第16回
好きな人に告白することは迷惑だ
2019.08.18更新
2年ほど前、私の主催したインタビューの技法に関するワークショップを終えた後、参加者のみなさんとカフェでコーヒーを飲んでいた時のことです。経緯は失念しましたが、大学院生の男性が他の参加者に尋ねられ、「これまで誰とも付き合った経験がない」と答えていました。打ち解けた雰囲気の中でそれなりの親密さがもたらした展開でそうした話題になったのでしょう。隣にいた女性が「付き合いたいとは思わないの?」と尋ねます。
すると彼はこう答えました。
「好きな人がいても告白するのは相手に迷惑かなと思うんですよ」
え? と驚き、口元に運んだカップを一旦テーブルに置いたものの、すぐさま「なるほどそうか。わからないでもないな」という得心が訪れました。発言を聞いた私と同世代の女性は、彼の言動に覇気のなさを見て取ったのでしょう。憤慨に近いような納得しかねる表情を浮かべていました。
彼女の面持ちを見て、ふと学生の頃のサークルでの雑談を思い出しました。後輩が好きになった人に意中の人がいて、どうしたものか悩んでいるといった話を打ち明けた際、先輩がこう言ったのです。
「ゴールキーパーがいるからといって、サッカーの試合でシュートを打つのをためらうのか?」
当時は雑誌が若者の情報源としてまだ力を持っており、毎度飽きずに組まれていた特集は恋人を獲得するための手練手管で、アグレッシブさが男性性の発露として当然のように考えられていました。その雰囲気を知る世代からすれば、大学院生の彼の態度は不活発と感じたでしょう。けれども彼にすれば、サッカーにたとえての助言は「いかにもバブル世代の言いそうなことだな」で片付けられることかもしれません。
私が彼の発言に驚いたのは、迷惑という語がよもや自身の内側に湧く恋情に与えられるとは想像していなかったからです。でも同時に頷けたのは、共感や空気の察知がこれほどまでに求められているのであれば、相手の気持ちに踏み込むのは迷惑行為として警戒されてしかるべきことになってもおかしくないからです。加えて彼は「親しい友達だからこそ本当のことは言わない」とも明かしました。
その場にいた人の中には大学院生と年が近く同じ大学に在籍していた女性がいました。彼と他の参加者との話が盛り上がっている合間に私は「あのような考えはわりと一般的なんでしょうか?」と彼女に尋ねたところ、こう返しました。
「私の近くでは見かけませんね。でも、ああいう考えの人が一定数いるのは知っています。今日のようなワークショップでもなければ話す機会はありませんけど」
その口ぶりから窺えたのは、「情けないな」と言いたげな憤りに近いような面持ちを見せた女性とはまた違って、迷惑かどうかだけを大事にして視線が内向きになっているナイーブさへのいささか冷めた態度です。能動性に欠ける同世代の男性へのうっすらとした諦観が根底にあるようにも感じられました。ただ接点は持たないけれど、積極的に否定するわけではないのはそうならざるを得ない、空気を読みあう関係性を彼女もまた共有しているからかもしれません。
ちなみに、その日を境に私はいろんな世代に彼の発言を紹介し、反応を見てみました。40代から上は概ね「本当の気持ちや思いを伝えることなく、うわべのやり取りで済ましては誰とも深いコミュニケーションがとれない。要は自分が傷つくことを恐れているだけだ」と断じたがる傾向がありました。
そうした感想を聞いて思ったのは、「要は~だ」と結論づけるのは、自分の理解できる範囲でわかっているだけで、彼のような感じ方を紐解くことには関心が向いていないのだなということでした。それでは俎上に載せた「深いコミュニケーション」が彼とは結べないでしょう。それに「そんなうわべのコミュニケーションでいいのか?」と言ったところで、彼にしてみれば「よくわからない説教をされた」としか感じられないかもしれません。
世代が違えば感性が異なるのは当然です。26歳の彼は初めての26歳を生きています。年長者はかつて26歳だった経験を持っています。上の世代がするべきはその経験を用いて、彼を裁くのではなく理解のために橋を架けることでしょう。少なくともそれが若い人よりも長く生きたものの務めだと思います。
話をカフェでの会話に戻しますと、私はジャッジするよりも彼の感性のありようが知りたいと思い、再び会話に加わり、こう尋ねました。
「もしも君が誰かに『好きだ』と言われたら、それを迷惑に感じるの?」
彼は「人によります」と答えました。
「だとしたら、君が誰かに好意を伝えても迷惑に感じるかどうかはその人次第。『迷惑だ』という判断は一方的かもしれないね」
「そうかもしれません」
続けてこう質問しました。
「好きなものや欲しいものに対してはどうなんだろう。たとえば服はどうやって決めているの?」
「ZOZOTOWNとかでサイズと価格で決めています」
それを聞いた周囲が一斉に突っ込みます。
「着たい服とか好きなブランドとかないわけ?」
「それを言い出したらお金がかかって切りがないですから」と彼は答えました。
次いで「食べ物はどうやって選んでいるの?」と質問すれば、「出されたものを食べます」と答えたのは、実家暮らしだからでしょうか。さらに続けて「今日は肉が食べたいなぁとかそういう気分が湧くことは?」「いや、あんまり欲求がないんですよね」。
表面的に聞くと欲望が薄くて堅実で高望みをしないように思えます。そういう側面はあるかもしれません。けれども私が彼の言動に感じたのは、客観性に依って物事を理解する速さでした。好意を伝えることや服の選び方、食事に対する考えがなぜ客観性につながるかと言えば、自分を取り巻く状況を情報として捉えると、いかに疲弊せずに合理的に選ぶかは外せない基準ですし、そうなれば主観はさておいて最適解は何か? と考えてもおかしくないからです。膨大な情報の中で溺れることなく生きるために知らず身につけた能力かもしれません。
実際、ワークショップの合間の質問なり会話から感じたのは、彼はとてもスマートで物事の仕組みや状況に対する把握が早いということでした。ひとりをもって世代を表すことはできないのはもちろんですが、彼のような発想の持ち主は「一定数いる」という証言もありますし、恋愛に迷惑という語を挟むことに拒否感を覚える上の世代が多いからには、「好きだと告げることが迷惑」という言い様には、これまでとは異なる他者との関係の結び方を予感させます。ひょっとしたら今後はスタンダードになりかねない感性のありようが含まれているのではないかとすら思うのです。
経済成長期に育った昭和世代は、恋愛に限らず仕事にしてもやる気と根性で突破して目標を叶えるといった精神論を基調とする傾向にあると、私は感じています。明日は今日よりも豊かになれる。がんばりと意志の力でなんとかなるという主体的な発想は裏を返せば、ただ思い込みだけがあって、俯瞰して眺めた上で全体像を把握し、その上で最善の手段をとるという発想は皆無に近いわけです。
彼のような客観性の理解からすれば、欲望に従ってローンで身の丈に合わない服を買うのは、この先に手に入れられる収入とそのための労働と引き合わない取引でしかないでしょう。まして買いたいものや食べたいものに引きずられた世代がもたらしたのが、現状の経済格差と沈滞した社会という体たらくです。全体の構図が見て取れたら主観的な嗜好というのはさほど価値の置けないものだと思っても不思議はありません。
覇気がない。欲望が薄い。そんな人が多数派になっては社会はさらに不活性になると憂う人もいるでしょう。けれども、彼からすると、そもそもこの世はすでに荒野であり、何か欲望をもって臨むに値しない光景として映っている可能性は高い。
カフェの閉店時間が迫ったので解散したのですが、その日から私は迷惑と客観について考えるようになりました。再び彼のような価値観の持ち主と出会った際に話ができるための準備をしておきたかったからです。
彼にしても自分にとっては自然な感覚かもしれないけれど、だからと言って全く問題ないと思っていないのかもしれません。そうでなければインタビューという他者との関わり方についてのワークショップに来ないでしょう。
「迷惑かもしれない」と想像することで誰かを傷つけないでいられたとしても、絶えず他人と繋がるチャンスを失っているとしたら、言葉がどこにも届かず空振りし続ける感覚を味わい続けていることになります。感性の違うもの同士がいかに話し合えるか。互いの観えていないところを手掛かりにした時、歩み寄りは生まれるものでしょう。
そのためにまず客観の語源から調べてみることにしました。ギリシア語では「向こう側に置かれたもの」。ラテン語では「それ自体で存在する」という意味で、それらをルーツとしつつ現代では「当事者ではなく、第三者の立場から観察し考えること」として理解されています。
「第三者」とは、距離を置いて物事を観られる立場です。物事を他人事にする傍観者になるのではありません。客観とは「対象と自分との関係を捉えて物事を考える」ことであり、主観なくして存立し得ないものです。
どういうわけか客観的や客観性と聞くと「私の中にないが、他人にとってあり得たかもしれない視点」といった、主観抜きの、この世に足場のない幽霊の視点をとることだと勘違いされがちです。しかも客観的だから正しいという考えも幅を利かせています。
生きていくというのは常に主観的な行為です。どれだけ情報や知識を蓄えても、私が客観になるわけではありません。まして人生は正答を得るための過程ではありませんし、生きるという行為は「私にとってそれは何か?」という極めて個人的な問いかけの連続です。
私と他人は異なる存在です。その違いに対し知りたい、近づきたいという思いが発生し、距離を縮めようとする。そこに客観性が生じるとしたら、やはり「相手と自分との関係」を捉えるところでしょう。その場に応じたやり方があるだけで、客観的で正しい関係性の持ち方などありません。そうなると余計に不安に感じて「内心では自分を好ましく思っていないのにアプローチしているのなら、相手にとって迷惑なことをしている可能性は高いじゃないか」と思う人もいるでしょう。
しかし、それは受け入れられる余地がないだけで「迷惑」で括るのは早計に過ぎはしないでしょうか。最初から客観性のある関係性の築き方を求めるとしたら、それは自分にばかり目を向けているだけで、相手についてまるで考慮していないことになります。一歩踏み出す行為を「迷惑」とジャッジしてしまう。それは気遣いでも繊細さでもなく、客観性の名の下に他人をコントロールしたいという欲望の現れでしょう。
相手も自分に好意を抱いている。それが明白になって初めて自分の思いが迷惑にならないのだと知って安心するとしたら、正答に向けた関係性しか許されないということであり、他人という未知の存在は必要ないことになります。客観や俯瞰の重視と迷惑への配慮とは、私がただ安心したいだけであって、極めてエゴイスティックな考えに基づいているとは言えないでしょうか。
迷惑とは本来は仏教由来の言葉で、「迷い戸惑う」を意味します。他人に迷惑をかけることを恐れた結果、迷い戸惑う状態に陥っているとしたら、そこから脱け出るには何が必要なのでしょう。