第17回
受け身の身体がもたらす感覚
2019.09.13更新
好きな人に自分から好意を伝えるのは迷惑だと思うから告白しないけれど、相手から言われる分には構わない。前回はそんな男性のエピソードを紹介しました。
件の彼は「親しい友達だからこそ本当のことは言わない」と明かしたことも併せて考えると、本当の気持ちは相手にとっては煩わしいものでしかなく、それを口にしては不用意に近づき過ぎることになる。だから「接点を持てないくらい離れておくのが良い」という考えが一連の言動に伺えます。
しかし、この「良い」という判断は取り立てて相手を尊重しているから下されたわけでもなさそうです。というのも、好ましいと思える相手が近寄って来てくれる分には迷惑とは思わないというのですから、自分が安全だと感じられる範囲を超えて踏み出すのはリスクが高く、得策ではないという考えが背景にありそうです。
自分の振る舞いは相手には疎ましく感じられるのではないか。迷惑を念頭に置きはしても、実際に重視しているのは印象なり評価といった、自分の都合です。そこに他者は存在しません。合わせ鏡に映るのは決まって自分の姿というのは、どこにも出口が見当たらない地獄にも思えますが、人によっては慣れ親しんだ顔を見ることで安心を見出すのでしょう。
「結局は自分のことばかり考えているだけではないか」と彼を責めたいのではありません。自分の都合を考えるのは誰しもそうです。ただ、彼にとって「フェア」とはどういう意味合いを持つのだろうというのは気になります。
いつも自分から踏み出すことはせず待ちの姿勢でいる。ただし相手から近づいて来る場合は受け入れることもある。このふたつの条件が示すのは、「自分のことをいい感じにわかってもらいたい」という一方的な取引への期待です。頭のいい彼のことですから、内心では虫が良いというのはわかっているのかもしれません。それでもなお自分から歩み寄りはしないが「好ましいと思われたいし、わかられたい」と理解への望みを持つとしたら、それだけ誰かに切実に必要とされたいという飢餓感があるのではないか、と私には感じられます。彼が私のワークショップに参加したのは、この段階で「これでいいのかもしれない」と成功の手応えを感じたのかもしれません。
ここからはみなさん自身が彼の立場になったとして考えて欲しいのです。仮に自分の現状が問題だとして、それを変えるにはどうすればいいかと思いあぐねています。そこで誰かに相談したとします。すると、あなたは「人から理解されたいと思うなら今までのような消極的な態度を改めなくてはいけない。もっと自分を出してみたらどうか」とアドバイスされました。それを聞いて「確かにそうだな」と思い、自分なりに考えた「良かれと思うこと」を実行したとします。
自らの体験を踏まえて思い返してください。人から理解される目的に限らず、およそ「変わらないといけない」と言われて試みた努力は、思った通りの好ましい結果をもたらしたでしょうか。「努力したおかげで変わった」と言う人はもちろんいるでしょう。
一方で「努力しても実を結ばなかった」と思った人の場合、次に待ち構えていたのは「本気でやらないから変わらないのだ」と居丈高な口ぶりで諭したがる、内省する自分の出現ではなかったでしょうか。そんな上から目線の言葉に対し、内心言いたいことはもちろんあったけれど、それを口にするのはなんだか言い訳めいて感じられたかもしれません。
と言うのも、これまで「なんで結果が出ないんだ」と人に問われて、できなかっただけの正当な事情を口にしたら「言い訳するな」と頭ごなしに怒られたことが嫌という程あるからです。それ以来、自分の考えを言うのは「口答えになるんだ」と思うようになったものの、だからと言って完全に納得したわけでもきっとなかったでしょう。
どうせ何か言っても聞いてくれないことだし、口答えの代わりに「意志が弱い自分がいけないんだ」と反省するルートを自分の中に作り出してしまったのは仕方のないことでした。それでまた言われた通りの積極的な態度をとってみたらうまくいくこともあって、周りから「最近なんだか調子いいね」と言われるようになったのです。
その時、あなたは「がんばったおかげで変化したんじゃないかな」と思ったのではないでしょうか。「努力したから自分は変わった」と思える人は、ひょっとしたらこの段階で「このやり方でいいのかもしれない」と成功の手応えを感じたのかもしれません。
ここでほんの少し感覚に対して解像度を上げて欲しいのですが、言われた通りに努力した結果「変化したんじゃないかな?」と思えて嬉しくなったのは紛れもない事実です。と同時に「そういう自分をわざとらしく感じる」といった、どうも胸のあたりがモヤモヤしたり、お尻がモゾモゾするような、落ち着かなくなる感覚は生じていなかったでしょうか。
確かに「変わった」という結果はあるのだけど、どこかで「自分らしくないことをやっている」と、ちょっと引っかかる感じもないわけではない。消し去ろうとすればできるくらいの感覚だけれど、そこにフォーカスしたら、きっと胡散臭さを嗅いでしまうに違いないといった代物です。
ここで言う「自分らしくない」というのは、初めてのことを試みて不慣れのあまりギクシャクすることではありません。「自分がそれをやりたいのか」「本当にいいと思ってやっているのか」と考えるのを放ったらかして、周囲の視線をすごく気にして行動して、挙句ぎこちなくなっている状態です。
期待に応えて変わった自分はそれなりの結果をもたらしており、そういう意味では変化は嘘ではないかもしれないけれど、それが演技で偽りだとわかっている。自分の吐いている嘘を感じ続けるのは疲れます。相変わらず昔のままの自分が自分の中に居座る姿を見ると「何も変わっていない」と自己嫌悪に陥ってしまうからです。取り組みによって変わったはずなのに「また同じことの繰り返しだ」と悔いる自分がいる。そういう自分をどこかに追いやりたくなります。
努力の結果、「自分は変わった」と思う人もそうでなかった人にも注目して欲しいのは、こうした心の動きと体感です。それらが明らかにしているのは、「ある概念を実行すればきっと結果がもたらされるはず」と信じられている一連のメカニズムへの違和感です。
何か行えば結果が生じる。思いや考えを実行すればそれなりの結果が起きるのは、因果律からすれば当然です。ですが、私たちは「結果がもたらされるはず」の「はず」につい目がいってしまいます。そうあるべきだと思ったところで、起きた結果があらかじめ望んだ成功とは限りません。期待通りの出来事が起きないときに、「努力が足りない」とか「方法が間違えている」と私たちは言うことになるのです。けれども、そもそも思いや考えがそっくり3Dプリンタのようにそのまま現実化するものでしょうか。その捉え方が間違えているかもしれない、ということにはなかなか考察が及びません。
概念は言語で作られています。言語はこうしてみなさんが読んでいる字面からわかる通り、直線的で平面的な二次元の出来事です。比べて私たちが生きている現実の世界は直線でも平面でもなく立体です。ですから、世界についてどれだけ巧みに言おうとも二次元の言葉に変換する限りは、低次元にならざるをえないのです。言語は常に現実を取りこぼし、色あせた形でしか表せません。そうなると概念の実行で現実化を果たすという発想はどうなるでしょう。
「理想の体型になろう」と訴える美容や健康関連のCMをよく目にすると思います。「こうすれば理想が手に入れられます」といって謳われる「理想の体型」も概念ですから、それを目指す行為は断片的な現実にしか行き着きません。「そんなことはない。思っていた通りにきれいになった」と思う人もいるでしょう。
でも、それはあくまで結果から見てのことであって、実際は「予想よりもきれいになった」か「想像していたほどの効果はなかった」のどちらかです。もしも「思っていた通り」のことが起きたとしたら? 時間は流れ、身体は変わり続けているのですから変化の否定であり生命現象に反することになります。理想は言語の中にしか存在しないので、その像は固定的です。だからこそ「永遠の美」は、変わらないところに真価があります。
「こうすればうまくいくはず」といった「はず」に注力する発想は、自分にとって利益があると思う情報を集め、その総量が現実と等しいといった、結論ありきの非常に都合のいい考えが出発点です。それは見たいものを見ることであり、決して認識の外の世界とは出会えません。先述した「合わせ鏡」と同じです。「はず」はなくして「こうすればうまくいく"かもしれない"」程度にしておく方がいいのだと思います。
さて、ここで振り出しの「好意を伝えることが迷惑だ」に戻って考えたいと思います。これまで見てきたように、他者は常に概念の外で生きています。私の認識の外にいる相手が本当に私についてどう思っているかわかりません。そこで相手を不快にさせないか。自分が傷つくことはないかと逡巡するのは、「私にとって有利か不利か」を念頭に置いているからです。知覚できる範囲で自身の行為を「迷惑だ」と判断してしまうとしたら、そこで本当に起きていることはなんでしょうか。実際に生きている自分と相手よりも概念を優位にしていると言えるのではないでしょうか。「だから考えに閉じこもらず、もっと積極的に行動するべきだ」と言っては、別のコンセプトの実行の奨励でしかありません。ここで提案したいのは、言葉ではなく身体に注目したいということです。
家庭や学校、職場における教育で、私たちは概念に対して受け身の身体性を当たり前にしています。「受け身の身体性」がピンとこないとしたら、こういう喩えはどうでしょう。正しい知識がないと行動できないし、してはいけない。そういう行儀の良さをもう学校にいるわけでもないのに普段の暮らしの中で知らず実践しているし、それを基準に他人を評価している。思い当たる節はないでしょうか。
私たちは「こうした方が良い」「これが正しい」とさんざん言われてきました。十分なくらい「良い」「正しい」を知っています。それらを実行しても、しっくり来ない感じがあるとしたら、きちんと実行できないことが原因ではなく、考えがそもそも身体に合っていないかもしれません。そのことが不全感と拘束感と不自由さをもたらしているのではないでしょうか。
私たちはもう偉い人や立派な人の教えを一方的に与えられる役割から降りて、自立して学ぶ時節に差し掛かっています。理想や正しさといった概念に照らして自分の行動を修正するのではないとしたら、何が手掛かりになるでしょう。私はそれが身体だと思います。まだアクションを起こしてもいないことに「迷惑ではないか」と考えてしまう自意識ではなく、「迷惑ではないか」という構えをとってしまう身体性とは何かと問うてみます。自意識を問題にすると再び誰かの教えで自分を正そうとするでしょう。
しかし、身体性に目を向けると、相手の顔色を伺うような臆する気持ちの表れはどう観察されるでしょう。胸を張り力がみなぎりといった堂々とした構えではないはずです。腰がひけて相手の様子を伺う姿勢ではないでしょうか。
そして観察とは自らの態度を「良い・悪い」とジャッジするのではなく、その時の感覚が「本当に心地がいいのか」と味わって、すっかり体験するところにあります。判断する前に存分に体験してみる。やってみなくてはわからないことを案外、私たちは途中で放ってきた過去を持っているものです。