第14回
比較をやめた時、私たちにもたらされる変化
2019.06.20更新
アイデンティティという語が用いられた話題は取扱注意だと思っています。「自分は何者であるか?」と問う分にはいいにしても、「私は○○という人間だ」といった言明で自分を確定しては、その言葉がいずれ呪縛となって、行き場を失わせてしまうことになりかねないからです。
前回、今という時代を生きる私たちの行動原則は怖れではないかと述べました。常に他人の言動や価値観、情報と比べてしまう癖がついているせいで、「自分が自分である」ことを素直に受け入れられないし、それどころか怖れています。しかも「今の自分であってはいけない。なぜなら他の人と比べて・・・」と自らの至らなさを数え上げる技にとても巧みになっています。
否定的な言葉遣いに妙に長けて自信が持てないとあっては「私は○○という人間だ」という言い切りは、どのような色合いを帯びるでしょうか?
例えばSNSではとてもパワフルで前向きな発言を連発しては耳目を集める人たちがいます。彼や彼女らの言動に薄々こう感じることはないでしょうか。言葉の羅列でしか自信を表現できないとしたら、過剰な言動は自信の欠如の裏返しではないか、と。
表向きのポジティブさに魅力を感じるのは、知識や情報、言葉に依存して、地に足ついた感覚がない状態を現状の社会に生きる私たちが共有しているからでしょう。
自信が根こそぎにされたありさまを「身体性の消去」とした上で「私たちは自信のある生き方をしていれば、そうそう他人の言動をチェックして迷惑だのワガママだのと言い募ることはしなくなるのかもしれません」と先だっての連載で記しました。
人や情報と比べてしまう。比較が弱さや怖れを生むとしたら、他人の目が気にならないとき身の内には何が生じるのでしょうか。私がかつて体験したことを踏まえつつ明らかにしていきたいと思います。
以前、ある知的障害者の支援施設を取材するために3カ月間、施設の現場で働きました。もっとも援助の技術も知識もないに等しいので、あくまで施設職員の仕事を補助する程度ではありました。
施設内には陶芸やテキスタイル、木工などの工房があり、それぞれの作業場で職員と施設の利用者が一緒に働き、皿やコップ、服をはじめ椀やカトラリーなどを作っていました。
重度の自閉症の人は、決まった形のものを一定の手順で作ることが苦手だという傾向があるようです。全ての福祉施設がそうではないにしても、できないことができるようになる、能力が成長することに意義を見出し、決められた通りのことが守れるようになる訓練を施すところも今尚あると聞きます。社会で暮らしていくために必要な能力を身につけることが大事だと思うからでしょう。
しかし、施設では「社会復帰」に向けた練習は行っていませんでした。かえって、それがものづくりの特徴のひとつになっていました。
私たちは普段の生活で疑いもせず上達に向けたトレーニングを受け入れています。仕事にせよスポーツにせよ、あることができるようになるためには知識を覚え、技術の精度を高める努力が欠かせないと思っていますし、そのため「能力は高めていける」という発想をさほど疑っていないでしょう。
また、がんばれば結果は伴うのだから、もし成果が上がらないとすれば、やり方が間違っているか努力を怠っているか。いずれにせよ方法なり意識を改めなければいけない、と考えているのではないでしょうか。障害者と呼ばれる人たちと違って、健常者は目的を掲げて、結果を求めるための訓練が得意だと言えます。
健常者の世界では「決まった形のものを一定の手順で作ること」が常識で標準だと思えてしまうあまり、チャリティ番組で映し出される人たちの「不得手なことが少しでもできるようになった」姿に感動したりします。自分に引き寄せて捉えると、「能力が向上するための訓練であれば障害を持っている人にとっても良いはずだ」と素朴に思ってしまうのも無理はないでしょう。
苦手なことを克服する努力をしないとすれば、どうやって製品をちゃんと作ることができるのでしょう。確かに重い障害を持つ人は規格品を作ることは難しい。けれども、自分のやり方でものを作ることはできます。
標準的なものは作れないと聞くと、「知的に障害があるから」に原因を求めてしまいます。そうかもしれません。けれども、ここで言う「できない」は健常者の期待する通りには「できない」のであって、彼らは独自のやり方とこだわりで作ることはできるのです。彼らの「できる」が健常者の「できる」と違うだけです。そうなると「知的に障害があるからできない」と判断している見方そのものが揺さぶられます。
規格の枠からはみ出てできあがった木彫りの人の顔、袖を通すのは難しいけれど素晴らしい刺繍の施された美しい服。何のために作ったの? と問うことがまるで意味をなさない、圧倒的な作品の熱量。いつしか人はそれらを「アート」と呼び、評価するようになりました。「できない状態に留まってはならない」という掟のある健常者が多数派の社会は、できないままでいることに価値を置きません。ところが彼らの目的を持たないように見える行為に「アート」という位置付けを与えるのは、マジョリティである私たちでもあります。そうした評価は彼らの作品に素直に感動したからではあるでしょう。と同時に私たちが信仰している成長や能力の向上をよそに、「いま・ここ」において努力なく、できることをただ表す姿に動揺しているのも確かでしょう。
3カ月の間、それぞれの工房で行われている作業の手伝いをしましたが、木工部門では私も実際に皿を作ることになりました。木工の経験は小学生以来のことで楠の大きな板と木づち、鑿を渡されて、「さあどうぞ」と言われた時には心底戸惑いました。だから何をしたかというと、周囲を見回したのです。他の人はどうやって彫っているのだろう。何か手がかりが欲しいと思って、キョロキョロと辺りを見ました。
私は木をちゃんと彫る技術を持っていない。いわば「できない」状態なので、これを「できる」に換えるには正しい鑿の扱い方、正しい彫り方を知らないとまともな皿はできないはずだと、誰に言われた訳でもないのにそう思い、自分は知らないが誰かが知っているはずの正解を必死に探していたのです。
しかし、私の視界に収まる限りの人たちは、淡々とあるいは愉快そうに彫っているだけでした。正しいとかきちんとしているのでもないし、かといってデタラメなやり方でも投げやりな態度でもない。ただひたすら彫ることだけを行っている感じでした。その姿はとても自信に溢れているようで、次第に眩しく見えて来た途端、こう思ったのです。
「人と比べて自分のダメさ加減をわざわざ想像してまで否定的なイメージを自分に植え付ける。これは妄想とどこが違うのだろう?」
意を決して鑿の刃を木に当てて彫り始めました。最初は「これでいいのだろうか?」としきりに言いたがる自分がまだ心中にいて、とても不安な声音で私に話しかけます。「失敗したら恥ずかしい」「こんなこともできないのかと思われる」。そんな囁き声を振り払おうとしたのか、木づちを強く叩いたところ、思っていた以上に鑿が板に深く食い込み、木が大きくえぐれてしまったのです。それまでの躊躇いがちな浅い彫りから逸脱した、傷のような鑿痕が目に留まった瞬間、どうやら吹っ切れたようです。底に穴が空いたわけでもない限り、取り返しのつかないことなんてない。仮に穴が空いてもそういう皿にすればいいだけのことだ。
そう思ってからは大胆に彫っていきました。鑿の角度は毎度違って、とても滑らかな曲線を描いているとは言えません。けれども彫り進めるにしたがって、「見知った皿の形をしていなくてもどうでもいいことだし、きちんとした技術がないとしても自分なりにどこをどう彫ればいいかは、彫り進めている手そのものが教えてくれる。だから大丈夫だ」という全く根拠のない自信が湧いてきたのです。
イメージの中の完成された皿を目指すというゴールはいつしか消えて、ただひたすら手を動かし彫ることに没頭していると、「重い障害を持つ人は健常者が設定したゴールやそれに向けて努力するという発想がそもそもないのではないか?」という考えがとても腑に落ちました。
彼らが自信ありげに見えたのは、その時にできることをただ行っているだけだからではないか。私が皿づくりを通して体験しつつあることを踏まえると、ただ物事を行っている時には「できなかったらどうしよう」といった不安が入り込む隙がどうやらないようなのです。
だからでしょう。仮に木工のプロに「こんなの全くダメだ」と言われたとしても、私は「あら、そうですか」で聞き流せるし、他人があれこれ言おうが別にどうでもいいなと思えたのです。「技術が拙いので、こんなものしか作れませんでした」とへり下る気持ちなど微塵もなく、むしろ「どうだ」と言いたいくらいになりました。しかも、「どうだ」という態度は「オレの方が優れているだろう」と見せつけたいからではなく、「この皿は見事だろう」と他のことは度外視で言いたいだけなのです。ただひたすらな自己満足がある状態とでも言いましょうか。
障害を持つと言われる人たちと接して否応なく気付かされたのは、自信が持てないのは何かが欠如しているからではなく、「自信がない」という設定を自らに許しているからではないか、ということでした。
私たちは比較する能力が発達しているがゆえに、優れた人を「ただ優れている」と認めることに飽き足らず、優れた人と自分を比べて否定する言葉を自らに持ち込むことができます。だからと言って比べる能力が悪いのではありません。比較することができるから過去と未来という概念を持てるのですし、予測のもとに危険を回避することもできます。強みではありますが、弱みにも転じます。つまり予測は「もしそうでなかったらどうしよう」という不安の種になるからです。
この社会で健常者と呼ばれる人の特徴を挙げるとすれば、多くの不安の種を抱え、せっせと水をやっては芽吹かせる努力をしているところにあるようです。それが私たちの特技になっています。ある意味で不安がなくてはならないのは、それを通じて他人との関わりを持とうとしているせいかもしれません。
評価を求めながら、人に誉められると「そんなことはありませんよ」とまず否定することからコミュニケーションを始めてしまう。それを謙遜と呼ぶこともできますが、裏返せば自信のなさを他人の承認で埋め合わせようとしていることにもなるでしょう。
限られた体験の中ではありますが、どうも重い障害を持つ人たちは別に人と積極的に関わろうとしないようです。ひたすら自分のこだわりを貫徹することにエネルギーを注いでいるように見えました。
私たちが住み慣れた社会では、彼らのような自己完結ぶりは他人を考慮しない、迷惑でワガママな行為だと解釈されます。しかし、習慣的に身につけてしまっただけの常識を外して捉えると、彼らはいかなる時も主体的で自立しているという風に見えてくるのです。彼らはアイデンティティについて考えることなく、アイデンティティがしっかりしていると言えないでしょうか。比べる事にあまり関心のない彼らは、とても自信があるように見えました。ここにヒントがあるような気がします。
他人との関わりありきで自分を保つことに細心の注意を払えば、自分の言いたいことはいつも後回しで、主体的な行動も「ワガママと思われるのではないか?」と自主規制の対象になります。
そろそろ私たちは他人との比較に意味を見出す時期を終えないといけないのかもしれません。