第15回
加圧もプラセボも信仰も、そして発酵も、
2020.02.28更新
これまで加圧トレーニングというものには全く興味がなかったのですが、先日知人が1週間のto doに加圧トレーニングを入れていることを知りました。彼は、オシャレと文化だけで体も魂も構成されているような人で、一緒にカードゲームをやっていた時にその話を聞いたのです。とても細い人なので、トレーニングをしていると聞いて驚きました。一方僕といえば、全く気にしていなかったのですが、10年くらいかけてかなり太ったようです。今勤務している大学病院は研修医の時に働いていたところなのですが、先日、その時に一緒に働いていたけど今はいない看護師さんが外来の休憩室に久々に遊びに来ていました。僕は外来中で席を外せる時間はほとんどなかったのですが、挨拶だけでもしようと休憩室に行って「久しぶり」と声をかけました。その時、その看護師さんは、元同僚たちと思い出話や近況報告で盛り上がっていたからかもしれませんが、一瞬だけ僕を見て「あれ、なんかすごく太ったね!」と元気に言って、また会話に戻っていきました。「ガーン!」という、音として存在しないのに漫画などでよく出てくる、「ない」ようで「ある」感覚は、まさにこういう時に使うのでしょう。久々に会ったのにそれだけ? という「ガーン!」ではありません。え、そんなに太ったなんて知らなかった・・・、の「ガーン!」です。その日はその「ガーン」を引きずってしまい、少し歯切れが悪い診療になったような気がします。
僕は小〜高校生の時まで誰から見ても太っていました。いくつかあったあだ名の1つは、思いっきりそれに起因する直接的なあだ名だったし、体験稽古に行った相撲部屋で、真面目に通ってみないかと誘いを受けたこともありました。思春期を過ぎる頃から、自分の体型が、親友で学年イチ人気のあった奴とは明らかに違うことに気づき徐々に辛い気持ちが生まれていきました。でも、大学に入って1人で生活するようになると、金もないしまだ健康に気を遣う年齢でもなかったので、恐らく食事量が減って知らない間に少しずつ痩せました。いつしか、太っているという自己像は薄れていったのです。しかし恐らく、かつて抱えていた体型に関する劣等感はトラウマとして僕の中に冷凍保存されるように存在していたのでしょう。看護師さんの言葉を聞いてから、そのモヤモヤがフラッシュバックして、心のどこかに重たさをもたらすようになりました。
これはもう、何か対策をするしかない。でも、飲食することが大好きになってしまった今、無理矢理食事を我慢することはなるべくしたくありません。ダイエットのアプリなどを調べているうちに、食べたものを記録していると食べる量が少しずつ調整されるという情報を得ました。とりあえずその「レコーディングダイエット」でもやってみようかな、と思っていた頃に、冒頭で書いた加圧トレーニングのことを聞いたのでした。それから加圧トレーニングに興味を持って色々と調べています。イマココです。そうです。つまりまだダイエットは始まっていないし、この先とり掛かるかどうか決意もしていません。でも調べていて加圧トレーニングのしくみはなんとなく分かりました。
加圧トレーニングのことを全く知らなかった僕は、加圧のことをなんらかのダンベル的な負荷というイメージで捉えていました。でも調べてみると、腕や脚の付け根に加圧ベルトを巻いて、流れる血流を減らす負荷だということが分かりました。筋肉に流れる血流が減れば、同じ運動をしても筋肉にとっては運ばれてくる酸素などが減っているので、より重労働になります。すると、激しく運動した時のような筋肉の疲れ方をするので、疲労物質の乳酸が発生します。そして、そこまで激しい運動はしていないにも関わらず、脳は「体さん、たくさん運動してすごく疲れているんだな」と認識します。脳は素直なのです。決して「こんなに乳酸が出てるけど、加圧をしているだけで、意外と運動量は少ないんちゃう?」とか疑ったりしません。その結果、成長ホルモンが大量に分泌され、少ない運動で脂肪を分解したり筋肉を形成したりすることができるそうです。
トレーニングの実際の辛さや危険性など詳しいことはまだ分かりませんが、この現象自体は面白いと思いました。「ある一定の運動→一定の筋肥大」という当たり前の図式を、加圧することによって「ある一定の運動→脳の勘違い→一定以上の筋肥大」に変えているということです。このように、脳が勘違いしたり、思い込むことによって、同じことをしているのにも関わらず生じる結果が異なるという形は、もしかしたら他にもあるかもしれません。それを考えたい。思考が回ってしまって、もうダイエットに勤しむ時間がありません。
例えば、僕が普段行っている診療で言えば、処方の差し出し方とかプラセボ効果とかがそうかもしれません。これまで何人かの尊敬する精神科医の診療を見学したことがあります。全ての先人に共通するわけではありませんが、ある先生の診療では処方だけをみると、ほとんどの人に似た処方をしていて、しかもとても少量で患者さんも調子良さそうにしているのを目にしたことがあります。医学的、特に西洋医学的に考えると、診断によって処方は異なるはずなのです。もちろん、診断を決めたらあとはガイドラインに従って一律の処方をすれば良いというわけではなく、1人1人の状態や人となりを考えて処方を決めるべきなので、診断が違っても処方は同じという場合も多々あります。ただ、それにしても大体みな同様の処方でしかも少量というのは見たことがなかったのです。見学するうちに、なぜそのようになるのか少しずつ理解できてきました。まず待合室がとても居心地良くダラダラでき、その上でその先生にマイクではなく直接声をかけられて診察室に入ります。診察室ではゆっくり話をして、その先生の優しさと経験豊かな雰囲気に包まれるようになります。つまり、はたから見ていると、クリニックに入ってきてから先生と話し終えるまでの流れや雰囲気が大切なことで、薬は添え物のような感じで存在しているのです。でも患者さんたちは「10年間どこで診てもらっても眠れなかったけど、先生のお薬飲んだら眠れたの。嘘みたい」など言います。特殊な薬でもなんでもないのに、です。これには恐らく、流れや雰囲気がうまく働いて、先生が処方する薬は効果があるに違いないという、科学的にはきっとまだ説明しきれない「ない」ようで「ある」変化が、脳や体で生じているのではないでしょうか。多くの患者さんに同じような現象が生じるのですから、たまたまではなく、こういった未知の何かが関係していると考えざるをえません。
これはいわゆるプラセボ効果の一種だと思います。一般的にプラセボ効果というのはあまり良くないイメージで捉えられているかもしれませんが、しっかりした量の薬を使わなくとも効果を実感できるなんて、体にとっては負担が少ないので嬉しいことのはずです。この見学以降、それまでよりさらに、診療でも雰囲気の大切さを意識するようになりました。先生のような診療は、僕がいつたどり着けるか分からない達人的な境地ですが、少しずつでもなるべく体にやさしい診療に近づいていければ良いと思っています。
科学的に未知なものが確かな助けになりうるという点では、信仰もあてはまるような気がします。僕は去年の今頃のこの連載でも書きましたが、新年にはやや遠くに参拝に行きます。元々、信心深さはまるでない人間だったはずなのですが、今や毎年決まった好きな宿に泊まり、いくつかの神社に参拝をしています。きっかけは、ある人に「あなたは猿田彦神社が合っていると思うから行ってみたらどう?」と言われたことでした。それまで、困った時以外に神社に行くようなことはしませんでした。「困った時の神頼み」のみ、都合よくしていたのです。でも、その人に言われるがままに行ってみることにして、行くからにはどんな神様なのか気になるので古事記の簡単なものを読み、河合隼雄やユングを想起したりなどしているうちに、信仰の起因となる非科学的なものを感じられるような気になってきました。それは恐らく、気とか神様などのような、はっきりと捉えることはでき切らない「ない」ようで「ある」ものです。
参拝に行ったり、厄払いをしたりなどの行いをしていると、なんとなくですが安心した気持ちになります。全てのことを神頼みに任せるつもりはないし、お参りしたからといって何もかもがうまく転がるとも思っていないのですが、自分の人生をここちよくしていくための、ほんの少しだけの味方を得たような気持ちになることは確かです。つまり、数ミリくらいだけれど、「〜〜をしたから大丈夫だろう」などの形で他力本願が許されるような気持ちになり、孤独な気分が少なくなるということです。これはきっと様々な場面で、意識できないほどではあるけど大切な柔らかさとか余裕をもたらしているような気がしています。僕のようにオーソドックスな参拝をする人も、独特なおまじないやルーティンを持つ人も意味合いは同じだと思います。今年行った神社の神主さんも「日本人は、神社でお参りをしながらお寺に行って念仏を唱えたりして無宗教だと言われます。でも、信仰心があるということ自体が大切なので決して無宗教ではないと思っています」と言っていました。これには強く同意したい気持ちになりました。
加圧もプラセボも信仰も、そして発酵も、「ない」ようで「ある」何かしらの現象が、我々を助けてくれているような気がしてきました。人というか、全ての生物は1人で生きていくには弱すぎるのだと思います。明確に頼れる人や場所、なんとなく心が落ち着く居場所、取り組み、などと同様に、目に見えず、科学で説明しきれないものにも支えられていると思うと、だいぶ嬉しい気持ちになります。