「ない」ようで「ある」

第7回

「精神と時の部屋の逆の部屋」みたいな、

2019.06.28更新

気持ちが辛い時

 気持ちが辛い時、当たり前ですがすぐにその状態から脱したいと考えますよね。そうなんだよなぁ。でも、なかなかそう簡単にはいかないんですよね。僕は辛い時、人間がデジタルな仕組みだったらいいのに、と思わず考えてしまう時があります。こんなSFみたいな考え、普段はバカバカしく思えるし、なんとなく危険な思想の匂いもします。でも、辛い時というのは何にでもすがりたいような気持ちになるのです。

 例えば恋愛で考えてみましょう。想像してみてください、恋愛。それが終わる時。自分は相手のことがまだ好きなのに、何かしらの事情でお別れしなければならないという状況。想像するだけで辛くて胸が張り裂けそう。僕の私見ですが、全く叶わなかった恋よりも、蜜月のような時期を過ごした場合の方が、諦める時に辛さを伴うのではないでしょうか。好きだから一緒にいると楽しいし、相手も自分のことを好きでいてくれることで得られる、「自分は居てもいい」という圧倒的な承認、自己肯定はなかなか得難いものです。恋人同士になるということは、これらの快が重なり深まるということで、脳内では、その人、イコール、この上ない喜び、という仕組みが徐々に出来上がります。「超好き」という状態はこのようにして成立するのではないかと思います。

 相手のことがまだ好きなのに恋愛が終わるというのは、突然この仕組みがなくなるということです。この突然訪れる現実に、人間はすぐには対応できません。脳の仕組みでは一緒にいると楽しいはずなのに、現実では一緒にいられない。脳の仕組みでは自分を無条件に肯定し、受け入れてくれるはずの人が、現実では「もうそれは出来ません」と表明している。うお〜、超辛い。自分の中で徐々に出来上がった、その人、イコール、この上ない喜び、という仕組みは、すぐには「ない」ものには出来ません。そのために、「〜〜したいのに、〜〜してはならない・〜〜できない」という葛藤が生まれて、とてつもなく辛い気持ちになるのです。

 急な環境の変化が人を辛い気持ちにさせるというのは、もちろん恋愛に限ったことではありません。僕は4月に大学病院に異動して、そのシステムにいまだに慣れることが出来なくて辛いし、仕事や日常生活での環境変化によって心身に不調をきたして診療にいらっしゃる人はとても多いです。

 こういった様々な、ある程度仕方のない環境の変化に適応しなければならない時、冒頭にも書いたように、人間がデジタルだったら、と想像してみることがあります。この想像は、デジタルな分野に非常に疎い僕がしているので、もしかしたら頓珍漢な想像かもしれません。でも辛い時、システムエンジニアがプログラムを書き換えるような何かしらの作業によって、自分の中に「ある」それまでの習慣とか流れを突如「ない」ことにできれば、辛さはかなり軽くなるか、下手したらなくなるのではないかと思うことがあるのです。だって、「今まではあぁだったのに、今の現実はこう」という状況が、「今の現実はこう」だけになるわけですから、葛藤が生じなくなりそうですよね。でもそんなことを考えた直後に毎回思い直します。無理じゃん・・・。人間は生体ですから、どんな変化をするにも、途切れない流れがあります。デジタル信号のように、その流れを間引くことはできません。そして、それ故の経年変化とか、円環的なあり方こそが、生体の、アナログな魅力に繋がることなのだと思います。ただ、辛い時は辛いし、なるべく早く抜け出したいんだよなぁ。どうにかならないものでしょうか。

 先ほどの例に戻ります。失恋した時、色々考え方を工夫して相手のことを忘れようとしても、どうしてもすぐには忘れられません。でも突然ではなく徐々に、であればその傷は癒えることが多いとも言えるのではないでしょうか。徐々に相手のことを忘れたり、友人に話を聞いてもらったり、落語を聞いたり(これは僕の場合)とかしながら、時間が経過していくのを待つ。そしてやがて、あぁ、なんだかやっと大丈夫になってきたかもしれない、とじわじわと思えてくる。こういうことってありますよね。これもちろん恋愛だけではなく、他の環境変化に慣れていく場合にも共通することだと思います。

 そうか、ということは、時間を早く経過させればいいのかもしれません。名案が浮かびました。「精神と時の部屋」です。漫画『ドラゴンボール』に出てくるこの部屋では、現実世界の1日で1年分の時が流れます。部屋の中の重力は地球の10倍で、そこで修行すると、現実世界の1日で驚くほど強く成長することができるというものです。つまりこの部屋は、時の流れを劇的に早めるという効果があるわけです。いや、でも、気持ちが辛い時に「精神と時の部屋」に入るとどうなるんだろう。結局、部屋の中では時間を過ごすわけですよね。現実に戻った時に、他者からみたらワープしたように見えるというだけです。自分の体験として、辛い気持ちが癒えていく過程を飛び級できるわけではないのです。つまり、早く忘れたい、とか、早く辛い気持ちがなくなってほしいと考えながら、なかなか変化していかない曖昧な時期というのは、どちらにしても過ごさなければなりません。その上、重力が地球の10倍。気持ちの辛さと無関係に・・・。ダメダメ、余計に辛い。しかも、現実世界では1日で回復した人のように見えるので、自分の中で辛い過程をちゃんと経ているのにも関わらず、それは誰にも伝わりません。むしろ、1日でモヤモヤを解決できるなんてすごい、ストレスマネージメントの神! なんて思われたりする可能性もあります。そうすると、自分が厳しい時期を耐えたことは自分しか知らないことになるので、二次的に強い孤独感に苛まれ、新たな辛さが生まれるかもしれません。

 閃いた! と思いましたが、「精神と時の部屋」案もダメです。やはり、自然の経過を「ない」ことにしたり、短縮したりすることは考えない方が良いのだと思います。ただ、まだ出来ることはあるかもしれません。例えば、辛さが少しずつ癒えていく経過の中で、それが余計に長引かないようにするための工夫とか。気持ちの辛さが長引いてしまう要素というのは何かと考えてみると、最初に思い浮かぶのが焦りです。何かしらによる辛さに苛まれた時、早く辛さがなくなればいいと考えます。でも、先ほども試行錯誤したように、そう簡単にはいきません。この時、回復するには結構長い時間がかかる、ということをあらかじめ把握していないと、きっと驚くほど待つことができません。あぁ、まだ変わらない。このままずっと悩みを抱えた状態で生きていくのだろうか。周りからどんどん置いてかれているような気がする。など、焦りが循環して大きくなっていきます。そうなると、「気持ちの辛さが良くならないような気がする」という不安だったものが、焦りの修飾を受けて、「気持ちの辛さはもう良くならない」という確信に近いものに変化してしまったりするのです。こうなると、大丈夫な方向に変わっていくのにさらに時間がかかるのは想像に難くないですよね。

 ではどうしたら良いのでしょうか。今の逆説的に考えれば、焦らないようにする。つまりゆったりする、ダラダラする、休憩する、というようなことが積極的にできれば良いのです。でも、放っておいたら焦ってしまうような気持ちの状態の人が、その真逆に向かっていくなんてなかなか難しいですよね。僕も日々、人にアドバイスとして、ゆっくり過ごしましょう、なんて言うのですが、でも難しいですよね、とどうしても付け加えてしまいます。ゆったり過ごさ「ねばならない」となってしまうと本末転倒なわけですし。

クリニックに見学に行った

 6月の頭に、僕が尊敬する先生が開業されているクリニックに見学に行きました。達人の診療に同席させて頂けるなんてまたとない機会で、気を引き締めてクリニックを訪れたのですが、まず入ってみると、なんだか他の病院やクリニックと雰囲気が違います。待合室がやたらと広く、ソファがたくさん置いてあります。観葉植物がそこかしこにあるのですが、全然整えられておらずのびっぱなし。天井まで到達してジャングルの植物のようになっているものもあれば、太陽の方向にのびるからか窓に寄りかかってしまって、その寄りかかりをなくすと倒れてしまうものもありました。もう、観葉植物というより、やや野生。置いてある本にしても、漫画主体で難しい本は見当たりません。なんだか不思議空間だなぁと思いながらご挨拶をしました。

 診療が始まります。静かに話を聞き、時々ボソッと何かを言う先生。それに対して、訪れる人たちは嬉々として喋っているような明るい表情。お話の内容はそれぞれのお悩みではあるのですが、なんだか多くの診察室に流れている空気よりも雰囲気が明るいのです。先生自体は特に明るくしているわけではありません。人によっては、重めの診断名の人ももちろんいるのですが、その人たちも明るい。とても不思議に思って、診療の合間にそのことを先生に質問すると、「みんな大体直前まで寝てるから。元気でしょ、それは」と仰いました。え、寝てる? その後、トイレに行くために待合室を通ると、なんとほとんどの人が待合室で寝ています。寝ていない人も、超ダラダラしてる! クリニックの待合室というより、スーパー銭湯の漫画とかが置いてあるフリースペースのようです。広い待合室に余りあるソファ、のびっぱなしの観葉植物、それら全てが醸し出す「ない」ようで「ある」楽な雰囲気が、緊張をほぐす働きをしているのではないかと思いました。診療終了後、待合室でみなさんが寝たりダラダラしたりしていたことを先生にお話すると、「だってみんな疲れてるんだから、寝ちゃう方が自然でしょ。柔らかくてゆっくりな時間てなかなかないから。いいじゃない、この場所くらいはダラダラで」と仰いました。

 そうか、ゆっくりの時間。現実世界で1日経っても、きっとそこでは、もっと少しの時間しか流れていない感じがする。部屋の中の重力はよく分からないけど楽な感じ。そこで過ごすと、強くはならないし成長もしないけど、驚くほどダラダラできる。そんな場所で待って、その後にとても柔らかい診療を受ける。現実世界に戻った時には、辛い問題点がさほど変わっていないとしても気持ちは楽になっている。あのクリニックは「精神と時の部屋の逆の部屋」みたいな、ゆっくりの時間が流れている場所だったのです。それがどんなに安心できることか。訪れてきていた人の明るさを見れば容易に分かります。時間を早める、早く良くなりたいと焦る、のではなく、ゆっくりの時間を過ごすことが実は大切なことで、その場所はとても静かで、とても刺激的なところでした。関東の外れの外れにある、「精神と時の部屋の逆の部屋」で、僕は「ない」ようで「ある」、心理臨床の極意を体感したような気がしました。そうだな。まずは観葉植物を手に入れて、無造作に置くところから真似してみよう。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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