「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法

第9回

成功の物語に飛びつくことで見失うもの

2019.01.16更新

 先日、まだ入社して3年ばかりの若い新聞記者と知人を交えて話す機会がありました。彼は教養というものへの憧憬を抱いていて、書物を読み、考えることによって知性は練磨されると考えていました。それだけにまとめサイトと変わらない書物の横行やSNSの流し読みで何かわかった気になってしまう風潮に悲しみと憂いを覚えていたのです。

 また、乱暴で慎みのない放言を本音と称して言い募る人士も論客の列に加えられ、耳を傾けるべき意見のひとつとして数え上げられてしまう世相に危機感を抱いていました。そんな時代であればなおのこと、確かなものを身につけない限り、良し悪しの判断も美醜の目利きもできないではないか。だからこそ読書によって知を得て、それを暮らしの中で実践していく必要があるのではないか。そういった考えを彼は持っていました。私もこの社会から識字階級が消失しつつあると思っているので、うなずけるところは大いにありました。

 前世紀の半ばくらいまでは、おそらく彼の話に同意を示す人はそれなりにいたでしょうが、21世紀でこうした感性を持っていたら生きづらいことも多いかもしれない。彼に少し同情しつつ、この場にいる自分も知人もどちらかと言えば古い感性の持ち主だろうなと思いながら話を聞いていました。

 書物を読むには一字ずつ目で追い、時に立ち止まって思案し、またページを繰る必要があります。書かれていることと行間を読むには時間がかかります。今どきの感性では、その時間のかけ方は非効率に感じるでしょう。その体感からすると、例えば140字のツイートも一文字ずつ目で追って読むというよりは、140字全体を画像のように捉えてまさに一瞥で判断しているのではないかと思うのです。

 長く配列された文字を追っていくには息を継いでいかなくてはならないのですが、パッと見るだけであればその必要はありません。私の記憶の限りで言うと、1980年代までは細かい字で二段に渡って組まれた分厚い本を目にするのも珍しくありませんでした。ぎっしりと詰まった文字と向き合うには、飽きたり気をゆるめたりしない集中状態は欠かせません。ロングブレスが必要です。

 しかし、オンライン上での文字を見る行為には、深く長い呼吸はいりません。書かれている内容が精細に捉えられるかは別にして、短い間隔で情報をキャッチすることに長けた感性を当たり前にしているのであれば、練磨というような時間のかけ方に意義を見出しづらくなるのも仕方ないことです。

 ここで話を終えておけば、世を憂う若者との出会いで締めくくれたのですが、彼はふとこう漏らしたのです。「本をもっと読みたいのですが、何を選んでいいのかわからないのです」

 既成の働き方や上司にあたる世代の「人生というものはー」といった語りについていけないと話していた彼がそう言うのです。おや? と思ったのは、私だけではないようで、そばにいた知人はこう返しました。「気になるもの、好きな分野の本を選べばいいのでは?」

 すると彼は少し困ったような顔をして、こう述べました。

「確かにそうなのですが、ちゃんとしたものを選ぶだけの目がまだ自分にはないから何を選んでいいかわからないんです」

 その話を聞いて、前回の連載で「与えられた正しさを答えとして受け入れる」について綴った内容を否が応でも思い出しました。新聞記者の彼は鋭敏でありたいと願い、これまでとは違う生き方を模索したいと話すような向上心を持った人です。ですが、良し悪しはともかく、彼自身も気づかないうちに、正しさを求めるといった、あらかじめ用意された時代の感受性の枠にはまっているのかもしれません。

 ブックレビューのサイトをはじめ、大量の情報があるのですから、その気になれば何が自分に向いているのか選ぶことができるはずではないか? そう思う一方、書籍の点数も、良し悪しについての声も溢れすぎて、何か選んだところですかさずそれを否定するような情報も耳に入ってくるとしたら、いったい何を読んでいいのかわからなくなってしまう。情報のオーバーフローで感覚的に混乱に陥ってしまうのもわかります。そこを突破するのは、「結局のところ自分は何が読みたいのか」といった原点にある自分の意に忠実になることでしょうが、意欲を貫くにはあまりにも情報が膨大すぎて、調べる気力が萎えてしまう。そうなると効率的にセンスの良いものを選びたくなるでしょう。

 その経緯を理解はしつつも、だからこそ彼の発言に感じたのは、試行錯誤の体験の中で何かを得て、何かを捨て、そうして自分の腕と眼力を磨く道筋があることを本気で信じられないのだな、ということでした。自ら体験して得られることに価値を置けない。物事を見定める自信を持ちたいが、それと同じくらい自分に対する不信感を持っているとでも言いましょうか。その疑念が募るほど、物事をちゃんと選ぶといった、目利きができるようにと導いてくれる確固とした解があり得るはずだ、という自覚されない期待が増すのかもしれません。

 「自覚しないままに」というのも、彼が仕事なり生き方なりこれまでのやり方に不満を持っているのは、他人が提示する正しさに辟易としているからです。それにもかかわらず「自ら選べない」と表明してしまうのは、やはり自分の外に答えがあると思っているからでしょう。

  知人は彼に対して「何事もやってみないとわからないし、失敗しても別にいいじゃない?」と言いました。正論です。それに対して「そうなのですが・・・」と言いはしても、やはり得心していない様子の彼を見ていて思ったのです。「与えられた正しさを答えとして受け入れる」といった、受容の態度をもたらすのは「失敗」をちゃんと把握できていないからではないかと。

 「やってみればいい」というアドバイスは、非の打ちどころがありません。けれども、この解が決して彼にとっての答えにならないのは、結果を保証しないからです。確かにその通りかもしれないけれど、やってみて結果が伴わないで失敗したら? その問いに何も応えてはくれません。「いや、だから試すんでしょう?」と言っても、堂々巡りに陥るでしょう。そうなるのは彼個人の勇気が足りないからでしょうか。単に経験していないから、やったことのない事柄に不安になっているのでしょうか。そうかもしれませんが、そう単純な話ではなさそうです。

 もう少し俯瞰して考えたいと思います。彼を含む世代がどのような体験をしてきたのか断片的に聞いた内容から想像してみます。学校では、漢字のハネやはらいがちゃんとできていないといっては減点され、みんなと仲良く遊べないからといっては注意され、そうして協調性を諭される一方で個性的であれと励まされる。一事が万事、どこにあるかわからない正しさに揃えるように言われる。 

 常に正解は教える側が知っているのです。その教えられた正しさから逸脱してはいけない。あらかじめ設定された正しさの枠、いわば閉じた体系の中で「できること」が絶えず求められます。独自の考えに基づいて答えることも、決められた条件を超えるのも失敗とカウントされ、徹底して失敗はあり得ない学習環境の中で育てば 「やってみればいい」という言葉は空々しく聞こえるでしょう。

 さんざん否定されてきたことを今さら「やれ」と言われたところで、どうせやればペナルティを与えられるという思いもどこかで持っているかもしれません。なぜ失敗してはいけないのか? と言う単純素朴な問いはとっくに抹消されてしまったのです。

 試すとは不確定さに向けた行為です。だから正解をもたらしません。件の彼の態度に見られるような「ハズレを引きたくない」という思いを言い換えるならば「正解をもたらすのであれば試していい」になるのでしょう。これは一見すると辻褄は合っているように思えて、論理的におかしいのは、正解を確認する行為は試すとは言わないからです。

 こういう態度に対して経験を積んだ人たちは言うでしょう。

「失敗してこそ成功があるのだから臆せず大いに失敗しなさい。現に成功した人たちは失敗から学び、失敗を乗り越えて成功した。だからこそ大人たちは若者の失敗を認める度量が必要だ」

 経験から語られた寛容な言葉に、心置きなく新たなことに挑もうと思う人もいるかもしれません。けれども、私は全面的に同意できない引っ掛かりを覚えます。なぜなら、こうした言い様は乗り越えることを主眼にしていて、決して失敗の意味を我が事として捉えていないと思うからです。

 挫折を乗り越える話が多くの人に好まれるのは、そこに克服のドラマを見出すからでしょう。でも、それは体験したはずの失敗を脇に置いた成功法や正解を求めているだけで、失敗を決して見つめていないのではないでしょうか。本来あるべき正しい理解から外れたから失敗がもたらされた。そうであれば正しい答えを知って、行うべきだ。それが失敗の克服であり、成功につながる。こう考えるのが当たり前と思われています。

 その当たり前さは何を支えにしているのでしょう。人間は長らく知り得たことの拡張によって世界の謎を探求してきました。そのスタイルによって人間の知のあり方を決めてきました。その方法にあまりに慣れたせいでしょう。人は世界を自分が見たものの総量に等しいと錯覚してしまうようになりました。目から入る情報は1秒間に1000万ビット以上と言われています。けれども意識にのぼるのは毎秒40から50ビットに過ぎません。

 つまり人間的な理解とは絶えず世界の断片化を、誤解を意味しています。世界の側からすれば、人の理解とは常に失敗の連続、誤りにほかならないのです。

 手にしたものが常に間違いだとして、代わりに手に入れた正解も実は誤解の可能性が高い。だとしたら正しさを求めても、それは断片的な答えを求めることにしかならない。そうであれば、どこかに正解があるはずだと、手にしたものをすぐさま放り投げるのではなく、掴んだ失敗や間違いを余すことなく体験し、それを徹底して味わってみる。それがこの世界のわけのわからなさを「わけのわからないもの」として理解するたったひとつの道なのです。

 私たちはどこからやって来て、どこへ去っていくのかわかりません。生きるということは、根拠づけることのできない、五里霧中の只中を生きるということで、手近な正解に回収されるはずもないのです。

 見慣れた暮らしは断片的な情報に支えられた事柄に過ぎないと頭ではわかったとしても、そこに強いリアリティを感じるのも嘘ではありません。目前の現実は本当でもなければ嘘でもない。というのは、確実に根拠づけられない世界に気づけば投げ出されてしまっているからです。

 私たちは閉じた正しさの体系に還元されるような存在ではなく、私たちの外にあるわけのわからない世界との関係性において生きています。

 物事の理解が間違っていたとしても、それにもかかわらず私たちは現にこうして生きています。なぜなら、生きるとは、生きるという行為の中で解決されていく、決して正解のないプロセスの連続だからです。だから私たちは世界について尋ねるのです。

 言葉を覚えたての幼子が飽きもせず「なぜ?」を連発するのはどうしてでしょうか。それはおそらく答えを欲するのではなく、ただ問うているからでしょう。言葉を覚え、歩み始めるとは、この世界に身を乗り出したということです。かつて私たちは正しさよりもそうして身体をともなう行為によって自分の生を支えるところに喜びを覚えていました。そこで起きた失敗は否定されることではなく、ただの失敗。ただの選択、ただの通過点でしかなかったはずです。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
プロフィール写真:田中良子

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