「ない」ようで「ある」

第9回

一人だけ半裸のふくよかな小学生が

2019.08.28更新

 今勤めている病院には体育館があります。かつてはそこで、通院および入院患者さんの日中活動の場であるデイケアの、スポーツプログラムが行われていました。卓球やゲートボールをしたり、バスケットボールのゴールもあるので時々ボールの音も聞こえてくることがありましたが、現在、デイケアはなくなってしまい、その体育館は時々院内で行われる講演会などに使われるだけのものになったと思っていました。でも先日、全然見たことない人たちが運動着に着替えて体育館に入っていくのを目撃したのです。しばらくするとボールをつく音が聞こえてきたので覗きに行くと、バスケットボールをしている人たちがいました。守衛さんに聞いてみたところ、今は体育館を外貸ししているとのことでした。院内の職員にも貸し出せるけど、誰も借りに来ないと言うのです。なんてことでしょう。この時、自分が抱き続けてきた、とてもささやかな夢に気づきました。

 僕は中学の時、自分はNBAの選手になると信じていました。なぜあんなに確信していたのか分かりません。バスケ部の部員で、シュートはまぁまぁ得意で、試合にもレギュラーで出ていましたが、チームは地区予選の1、2回戦で敗退していたし、その地区で誰もが知る有名選手というわけでも全然ありませんでした。これはもはや妄想です。妄想の精神医学上の定義は、「自分自身に関連した内容で、その内容が不合理」であることと、それを「確信してどのような反証にも屈しない、つまり訂正不能」であるということ。まさに当てはまります。当時密かにつけていた日記では、未来日記のようなことを記していて、そこには、高校までに身長が40cmほど伸び、それも話題になってドラフトで指名されるという内容がワクワクした筆致で書かれていました。身長に不安を抱えていたのでしょう。それを一発で解決するようなミラクル日記。訂正不能な感じが伝わってくるようです。でも現実は、中学3年になっても第二次性徴の身長面の変化が一向になく、やがて先ほどの未来日記がSFほどに非現実的なものに感じられるようになりました。自分の遺伝的背景を考えれば、高身長はほぼ望めないことくらい想像できそうなものですが、それが全くできていなかったのです。止まってしまった身長に大きく落胆し、それをきっかけに自分の能力も俯瞰できるようになり、バスケを諦めることにしました。そして、高校ではやや血迷ってラクロス部に短期間所属した後、帰宅部員となったのでした。

 その後、部活のない暇な時間を使って読書や演劇の楽しさを知り、バンド活動にも精を出していきました。こう考えると、今の自分の基盤はNBAを諦めたところから始まっているとも思えます。でも、大学に入り、音楽の道を夢見てCDをリリースしたりライブをしたりしても、心のどこかにバスケの夢は残っていたようです。まさに「ない」ようで「ある」という形で。その証拠に、バンド活動をメインに生活していても、病院に常勤医として勤務するようになっても、僕はケーブルテレビを契約して、まだプロ化とは程遠かった頃の日本のバスケットボールリーグの試合をチェックし続けていました。2016年に、Bリーグというプロリーグが発足し、2019年現在、NBAのチームに籍を置く選手が2人もいるというめざましい進歩がみられ始めている今なら、バスケに夢中になるのはなんとなく理解できます。でもその直前まで、日本のバスケットボールは本当に目立たない存在でした。そんな時も飽きることなく、試合をチェックし続けていたのです。あの執念はなんだったのだろうと考えます。さすがに、中学の時のようにプロ選手になることを本気で信じていたというわけではないでしょう。かといって、試合を観続けて知識が増えることで、飲みの席が盛り上がるとか、執筆に役立つなどの付属的な効果があるかと言えば、そんなサブカル要素もないような気がします。実際、バスケのことを書くのは今回初めてです。こう考えると、あくまでも内発的に、ただバスケを観たいという動機だけで、20代の少なくない時間を費やしたと言えそうです。でも先日、病院の体育館でコートを借りられるかもしれないと聞いて、自分の中の無意識のような領域に、「ない」ようで「ある」状態でいた夢に気づいたのです。それは、「バスケが観たい」ではなく、「バスケがしたい」ということでした。「先生、バスケがしたいです」と訴えた、漫画『スラムダンク』の三井寿の気持ちが分かるような気がします。まぁ、僕の場合、職業柄「先生」と呼ばれることもあるのでややこしくなってしまうのですが。

 それから早速、体育館の予約をし、遊びに付き合ってくれそうな院内の医療職の人たちを集めて、高校の時の体育の授業ぶりにリングと向き合いました。全然動きを忘れていると思っていたのですが、欠かさずプロの試合を観てイメージを膨らましていたからか、思ったよりも覚えていました。むしろ、パスのポイントなどは、視野が広がって上手くなったような気さえします。これは、中学の時からだいぶ大人になって、前のめりになりすぎずに場を俯瞰できるようになったことも関係しているのかもしれません。ただ、さすがにすぐに疲れます。はぁはぁ。汗をかいて、膝に手を置いて中腰の姿勢でいると、また違った記憶が蘇りました。そういえば、僕は高校2年くらいまではなかなかの肥満体型だったのです。その事実を忘れていたわけではないのですが、何というか、体感として思い出したというのがしっくりきます。当時のように運動し、当時のように疲れてみたところ、当時の記憶が体感として戻ってきたのだと思います。これも、自分の中に「ない」ようで「ある」形で埋まっていたものです。

 中学でバスケットボールに懸命に取り組んでいた頃は少し痩せました。でも、引退してからも菓子を食べ続けていたからか体型は戻り、高校入学時には柔道部と相撲部にしか勧誘されませんでした。それでヤケになってラクロス部に入部したのです。さらに記憶を遡ります。小学生。

 小学校時代、あだ名がいくつかありましたが、印象的なものが2つ。1つは、「いいじゃんべつに人間」。どうやら、集団同士で意見が対立している時や、集団で個人を批判、つまりいじめのような形の時に、恐らく分断が嫌だという理由ですぐに「いいじゃんべつに」と言っていたようで、それがそのままあだ名になりました。もう1つはもっとシンプル。それは肥満を表すカタカナ2文字です。ある日僕は、体型を理由に、友人から相撲部屋の体験教室に誘われました。そこで僕だけ「筋がいい!」と褒められたのです。まるで、何かのオーディションに付き合いで参加したら自分だけ合格するみたいに。それで気を良くして、週末は少年野球を休み相撲部屋に通いました。結局短期間で飽きてしまい、また野球に戻りましたが、その時はとても楽しかったのを覚えています。数ヶ月ではありますが、間違いなく、わんぱく相撲を夢みていました。相撲に熱中するあまり、自宅でもまわしを着用して常に半裸で過ごしていたこともありました。4人家族の食卓で、一人だけ半裸のふくよかな小学生が「いただきます」と言っている光景はさぞ非日常的だったと思います。

 こういった記憶の体感が戻って以来、頻繁に考えます。そうだ、自分は肥満体型だったんだ。肥満というのは、脂肪細胞の肥大と増殖によって成立します。今現在、僕の体型は、まるで引き締まってはいませんが、恐らく健康を明確に害するほどの肥満ではありません。でも小学校の体型のまま大人になったと想像するとかなり危険。これは、小学校の時にはすでに脂肪細胞は増殖し、それが肥大していたということを意味します。脂肪細胞1つ1つの肥大は、改善することはありますが、一度増殖した脂肪細胞の数は減らせないと言われています。つまり、油断をすると増殖した脂肪細胞が肥大していく・・・。自分の中にある、「ない」ようで「ある」思いもよらなかった健康の不安。なんだか、肥満細胞が増殖したままで体内に「ある」とか、具体的なイメージをするととても恐ろしい気がしてきます。これはきっと、なかなかかなわない不摂生の打開への大きな一歩になるのではないでしょうか。もっと言うと、酒量を抑えるのに一役買うことになると予想しています。本当に恐怖を感じたら、僕のような怠け者でも行動に移すはずだと思うのです。そもそも、特に酒乱なエピソードはなく、社会生活に大きく支障をきたしているわけではないとはいえ、酒豪というほど酒に強くはありません。酒量を減らしたいけど、酒の文化や発酵の話が面白すぎてなかなか減らせないのが悩みでした。まさか、バスケとわんぱく相撲が円環的に作用して、ダイエットや減酒を志すことになるとは考えもしませんでした。

 もうすぐバスケットボールのワールドカップが始まります。日本代表も期待大。飲みすぎないで応援して、翌日の仕事終わりには、病院の体育館でシュート練でもしたいと思います。頑張れ、AKATSUKI FIVE(バスケットボール日本代表のこと)!!  抑えろ、自分の飲酒欲求!!

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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