第8回
自他を肯定し、否定すること。
2018.12.20更新
「目標が達成できないのは、君のがんばりが足りないからではないだろうか」
「あなたが生活に困っているのは、今まで努力を怠ってきた結果でしょう? それなら今の不遇も自業自得とは言えませんか」
「昔は子育てなんてひとりでしたものだ。子育てがつらいとか言う最近の親は甘えている。苦労が足りない」
バリエーションを変えながらも、こうした様々な形で人を脅しては不安に駆り立て、罰したり恥じ入らせるような言葉が世の中にあふれています。それに直接的にはそうとは聞こえなくとも、注意して聞けば様々にアレンジされた同様のメッセージを毎日のように耳にしていることに気づくでしょう。
たとえば、一見関係ないように思える「風邪でも、絶対に休めない」といった薬のコマーシャルの文言です。額面通りに受け取れば、「ここ一番の大切なプレゼンテーションなのだから風邪を押してがんばらないといけない。その時のための薬」といった、あくまで非常時のものと捉えられないでもありません。
けれども、成人の20%が慢性的な不眠だという報告もされていることからわかる通り、いくら働き方改革と言ったところで遅くまで働かざるを得ない環境がいたって普通にあることを私たちは知っています。
加えて「絶対に休めない」という背景には、個人の意志の力や根性さえあればなんとかなるというイデオロギーが控えているのは間違いないでしょう。精神力があればなんとかなる。なんとかならないのは意志が弱く、努力が足りない証だといった循環する論法が持ち出され、そのために人が疲弊していっている実情も多く目にしています。そういう現状を前提にすると「絶対に休めない」のはあくまで緊急事態だとは言えなくなります。
休むなんて「甘え」だし、それこそ他人に迷惑をかけるようなワガママな振る舞いだと非難されかねない。感覚的には「もう体は限界だ」とわかっていても社会という名の「みんな」の都合に自分を合わせないといけない。さもないと非難される。そういう含意をコマーシャルに見て取ることができます。そして「どこまでがんばったらいいのだろう」とため息ついては暗澹とした気持ちになるわけです。
「やればできる」というのは嘘ではないにしても、本当でもありません。そもそもやりたくない人もいるし、努力しようがしまいが、できる人もいればできない人もいるからです。設定した目標にどだい無理があることもあれば、他の人ができたとしても、自分にとっては実現が難しい課題もあるでしょう。
また病気やケガといった不運な事情から、みんなのようには働けないし、経済的に自立するのは難しい時期も人にはあります。そうした人それぞれの事情を踏まえることなく、一律に「やる気の問題」「自己責任」を問えると思えてしまう。それが「みんなの常識」だとしたら、それはかなり不合理な要求です。
にもかかわらず、不合理には当たらないとする理屈があるとしたら、それはなんでしょうか。誰も得をしないし、ハッピーでもないのに、ただ「みんな」と同調することが優先されるのはなぜか。それを問うていくと見えてくるのは、「与えられた正しさを答えとして受け入れる」という呪いを私たちが自らにかけている様子です。
「目標が達成できないのは努力不足だからだ!」というような断定した口調で、しかもどのような状況であっても、それが適用されるはずだといった考え方に出会うと、それに対してなぜか「NO! 到底受け入れらない」と判断して突っぱねるなり、避けるのではなく、まずは理解しようと努めることはないでしょうか。
直感としては「おかしい」とちゃんとわかっていても、そのわかり方を大事にできない。上司や教師または権力を持っていたり、社会的に認知された立場の人から言われると「そうなのかもしれない。そう思えないのは自分の理解が足りていないからなのかもしれない」とうっかり思ってしまう。
自分を疑い、相手の言明を答えとして受け取って正しく理解しようとしてしまい、それまで培ってきた自分の感覚や経験から判断することを放棄してしまう。そうなってしまうのは、どこかで私たちは「答えは常に他人が用意してくれる」という考えを持っているからではないでしょうか。人生が常に学校の教室での過ごし方と同じものだと思っている節があります。
確かに自分を否定して、他人を肯定するというのは、人が成長する上で欠かせないプロセスです。しかしながら、同時に必要なのは自分の肯定と他人の否定です。他人は常に自分が見えないところを示唆してくれる。それを受け入れることはそれまでの自己の否定ではあります。
けれども原則に立ち返ると、他人は私ではありません。私の存在や人生は他人事ではないので、私が何か選択をする時、他人は否定されます。私はあなたではないからです。生きていく上では、肯定と否定が絶えず相互に関係する中で判断していかなければ、物事の陰影や人の気持ちの奥行きを捉えることなど到底かなわないでしょう。
ところが自己否定と他人の考えを受け入れるといった一方的な関係に終始するとどうなるでしょう。たとえば疲れきって暮らしていくのに息も絶え絶えの人が目の前にいるのに、みんなが信じるように「努力しない人間は不実であり、生産性がない」を正解として受け入れてしまい、それを常識とする見地から今まさに困っている人を怠け者と見なして詰るようになってしまうでしょう。そうした価値観を通して生きている人を眺めてしまう。そのことに疑問を持たないとしても、一部の人からすれば「正しい理解の仕方」にはなるでしょう。しかしながら、その時、私たちは正義を見失っているのではないでしょうか。
学校で教わった「正しい答えがある」という発想はいとも簡単に「正義とは何か?」という、人と人とを結びつける問いを忘れさせます。答えを一方的に受け入れる態度はきちんと教わり、真面目に身につけました。けれども往々にして私たちは自らに問い、また他に問いかけることで自律して学ぶことを怠ってきたようです。怠惰であるとは、こういうことについて使うべき文句かもしれません。
人の生き方も世の中も本当は正解もなければ定型もないでしょう。実際、時間とともに世の中の仕組みも価値観も変化してきました。だから「どういう生き方が自分にとってはいいのか?」「どういう社会が多くの人にとって幸福になるのか?」という問いかけと、その都度の応えが得られるだけです。応えは確答ではありません。それに自分の選択がまともさを保証するものでもありません。そうなると少し心もとなく感じるのは確かです。みんなが「いいね」と承認してくれる生き方や考え方から逸脱することを恐れる気持ちが私にもあります。
けれども、もしも逸脱した行為を削除していったとして、その後に残るのが常識だけだとしたら、それで私は幸せなのか? と思うのです。その問いを手放すことはやはりできないのです。
編集部からのお知らせ
尹さんによる『脇道にそれる 〈正しさ〉を手放すということ』発売中です!
『脇道にそれる 〈正しさ〉を手放すということ』
尹 雄大(著)、春秋社、2018年5月発売
1,800円+税
仕事、家族、生活・・・。私たちは様々な場面で固定観念に縛られている。社会に属しながら常識という名のレールをそっと踏み外すことができたら、何が見えてくるだろう? 「べてるの家」の人々から伝統工芸の職人まで、「先人」たちが教えてくれた唯一無二のあり方とは。