシャワでは、ナチスがユダヤ人を隔離するために設置したゲットーと、ゲットーで抑圧されてきたユダヤ人の叛乱の痕跡を歩いたり、その叛乱者たちがいったん集められ、「積替場Umschlagplatz」とナチスが呼んだ広場の跡地や、その叛乱者が移送され殺害されたトレブリンカ絶滅収容所(コルチャック先生が孤児院の子どもたちと一緒に歌をうたいながら行進して連れて行ったあの収容所)の何も残されていない森の中の平原でしばし呆然としたりしていました。第二次世界大戦の開戦日の翌日に、大戦が始まったグダニスク(ドイツ人はダンツィヒと呼んでいました)で、ドイツの戦争と占領の悲劇と、1980年代にポーランドの民主化を果たした連帯の運動について学んだりしてきました。現場を歩くことで発見し学ぶ重要性をあらためて感じた時間でした。
今回は通訳の方に付き添っていただき、足がパンパンに張るほど歩きましたが、新しい発見がたくさんありました。マドリードの郊外の公園では、スペインでフィールドワークをしている京都大学の院生と一緒に内戦の痕跡を探しましたが、内戦時に作られた防空壕の存在や、内戦のときに活躍した詩人や児童文学者の記念碑などを見つけ、興奮を覚えました。
ファシストのフランコは独伊の力を借りてレジスタンスに勝利を収めました。そして第二次世界大戦は中立を選び、戦後も権力を握りつづけました。いまなお、フランコがたてこもったトレドのアルカサル内の内戦博物館はフランコたちの戦いをたたえる内容になっていて驚きました。トレドも世界遺産の街で本当に美しく、カテドラルも息を呑むほどの迫力でした。
また、1990年代のユーゴスラヴィア内戦が激しかったモスタルという街にも行きました。スタリモストというオスマン帝国によって建てられた美しい橋がかかっていますが、これも内戦で破壊された後に造り直され、世界遺産に登録されたものです。さらに、1940年代にナチスやその傀儡国家の人々と闘ったレジスタンスの墓がつい数ヶ月前に壊されて放置されている現場を見ました。なぜなら、90年代の内戦はこれまで共に暮らしていた民族がそれぞれの民族性を鼓舞され、お互い殺し合うものだったからであり、チトーの指導のもとあらゆる民族が協力してナチスと闘った過去は、こういった民族主義を否定するものだからです。現在もクロアチア民族主義が強く残っていて、そのような人がパルチザンの墓を破壊したとのことでした。
バラバラに壊された墓をみて世界遺産にもなった美しい都市に眠る狂気の噴出を垣間見たようにも思えました。人間の狂気が、こんな美しい青空や川の流れや風景から出てくることを、その場の空気を吸って、その場で太陽に照らされながら体験しました。
それとともに、ナチス・ドイツが犯した罪は、まだ、このようなヨーロッパの周縁部では精算されていないことに気づきました。クロアチア独立国がナチスの傀儡国家であったことを知った上で、1990年代の内戦時のクロアチアの大統領はこの国を評価していましたし、いまだに支持する政治家もいるからです。外交の場では、ドイツは過去の克服に関して優等生的に振る舞っていますが、ポーランドでは通訳者から「ドイツ人はナチスから解放されたと思っている。自分もナチスの被害者だと思っている。それはおかしい。ドイツ人がナチスを作り出し、支持したではないか」という意見を聞きました。それだけではなく、ナチス・ドイツが極端なかたちで世に出した民族差別や民族意識は、さまざまな場所で、さまざまに変奏され、生き延びていると感じました。
歴史学は考古学と違って、史料を集め、読み込めば論文が書けます。しかし、考古学と同様に現場に足を運ぶことで、史料にかかわるさまざまな要素を知り、歴史を五感で感じることで、より深く学ぶことができると確信しています。
「群」の誤用について
さて、ここから私は伊原さんに弁解をしなくてはなりません。
歴史学では、どう「変化」を描くのかが、大きな課題であり続けています。前回の私からのお便りもそういった関心から書かれました。「群」概念の誤用であると伊原さんから指摘され、ああ、またやってしまったと思いました。伊原さんがいつも避けられている「先を急ぐ」ことを。
私の先を急ぐ癖は死ぬまで治らないでしょう。数学の問題を解くとき、条件を読まずに飛ばしてしまったり、空港の荷物検査でパスポートを置き忘れたり、いつも結果に飛びつくのが早すぎる性向があります。文章を校閲してもらうと「飛躍」と言われることが多いのも、その事例の一つでしょう。数学と歴史学の共通性を探って伊原さんに聞いてほしい!と焦るあまり、伊原さんがせっかくじっくりと時間をかけて書いてくださった群をめぐる文章をせっかちに読み、墓穴を掘ってしまったようです。
「理性の暴走」
そして、「理性の暴走」という表現は語義矛盾である、というご指摘。その通りですね。こんな言葉を使ったのは、私が、ナチス・ドイツや満洲国の七三一部隊などの医学界の罪を考えていたからです。ドイツや日本の、教養を重視する大学で教育を受け、理性を保つことを学んだはずの強制収容所や捕虜収容所の医者が、基本的人権を迫害されたユダヤ人やロマや中国人捕虜たちを人体実験したのは、彼らが憎いからではほとんどなく、すでにその時点で収容所を統括する組織から研究環境を整えてもらっており、その癒着から逃れられなかったからであり、また、その中で動物実験では得られない、もっと正確なデータを取りたいと思ったからでした。倫理をいったん思考の外に置いて、論理的に限界まで突き詰めて考え、その結果をそれゆえに正しいと判断し、行動したこと、このような過程を、自分への戒めとしても、文系研究者は「理性の暴走」と呼ぶことがあります。これまでの研究者の文献や発言に理系研究者への非難のような響きがあったことは否めませんが、私にそのような意図がないことはここで申し上げたいと思います。なぜなら、「理性」は文系研究者にとっても論理展開を進めていくうえで「要」であり、また、人体実験批判は、文系諸学問の担い手にとっての自己の批判でもあるからです。現に、ナチ時代のドイツでは、必ずしもナチスの信奉者でない文系研究者も東欧の占領地を支配するために自分の学問の成果を利用することに何ら躊躇しませんでした。
伊原さんは、それは理性の暴走ではなく欲望の暴走であって、学者に理性がしっかりと身につき、それを正しく使用すれば、人体実験を嬉々としてやろうとはしないはずだ、ナチスのこのような制度を批判できるはずだ、とおっしゃるだろうと思います。私も原理的にはそう思います。そういう思いを深く抱いていたからこそ、私は、大学の軍事技術研究に傾斜する日本の現状を(もちろん、伊原さんにもお力添えを頂きながら)批判してきました。ただ、歴史的にいえば、強制収容所に着任して、そのような理性的な行動ができた医者は、あの時代ほとんどいませんでした。ここからはあくまで直感ですので証明はできませんが、私があの時代にあのような場所で生きていたら、同じようなことをしたのではないかと考えることが度々あります。ここには、人間は、大きなもの、暴力を独占するものに自然と擦り寄っていく、という人間行動のパターンとともに、科学の真理を到達できると思うときに目が眩んでしまうという、ある意味の歴史的に繰り返されてきた事実があると思います。
卑近な事例で恐縮ですが、『給食の歴史』を書いているとき、ある方からとても重要な情報を聞き、これは歴史学の発展にとっても重要な事実だと舞い上がったことがあります。ですが、しばらくして、この話は自分だけの心にとっておきたいので公開しないでください、と言われたことがありました。この内容は、自分の論理を補強してくれるもので、歴史学の発展にも寄与するものだったのですが、もちろん公開は諦めました。一人の人間の内面を犠牲にしても学問の発展に尽くそうとすることが理性のはたらきではなく、それにブレーキをかける精神のはたらきが「理性」だとすれば、私も伊原さんの意見に賛成です。そして、伊原さんと7年間、いろいろな場面で科学者の暴走に出会ったとき、一緒に異議を唱えながら、私を含む仲間たちが感じたのは、伊原さんの精神にこの「理性」が深く刻まれていることでした。
計算することと歴史を学ぶこと
「科学は通常の perception の延長である」というマッキンタイアさんの言葉と少し関連するかもしれませんが、今回のヨーロッパの旅の中で、もうひとつ心を動かされたことを伊原さんにお話ししたいと思います。ベルリンで開催された「第12回ビエンナーレ」に行ったとき、イスラエル出身の建築家を中心とするロンドンの芸術家・研究者集団「フォレンジック・アーキテクチャーForensic Architecture」の映像作品を見たことです。
たとえば、ロシア軍がキエフのテレビ塔と近くの体育館をミサイルで爆破した事件を、測量、計算、建築学と歴史学のコラボレーションで徹底的に洗い出す、という作品<Russian Strike on the Kiev TV Tower >がありました。
この作品には、ミサイルの被害は、単に現在を生きる人々への攻撃ではなく、過去への攻撃でもある、という強烈なメッセージがあります。しかも、それを徹底的な数値の割り出しと計算、そして地形分析によって明らかにしていくのです。破壊の現場の地図や映像や写真に、過去のそれらを重ね合わせます。それによって、攻撃にあった場所には、かつてユダヤ人の住んでいた地区があったこと、ムスリム、ユダヤ教、クリミアのカライ派(ユダヤ教の一種)、そしてロシア正教が共存していた地域があったこと、ナチスが、ユダヤ人やロマなどを虐殺した場所があったこと、ナチスがソ連の捕虜たちを使って運河の工事をしていたことなど、地理学的、地形学的に計算で割り出していくのです。映像を観ていると、異なった宗教の人々が一緒に住んでいたり、ロシア人捕虜がドイツ人によって迫害されたりした歴史的場所を攻撃するのは、ロシアにとっても大きな損失であると感じられました。他にもイスラエルの飛行機がパレスチナに農薬をばらまいた事件や、チリのサインティアゴのデモに対して警察の使った催涙ガスによる汚染など、非常に興味深い作品があります。展示室はたくさんの若い人たちが食い入るように観ていました。
この淡々と、「犯行」の時間と場所を確定していくだけのフォレンジック(科学捜査的)な映像表現は、歴史学者ができるような発想ではありません。やはり、建築家だから思い付いたのだと思いました。現在の芸術の最先端を発表するベルリンのビエンナーレで、禁欲的ともいうべき「理性」の芸術を味わったことを、このお手紙の最後に伊原さんにお伝えしたいと思います。
(伊原さんから藤原さんへのお返事は、毎月20日に公開予定です。)