「ない」ようで「ある」

第20回

どうしても生じてしまう圧は、

2020.08.04更新

 先日、非常勤の勤務先である高齢者の入所施設に行った時のことです。ちょうど昼食が終わってしばらくの時間帯で、入所している皆さんはまだ自室には戻らず、広い食堂のような場所でゆったりと過ごしていました。僕は2週間に1度ここに行き、担当している人たちの様子をうかがったり、必要な場合は処方を考えたりもします。その日も、まずは看護師さんのいる詰所で皆さんの2週間の食事や睡眠の様子を聞いて予習をしてから、ご挨拶にうかがいました。看護師さんに導かれて最初に声をかけたのは、はじめて会う人でした。昼食後でうとうとしているその人に「こんにちは」と声をかけると、とてもびっくりされたようで、恐ろしいものに出会ったような反応をされました。驚かせてしまったことを謝って、話を聞きにきたことを説明しましたが、「白い服がこわい」と言います。なるほど、僕はその時白衣を着ていました。普段病院の外来で診療をする時は白衣を着ませんが、施設のきまりもあって白衣を着ていたのです。それでまた謝って、白衣を脱いで話をしたら、少しずつ許してくれて、最後の方には「さっきのご飯より好きなメニューがある」などのことを落ち着いた表情で話してくれました。

 この時も考えたことですが、精神科医としての仕事について考えれば考えるほど、ぶつかる壁があります。それは、自分が医師であるという事実が醸し出さざるをえない、「ない」ようで「ある」圧です。もう色々なタイミングで色々な場所で書いたり言ったりしているような気がしますが、僕は診療でも、診療外でも、人のことを分かり切ることは不可能だと考えています。人はみな違うので、自分ではない人のことを想像し切ることはきっと無理だと思うのです。仮に、向き合う人のことを分かり切れたと思うことがあったとしても、それはきっとまやかしで、まだ気づけていない部分があるに違いないと考えます。ここで大切なのは、分かり切ることはできないけれど、分かり切ることを目指して、分かろうとすることを諦めないことだと思っています。そのためには、目の前の人の話をよく聞いて、さらに言葉以外の身振りとか雰囲気などの要素が表現するものを感じることが必要です。そのようなことの障壁になるのが、聞いたり感じたりするこちらが知らぬ間に纏っているかもしれない圧です。何かしらの圧力を感じさせる相手に、心を開いて自分の内面を打ち明けるというのは、なかなか難しいというか、積極的にしたいことではないと思います。

 僕はかつて、美容院に行くのが少し怖かった時期がありました。今は慣れて居心地良い場所を見つけたので大丈夫なのですが、そこにたどり着くまでは、僕にとって美容院はオシャレ過ぎる人の巣窟で、とても親切なのに勝手に劣等感が生じてしまう場所でした。働いている人も、髪を切りに来ている人も、垢が抜け切っているように見え、ここでしか髪型などの相談はできないのに、なかなか本音の相談をしにくい雰囲気を感じていました。夏だしちょっとスッキリしたいですね、とか曖昧なことは言えるのですが、本当は加瀬亮みたいな髪型(当時)にしたいとか、眉毛が太すぎて困っているとか、悩みの核は全然言えませんでした。これは、当時僕が、美容院に流れる、「ない」ようで「ある」オシャレの圧を感じて窮屈になっていたから生じたことだと思います。美容院やそこで働く人たちが悪いことは全くないと思うのですが、オシャレに対して感度が普通程度の一般人が多く感じうる圧ではないでしょうか。慣れた場所を見つけてその圧が取れてからは、徐々に本音で相談できるようになり、相談の結果、気づいたら加瀬亮と逆方向の髪型になったような気がしますが、思いを伝えて話し合った結果なので不満は全くありません。この、僕が勝手に感じていたオシャレの圧と同じような形で、医療機関において、患者さんは医師に対して圧を感じてしばしば緊張するのではないかと思います。

 これにはきっと色々なことが関係しています。医師が「先生」と呼ばれ、目上でもなんでもないのに目上のような認識をされてきた長い歴史が、ほぼ常識的なものとして刷り込んだ圧もあるでしょう。さらに精神科医に関しては、精神医療の今も残る強制性や、精神科病院・施設などの場所が持つ収容所性が感じさせる恐怖感に基づく圧も間違いなくあります。これは、医療に当たる個人がいくら気をつけても、立場や肩書きによってどうしても生じるものです。

  この、精神医療においてどうしても生じてしまう、「ない」ようで「ある」圧を自分が与えてしまうと考えると、とても申し訳なく、やるせない気持ちになり、仕方がないことだとはなかなか割り切れません。なるべくどうにかしたいと考えて、診察室で白衣を着ないようにしたり、話す姿勢や声色を探求したりしています。でも、白衣を着ないならばどんな服装が最も適しているのかというのはまた難しいのです。思いっきりラフな感じにしたり、カッチリしたシャツを着たり、迷いに迷ってなぜか作務衣を着てみたりしたこともありました。でも、今の自分の診察室にピッタリくる服装がなかなか見つからず、数回前のこの連載で書いたヘビのスクラブに今は着地しています。冒頭に書いた「白い服がこわい」という言葉は、まさに白衣という医師の象徴のような格好が、この圧を与えてしまった結果だと思います。

 美容院からの連想で1つエピソードを思い出しました。先日、救命救急病棟に入院していた人と話した時のことです。その人は、急に辛い気持ちになって、焼酎をたくさん飲んで雨の日に川に入っていこうとして助けられた人でした。なかなか辛い気持ちが解消せず、近隣の精神科の病院に転院するという相談をしていたのですが、イライラ感がどうしてもあってなかなか冷静さを保っていられません。そうしながらも、身体的なケアのために看護師さんが処置をしたり、転院先の病院の説明をするソーシャルワーカーさんが来たりと色々な人がその人のところを出入りしていました。しばらくの間、僕は少し離れた場所で記録したり紹介状を書いたりしていましたが、看護師さんがやってきて、「天パの人を呼んでほしいと言われましたが先生のことですよね?」と言われました。看護師さんによると、そう言われて「先生ですか?」と聞き返したところ「医者じゃないと思うけど天パの人と一番話せたから呼んでほしい」と言われたので確認しに来てくれたということでした。僕はその時は診察室ではなかったこともあり、白衣を着ていたのですが、それにもかかわらず、医者ではない結構話しやすい天パの人、と認識されたことに嬉しさを感じました。それでまた話をしに行って、これは天パではなく人工だ、ということを念のため説明しましたが、それにはあまり関心を示してくれませんでした。それよりも、家族と関係があまり良くないので、転院先まで一緒に来てほしいと言われました。家族も来ていたので簡単には決められませんでしたが、話し合った結果、転院先まで同行し、色々な話をしてくれました。僕が、美容院の圧から解放されて美容師さんと話した結果かけ始めたパーマが、自分ができれば少しでも克服したいと考えている圧を外してくれるような働きをするなんて考えてもいませんでした。物事はなんと円環的なことでしょうか。「ない」ようで「ある」繋がりで世の中は回るなぁと、改めて思いました。

 この圧に関することで、僕が心に留めている言葉があります。このことは、自分で定期的に更新しているnoteにも書いたことですが、それは、今年上映された想田和弘監督の映画『精神0』でも焦点が当てられた精神科医、山本昌知先生が提唱された「負ける精神医療」というものです。

『患者本人に対して我々医療者は勝ち過ぎてきた、我々の価値観、要求、専門的な考え方も全て押しつけて勝ちに勝ってやってきた、でも、勝とうという人ばかりに囲まれていたら、我々が関わる当事者は伸び切らないのではないか、「負けてくれる可能性がある」という状況の中で、初めて安心や安全感が増して元気も出てくるのではないか』(2010年の論文、岡山の精神保健医療はどう変化してきたか これまでとこれから.より)

という考え方が「負ける精神医療」です。

 これは、精神医療の1つの真髄なのではないかと思っています。僕は今、訪問診療という、患者さんの自宅まで行って診療をするということもしていますが、そこでもこの考え方は生きています。自宅というのは、その人にとって絶対的な安全地帯です。そこに、容易に圧を生じさせる医療者が出向いて行くわけなので、恐怖感を与えないことについて細心すぎるほどの注意が必要です。その時のキーワードが「負ける」ということなのだと思うのです。

 どうしても生じてしまう圧は、恐らく他にもたくさんあって、それらは日常生活に溶け込むようにして存在しているので、自分ではなかなか気づきにくい、「ない」ようで「ある」ものだと思います。自分が男性であるということも、その1つではないかと考えてみたり。

 これらをどうしたら良いのか、圧倒的な正解は見つけられませんが、感じ、考え続けることがきっと大切で、それによってその時その時、納得がいく振る舞いをどうにかして見つけていければいいなぁと、ふわふわ考えています。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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