「ない」ようで「ある」

第13回

人間はみんな違って面倒くさい!・・・からこそ最高にドラマティック

2019.12.25更新

やるせないなぁ

 先日、以前非常勤で勤務していた知的障害を抱える人たちの支援施設で一緒に仕事をしていた看護師さんから久しぶりに連絡がありました。その施設は、3年前に大きな事件があった施設です。事件に関しては別の場所で自分が思ったことを書いているので、ここでは詳しく書きません。当時、僕は報道に違和感を感じていました。様々なメディアで、事件がなぜ起きたのか、加害者はどんな人だったのか、優生思想とはどういうものなのか、などが議論され、今でもその流れは残っています。これらの議論は、もちろん大切なことで、問題意識を抱える人ほど、人間や社会のやるせない部分に真摯に向き合っているように思うし、自分もその一人でありたいと思っています。では僕が感じた違和感はどういうものだったのか。それは、気がついたら現場が置いてけぼりになっている感じがしたということでした。
 あの悲惨な現場では、残された利用者さんをこれまでとなるべく変わらず支援し、具合が悪い人や怪我した人と一緒に病院に行ったりもする一方で、事件の影響で居場所を失った人たちの居場所を探すなどこれまでおこなっていなかった業務も積み重なっていました。現場で動ける人数は増えていないので、当然限界がきます。でも本当に、なんとか冷静さを保ちながら、誰かがそれをやらねばなりません。それをしていたのが、福祉の職員さんや数名の看護師さんたちです。その壮絶な現場は、恐らくほとんど報道されていません。もちろん、簡単には取材できないし、すべきではない側面もあると思うので、それが報道されなかったことを批判したいというわけではありません。ただ、事件への世間の問題意識が大きくなればなるほど、事件の原因や思想がクローズアップされ、その反作用として、クローズアップされない現場で奮闘する人たちが、相対的に、社会的に、置いてけぼりになっているような感覚を覚えたのです。

 もしかしたら全ての職種でそうかもしれませんが、少なくとも僕が知っている対人支援の現場は、理念に比べてずっと泥臭く、突き詰めると全てのケースにおいてマニュアル化なんてできません。人間はみんな違うので、それぞれに細かく合わせていかないと充実した関わりはできません。しかも、経済的にも技術的にも物理的にも、こんなことが出来たら良いということが全て行えるわけではなく、限られた資源の中でやり方を工夫していく必要があります。ただこれは、限られた資源しかない故に、独特の創造性が発揮されるという側面もあり、主婦料理とか、ブリコラージュとかを連想させます。つまり、それぞれの現場で、「ない」ようで「ある」工夫や取り組みがきっとあって、それらは皆、小さな発明のようなものではないかと思います。

 それにしたって現場は本当に大変です。相手の人に悪気がない場合が多いとはいえ、グサッとくる言葉を言われたり、約束したことを反故にされた気分になったり、時には暴力の対象になったりもします。それでも関わりを続けるのは、その人のことをなるべく分かろうとすればこそで、頭をひねって実験的に色々な言葉がけや関わり方を試すうちに、こうすれば少し穏やかな雰囲気になるのかもしれないという発見をする時が時々あります。その時に感じられる、貴重な嬉しさたるや、たまりません。ただ、割合としては、うまくいかないことに打ちひしがれている方が多く、先ほども書いたように、その取り組みはほとんど誰にも知られない「ない」ようで「ある」ものです。だから、人知れず落ち込んだり、時々喜びを感じてもなかなかそれを誰かと共有することができないのは日常茶飯事のような気がします。
 「人知れず」という雰囲気は、孤独感につながるので、辛くても時々嬉しくても、じわじわ重みとか虚しさのようなものを抱えている気分になることがあります。3年前の事件の報道で、構造的に仕方ないとはいえ、現場で限界を超えて関わりを続けている人たちが置いてけぼり感を感じてしまっていたとしたら、「自分たちはこんなに頑張っているのに、それが世間では「ない」ことになっている」という孤独や絶望の気分を強くするかもしれない、というのが当時僕の懸念していたことでした。
 久々に頂いた連絡をきっかけに、その看護師さんと会って話をしたところ、やはりそのような現象は生じていました。しかも、施設は一時的に場所を移すなど、事件はまだ全然収束していません。僕は施設内の人間ではないので、詳しく言えるほど多くの情報はありませんが、現場で試行錯誤する人たちの置いてけぼり感は間違いなく色々な姿で続いていて、その看護師さんは「長いトンネルに入ったまま出られないみたいです」と言いながら、気丈に笑っていました。

 やるせないなぁ。そんな気持ちがとても強くなった後、現在非常勤で勤務している福祉施設にいつも通り行きました。その施設では、就労継続支援の作業の一環で、利用者さんが体に優しい料理を作っているので、お昼はそれを頂きます。その時に一緒になった施設の理事長に、先ほどまで書いていた看護師さんとの一連のやりとりのことや、福祉における、日々の「ない」ようで「ある」取り組みのことを話したところ、やはりその施設にもそういった取り組みは溢れているとのことでした。
 例えば、受けた頭突きによって流血したとか、人差し指と中指の二本でチョップするようになんでも叩く人の鍛えられたそのチョップを食らい骨折したとか、なぜだかとても嫌われてしまって悪口をあることないこと言いふらされてしまったとか、それだけ聞くと大変すぎる内容ばかり。でも、それらを経て、関わり方をそれぞれの利用者さんとともに考えて発明していって、皆さんなんとか関われているということでした。そういう話を聞くと、試行錯誤しているのは自分だけではないんだなと勇気づけられます。
 また、理事長は、「ない」ようで「ある」その取り組みを、「ある」ものにするアイディアを考案されていました。それは「エピソード大賞」というイベントで、それぞれが経験した利用者さんとのエピソードを発表し合う会です。発表するということは仲間とそれを共有することになるので、現場で大変なことがあったとしても、これはエピソード大賞に発表できるかもしれない、と一つのモチベーションになりえます。ちなみに理事長のエピソードは、「浅い川に入ってしまった人を助けに行ったら、思いっきりしがみつかれて、浅いのに溺れるかもしれないとジタバタしてしまった」というものでした。大賞をとった男性職員さんのエピソードは、「相手の髪の毛を引っ張る癖のある人に引っ張られて、額とつむじの間くらいの部分の髪の毛がごっそり抜けてしまった。その時は必死だったので、まぁ仕方ないと思えたが、たまたまその日は実家に帰る日で、電車の窓に映る滑稽な姿の自分を見て悲しくなって少し泣いた」というものでした。さすが大賞だけに、エピソードがユーモアで包まれています。少し泣いた・・・。

M-1グランプリ

 僕はこの、普段の大変なエピソードを自分の自慢のエピソードに変換できうる「エピソード大賞」の話を聞いて、物事の捉え方の目線を変えられるということは、素敵なことだと改めて思いました。そんな気持ちで観た先日のM-1グランプリ。「ぺこぱ」というコンビの漫才がまさにそんなネタでした。なんとなく文句を言ってしまいそうな状況をつくり続ける相方に、やたらとナルシシストな雰囲気の人が、文句を優しい言葉に変換して突っ込み続けます。あんまりネタの内容を書くのも失礼なので控えますが一つだけ。例えばはじめの自己紹介でナルシシストな人の前に立って「よろしくお願いします」と言う相方に向かって、「いや、かぶってる!・・・なら俺がよければいい」とナルシシストでキザな雰囲気を思いっきり出しつつ横によける。今までお笑いをみてきた経験からすると、「かぶってる!」と言って突っ込んだり、突き飛ばしたりするのがセオリーだと思いますが、優しく横によけるナルシシスト。とても面白かったし、なんて平和な世界観なんだろうと思えて、笑いながら感動して、少し泣きました。

「診断」至上主義への違和感と当事者研究と漢方

 「エピソード大賞」で連想したことがもう一つあります。エピソード大賞で発表されることは、エピソードとして発表されることがなければ、ひとまとめに「支援」と言えます。もう少し細かく分類するとしても「衝動性に対する関わり」とか「突発的に暴力をしてしまう人との関わり」という程度で、それぞれのエピソードの細部は見えてきません。これは、医療における「診断」と似ているような気がします。診断することは治療方針を考える上でもちろん大切です。ただ一方で、診断とはその人に、あるカテゴリーのラベルを貼るということとも言えます。先ほどの例で言えば、大賞を取った人のユーモア溢れるエピソードを、「突発的に暴力をしてしまう人との関わり」というような形でくくることと近いです。つまり、ある人のエピソードをあるカテゴリーのラベルを貼って捉えるということは、ある程度その人を表しているとも言えますが、人それぞれが必ず持っている、その人の独特な良さとか、特性とか、弱さとかは、本当は「ある」のに、「ない」ものとしていることになりかねません。だから、少なくとも精神医療においては、診断することが最上級に重要なこととは僕は思いません。診断名のラベルを貼ると、なんとなくその人のことが分かったような気になるというのはどちらかというと落とし穴です。それよりも、その人が何で困っているとか、その人の良さはこういうところにある、というところまで解像度を高めることを忘れずに関わるということが大切だと考えています。

 これは、その人のことを「研究」するという気持ちで、本人や支援者が関わって、その人ならではの、学術的には聞いたこともない診断を考えてみるという「当事者研究」の取り組みと重なります。例えば僕であれば、「文章がまどろっこしくて、話が飛びがち症候群」のような感じになるでしょうか。その対策が分からないから少しずつでもどうにかしていきたいなぁと日々考えているのですが、なかなかうまくいきません。さらなる研究が必要です。
 それから、漢方医学で言えば、診断する時にはその人の「証」を考えます。これは、決まった診断名を当てはめるのではなく、漢方医学の考え方に基づいてその人の状態を考えるならこういう状態だ、という表現です。これも、それぞれの人を知ろうとすることと重なります。

みんなちがって、みんないい?

 人間はみんな違います。「みんなちがって、みんないい」という言葉があるくらい。でも、僕はこの言葉には少し違和感を感じていて、ただただ、「みんなちがう」という方が、僕にはしっくりきます。誰にでも、「ない」ようで「ある」、その人ならではの部分が、もしかしたら無尽蔵にあるのだと思うのですが、それがいいか悪いかはまた別の話で、簡単には決められない気がするし、決める必要もないように思えます。なんだか「みんないい」と無理矢理まとめよう、調和を取ろうとしているように感じられて、現実との違和感を感じているのかもしれません。

 人間は複雑で、多面的で、移り気で、安定しません。人づきあいは大変なことの連続とも思えます。でも、ふと感じられるその人の魅力を見つけた時のなんとも言えない嬉しさは、替えのきかない喜びです。「人間はみんな違って面倒くさい!・・・からこそ最高にドラマティック」と、キザに僕は言い換えたいです。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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