第1回
迷惑とワガママという呪いの言葉
2018.04.23更新
はじめに
「少しは他人の迷惑を考えなさい」「そんなワガママが許されると思っているのか」。誰しもこういうことを言われた経験があると思います。僕もそうです。
誰に言われたのだろうか? と思い返してみます。親や近所のおじさん、学校の先生、通っていた道場の先生、それから職場の上司。それから他に誰だっけ? と考えていくと具体的な顔は浮かばなくなっていきます。
けれどもレストランで子供がはしゃでいる時の、眉間にしわ寄せて不愉快そうな顔をする人だとか街中で個性的な格好をしている人に向けられた尖った視線だとか。とりあえず自分が想定しなかった行動に「迷惑」のハンコを押し、自由な振る舞いを規律から逸脱した「ワガママ」と受け取ってしまう。そんなトゲトゲした「空気」があったことを思い出します。
幼いうちからそういう雰囲気と出会ううちに特定の誰かから何かを言われたわけではないけれど、いつしか周りの空気を読んで行動しないとペナルティを与えられる。そんなふうに理解するようになりました。
そうなると子供がはしゃいでいたら「家族みんなと一緒に食事できて嬉しいんだな」とか、個性的な格好をしている人に「すごく素敵な服を着ているね」といった前向きなことは思い浮かばなくなります。「なんでこんなところに子供をつれてくるんだ」「ヘンな格好だな」といった、ネガティブで攻撃的であざ笑う方がどうにも正しい反応のように思われてきます。
でも、その時の自分の気持ちをよく観察すると、空気に同調したかもしれないけれど、別に共感したいわけじゃなかったんだなと思うのです。というのも、非難がましい気持ちが湧くとどうにも胸のあたりが苦しくなって、じんわりと嫌な感じが広がるからです。はっきり言って周りの人に同調したところで全然楽しくない。
世の中を見渡すと「迷惑とワガママ」を用いての批判合戦が日々行われ、炎上騒ぎが起きるのをよく目撃するようになりました。そうなると何か発言するにも行動するにも、迷惑をかけやしないか。ワガママだと思われていないかをまず考えてしまうようになるでしょう。
顔色と機嫌を伺うことでしか自分の振る舞いを決められない。どんどん空気を読むことに長けはしても、肝心の自分はいったい何をしたいのかわからなくなります。それに「迷惑」なことをしているとされる誰かを叩いて責めてみてもスッキリしない。むしろ迷惑とワガママを正せば正すほど、息苦しさと不自由さは増すばかりです。なぜなんでしょう。
こういう状態をなんとかできないだろうかという思いでこの連載を書いていくつもりです。自分にかけてしまった呪いを自身の力で解き、迷惑とワガママ以外の見方から離れて自身を捉えることができたら?、その時、行き場のない息詰まるように見えた世の中は全く違う顔をして見えてくるはずです。
迷惑とワガママという呪いの言葉
家庭や学校を通じて、私たちは迷惑とワガママという文句に幼い頃から慣れ親しんでいます。「こんなところで騒いじゃ、みんなの迷惑でしょ」や「そんなワガママが世の中で通じると思っているのか」といった言葉は誰しも言われたことがあると思います。
あまりに馴染みすぎたせいでしょうか。いつのまにか私たちは自分や他人の行為に対して、「こんなことすると迷惑だと思われるかな・・・」とか「自分勝手でワガママだな!」と自動的にラベリングしてしまっていても、そのことになかなか気づけなくなっています。
目にしたことや心に浮かぶことに対して、タグを素早くつけてしまう。本当は別の感じ方や判断の仕方があってもおかしくないのに、そういう風にしてしまうパターンが身についているとしたら、それは単なる癖でやっているだけのことかもしれません。厄介なことに自分の癖は本人にとってあまりに自然なのでなかなか意識できません。
迷惑とはいったい何なのか。ワガママとはどういうことかを改めて考えてみようとすれば、実際に私たちがどのような振る舞いについてそう名付けているか。具体例を見ていくのがいちばんわかりやすいと思います。そこで取り上げたいのが、ここ数年話題となっている「ベビーカー問題」です。
「ベビーカー問題」とは電車にベビーカーを畳まずに乗り入れ、それが他の乗客の迷惑になっているということで議論を呼んでいる出来事です。遠慮を知らない親の身勝手な振る舞いだと批判されてもいます。
SNSをはじめネットで話題になっている様子を見ると、乗り入れるケースが満員電車であったり、満員ではないものの通路を塞ぐ形になっていることに怒っている人がいたりと、一口に「ベビーカー問題」といっても様々なバリエーションがあります。
いちばん議論を呼んだのは、満員電車にベビーカーを乗り入れた場合です。「ベビーカーを畳んで抱っこすればいいものをそうしないのは甘えだ」といったように、容赦のない意見も多々見受けられたくらいですから、これを主に取り上げることにします。
朝のラッシュ時の電車に乗った経験がある人はわかると思いますが、空間に余裕はありません。そこにきてさらにベビーカー分のスペースを空けないとなると、普段なら人に優しく接することができる人であっても、つい反射的にイラっとした表情をあらわにしてしまうかもしれません。そのためベビーカーの乗り入れは「ありかなしか」でいうと「なし」という意見が多数を占めています。
たとえば「マイナビウーマン」2015年11月1日付の記事にはこういう声が紹介されています。
「満員電車にベヒーカーで乗ってきてる人がいて、周りへの配慮がないなと思った」(27歳/アパレル・繊維/秘書・アシスタント職)
「わざわざこんでる時間帯の電車に広げて乗ってくること、1時間ずらせないのかと思う」(29歳/印刷・紙パルプ/クリエイティブ職)
こういった声に対して「まったくその通りだ」と思う人もいれば、「弱い立場への想像力がないなんて!」と感じる人もいるでしょう。それぞれの立場を想像してみます。
遅くまで働き朝早く出かける毎日が当たり前になっていて、あまり寝られなかったり、じゅうぶん休んでいるはずなのに頭の芯の疲れがとれなかったりする。そういう心身の状態で身動きとれない空間に押し込められたら、なおのこと精神的、身体的にストレスが高まります。
どちらかと言えば、自分の方が気遣われたいし、ケアされたい。そう思うくらい疲れているのに、さらに誰かに配慮するのはストレスがたまる。勘弁して欲しい。
一方で子育てをしている人や育児に理解のある立場からすれば、そうした想像力のなさや自己中心の考えに憤りを覚えるでしょう。ベビーカーを畳めば子供だけでなく、オムツや水筒、おもちゃといった必要不可欠なものも全部ひとりで持たないといけなくなる。そんなことでは体力がもたないから、ベビーカーで乗り込まざるを得ないのに「甘えている」「場所をわきまえろ」と言われる。
「自分だって昔は子供だったくせに。まるで理解がない。なんて冷たいんだろう」「少子化が問題だと言っているのにぜんぜん子供に優しくない。こんな世の中は間違えている」と子育てのたいへんさに理解がないことに悲しんだり怒りを覚えても当然です。
どちらがおかしいとか悪いという前に、ひとつはっきりしていることがあります。それは普段はどんなにいい人でもぎゅうぎゅう詰めの物理的に余裕のない空間に長時間いたら、他人に関心を払うことが難しくなるし、あまり寛容な気持ちにはなれないということです。自分の感覚をシャットダウンしておかないと、到底やりきれない。そんな場で他人に共感していたら身がもちません。環境がその人の本来の気質や良さを違ったものに変えてしまうのです。