第1回
多聞、神輿を担ぐ!
2018.05.29更新
うっかり男はミシマンだけではありません。インドだもんでおなじみ、矢萩多聞さんもその一人です。5月3日の湯立の神事のあと、ばったり出会い、互いにびっくり。
聞けば、前日くらいに急に来ることにしたらしく、宿もとらずの参詣でした。で、2日目の夜、 たまたま入った飲み屋で仲良くなった地元の人に誘われ、神輿に参加させてもらうことに! なんとなんと・・・。当日の朝、ちょっとぎこちなく、法被姿で現れた多聞さんでありました。
子ども神輿のあと、大祭だけに使われる一対の大きな神輿が本殿を離れます。けっこう急な石畳の坂を、驚くほどのスピードで駆け下りていきました。
そこからは勢いそのままに街の中を2台の神輿が練り歩きます。我らが多聞さんも、後ろから遅れてついていきます。多聞さん、はたして無事に担ぐことができるのか?
*
こんにちは。多聞です。
ヒゲのミシマンに急にバトンタッチされたので、ここからはぼくの内部潜入レポをします。
紙の神さまのお祭りがある、それも開山1300年、数十年ぶりの例大祭ときいて、血肉がわきおどった。日ごろ本の仕事をしているものとして、これはぜったい見逃せない。ちょうどGWの予定もあいている。ネット予約ができる安い宿はほとんど満室だが、もはや車中泊もやむなし! びゅんと越前にいってしまった。
神事を詣り、紙の文化博物館の図書コーナーで紙関連本を読みあさり、掘り出し市で紙を物色し、紙のことで頭がいっぱいの数日間だったが、祭3日目の夜、偶然にも酒場で氏子のTさんと出会った。
「神輿、担いでみます?」
彼の誘いで最終日の目玉ともいえる神輿巡行に参加できることになった。
朝11時、集合場所にいくと、鳥居の根方で地域のお兄さん方が、準備万端のいでたちでビールを飲んでいる。白い法被に地下足袋。みな筋肉がっしり、足腰も強そうだ。ぼくも法被を借りたが、足は軟派なサンダル履き。その足元をみて、年長のお兄さんが「地下足袋か靴はかないと危ないぞ!」と心配してくれる。
さっそくTさんの家に一旦戻って、スニーカーを借り、履き替える。
昨夜、Tさんは、「まあ、だらだら飲んで、だらだら担ぐんで、大丈夫ですよ~」と言っていたので、ぼくもけっこうお気楽な気持ちで「担ぎます!」とふたつ返事で答えてしまったのだが・・・。
(法被姿の矢萩多聞さん)
集合場所に戻って、ビールと焼鳥をいただきながら出発をまつ。お兄さん方に挨拶しつつ、神輿担ぎの心得を仰ぐ。
「眼鏡とか携帯とかは家においてきたほうがいい。どうしても、スマホを持っていくならタオルでグルグル巻きにせんと確実に割れる」
え? そんなに激しいんですか? と聞くと、
「ああ、毎年誰かしら喧嘩になるし、巻き込まれて怪我人もでるよ」という答え。
それまでの2日間、和やかに執り行われていた祭の神事とはあきらかに様子が違う。うーむ。これはやばいぞ。
青い顔のぼくを横目に、Tさん、ほかの兄さん方に「今日は助っ人に友だちを呼びました! 頼りにしてください!」とぼくのことを紹介しまくっている。いやいや、助っ人なんてとんでもない、神輿の素人だし、まったく完全戦力外ですよ、と全否定するが、
「京都から来た? わっはっは、そりゃ心強い。たのむわ~」と、みなさんひじょうにあたたかく受け入れてくださる。もはや後にはひけない雰囲気だ。
岡太神社の裏手には、権現山(お峯)と呼ばれる神さまの山がある。戦前までは女人禁制、古代には神職者が山ごもりをするとき以外はなんびとも足を踏み入れてはならない神聖な場所だったそうだ。
その山頂近く、紙祖・川上御前が祀られる奥の院がある。
お祭りの初日、奥の院から岡太神社にお下がりになった神さまは、しばらくお宮に滞在して、最終日、神輿に担がれ、紙の里の五箇地区(岩本、不老、定友、新在家、大瀧)の各神社を巡る。
例年の祭りでは、ひとつの神輿をみんなで代わる代わる担ぐが、今年は大祭のため、ふたつの神輿が出る。どう担ぐか、どんな流れになるのかは、Tさんにもわからないという。
時間がきて、神輿巡行のスタート地点である岡太神社にみんなで向かう。各地区の担ぎ手といっしょに、お宮の前に座り、祝詞をあげ、おはらいをうける。
いよいよ神輿が出発。ヨイサーホイサーと勇ましい掛け声とともに階段を降り、ダダダーっと走って境内を出て、通りを進む。想像していたよりそうとう速い。ええ? こんなスピードで担ぐの? と聞くと、
「うん、いつもより飛ばしてるな~。たぶん例大祭だから、みんなテンションあがっているんでしょうね」とTさんもちょっとびっくりしている。
2基目も先陣に負けずと急発進。足は1基目より速い。せまい路地の角をぶわーんと遠心力で広がりながら駆けていく。
「はよいけやー。ちんたら歩いてんな!」
だらだらとついていこうとする氏子たちに、先導役が怒号をあげる。京都の祭りで神輿が出ることもあるが、だいたいは平地のことだ。岡太の集落は谷間に広がっているので、神社は小高い場所にある。
アップダウンの激しい狭い路地をほぼ全速力で走り去る。担ぎ手は一区間担いだだけで汗びっしょりだ。これはやばい。
「そろそろ、多聞さんも担ぎますか~」
Tさんが住んでいる岩本地区にはいるタイミングで、ついにぼくも担ぐことになった。
背が高いから一番前を、とすすめられたが、いやいや、いきなり先頭は無理でしょ。なんとか脇側にすべりこむ。
黒光りする担ぎ棒を肩に乗せると、ずどんと重い。心の準備もそこそこに、ぐいっと神輿が動き、ヨイサーホイサー、声をあわす。汗で担ぎ棒がすべって、何度も肩から外れそうになる。足取りはどんどん早くなり、足がもつれそうになる。どこからか声があがる。
「肩外すなよ!」
担ぎ手が一人欠けても神輿のバランスは崩れそう。あっという間に息があがる。一区間はたいした距離ではないはずだが、神輿と地面にはさまれながら、ついて行くのが精一杯だ。
合間合間の休憩所で地域の人たちからお接待。ビールと日本酒をがぶ飲みして、寿司やお菓子をつまむ。ギャラリーが増えるとヒートアップして、神輿を上下に揺さぶる。日差しも強く、みな汗びっしょり。飲めども飲めども喉が渇く。
不老地区の神社の一つ前の休憩所で声があがる。
「不老、不老いないかー」
不老地区の氏子が呼び出され、担ぎ手に集められる。神社に入り、すこし休憩をはさんだら、神輿をかつぎ境内を何周も回る。
次の神社に行くために神輿が鳥居から出ようとすると、
「出すなー! 回せー!」
どわーっと人が集まって、みんな担ぎ手にタックルしはじめる。
この地区の人たちは、神さまを他の神社に行かせたくない、他の地区の人たちは、はやく自分たちの神社に連れていきたい。鳥居前で押し合いへし合いぶつかりあう。弾かれた神輿はまた境内をひと回りして、また鳥居に向かう。
「みんな神さまに帰ってほしくない。神輿を出さずに何回境内を回せるか、競うんですよね」
Tさんが笑いながら教えてくれる。これが過熱していくと、毎年けが人がでたり、本気の喧嘩になるという。実際に、出せ出すなの競り合いからマジ切れして、殴りかかる人や、地下足袋を投げつける人もいる。みな熱い。
(動画撮影:矢萩多聞)
最終目的地である岡太神社に近づくにつれて、神輿は激しさを増す。途中からきつすぎて、ぼくは後ろ側で押す役ばかりやっていた。とんだダメ助っ人であるが、後ろから走ってついていくだけでもなかなかしんどい。
最後の攻防の場である岩本神社には見物客もふくめ、ものすごい人だかりができていた。それまで和やかだったTさんも本気モードにはいったらしく、そそくさと眼鏡をケースにしまう。
「多聞さん、ここが最後の砦ですから・・・神輿担ぐの無理だったら、せめて出させんように弾くのだけでもやってください!」
神輿は何周か境内をまわった後、鳥居に近づいてくる。そこにどりゃーとぶつかっていく。声と汗と男のぶつかりあい。鳥居と神輿に挟まれて死にそうになる人がいる。見物客もまきこまれ、何人かまとめて将棋倒しになる。ぶつかりあいの末、転げて神輿の下にふみつぶされてボロボロになるおっちゃんもいる。冷静に見たら、ほんとおかしな光景だが、やっている人たちはみな真剣そのもの。ふだんはマッチョな世界とはまったく無縁なぼくも、どりゃーおりゃーと人波にぶつかって、揉まれ弾かれ押しつぶされ、神輿を回そうと躍起になる。
何回かの攻防のあと、神輿は鳥居を抜け出て、岡太神社のある大瀧地区に向けて駆けていった。悔しそうな担ぎ手たち。見物客のふかいため息と、あたたかい拍手が神社を包む。
夕陽をあびながら神輿は、うねうねと里の谷間を抜け、岡太神社を目指す。その後ろ姿をみていた、ぼくはむしょうにさびしい気持ちになって泣きそうになった。ほんとだ、神さまに、帰ってほしくない。
担ぎ手の人たちには、祭や紙祖についてあまり詳しくない人も多い。もちろん、みながみな紙の仕事についているわけではないが、子どもの時から毎年やってきた祭だ。彼らにとっては、細かいいわれなんてどうでもいいのかもしれない。そこには、土地の神さまを愛おしむ気持ちがたしかにあって、そのまっすぐさにきゅんときてしまう。
無事神さまはお宮に戻り、担ぎ手たちは役目をおえ公民館で夕食を食べる。子ども神楽と、祝詞があり、提灯に火がいれられる。・・・心の中ではこの数日間のドラマのエンドロールがながれはじめていたが、じつはここからが長い神輿巡行のほんとうのクライマックスだった。
夜8時半、ふたたびホラ貝が吹き鳴らされ、神輿は山中の奥の院へむけて出発する。
真っ暗な山道を照らすのは提灯の明かりのみ。なかなかの勾配の山道だが、暗さも手伝って登れど登れど奥の院にたどりつかない。
「この道ってこんな長かったっけ・・・」
地元の若者からそんな声がぼそぼそ聞こえる。
「ついたー!」
ときこえて、ぱっと顔をあげるが、
「ここで半分だね」
といわれ、がっくりする。朝からの神輿巡行で、すでに足はパンパン、思うようにあがらない。それでも、なんとか奥の院にたどりつき、お御霊を社にうつしたのは夜10時半を過ぎていた。
空になった神輿をかつぎ、つづれ折りの坂道を里にむけて引き返す。おもむろに担ぎ手たちが歌い出す。なんて切ない旋律だろう。二手にわかれた担ぎ手たちはコール&レスポンスのように歌を交互に歌っている。空は満天の星空。足元を照らす提灯には「紙に生きる」の文字。何百年、もしかしたら1300年以上前からこんな風に神さまと過ごしているのか、そう思うとじんわり胸が熱くなる。
下山して時計をみると午後11時。実に12時間にわたる巡行がおわった。神輿を神社におさめ、三本締めで散会。
こんな風に自分の職能と密接にかかわる神さまや祭があるっていいなぁ。紙づくり伝来から1500年。紙の歴史かみたら、末端も末端で本づくりをしているぼくだけど、その壮大な時の流れのはしっこに自分がいるんだ、と嬉しくなる。
明日から襟を正して、本づくりに精進します。
*
多聞さん、本当にお疲れ様でした。
多聞さんが、「明日から襟をただして」と書いたように、ヒゲのミシマンも同様の思いに至りました。当初、1300年祭ってほんとかな、とか思っていたことが情けなくなるほどに、浄化された感じがしました。日々を切々と謙虚に生きる人々に囲まれ、自分もそうした産業の一部に携わっていることの幸せを感じました。そして脈々とつづく仕事の一部であることをすこし感じることができました。洋紙、和紙の違いはあれど、紙を愛する気持ちには違いはない。そう思ったとき、もっともっと、この地で多くのことを学ばねばと痛感しました。
また戻ってくるぞ!
そんな決意を胸に、ミシマンは越前をあとにしたのです。越前の風にヒゲを揺らせつつ。