第11回
お疲れサマーの夏休み
2021.08.23更新
我が家、ニシ家にやってきた三男に「のぞむ」と命名しました。全くの偶然ながら、我が家は「やすし」「きょう」ともに名前が一文字の夫婦なので、長男は「たすく」、次男は「さとる」と(漢字はいちおう個人情報として伏せますが)一文字の名前をつけてきました。こうなると3人目も一文字にするのがいいかなと思っていました。いっそのこと「なんとか左衛門」みたいな長い名前もいいかなと、チラッと思いもしましたが、大きくなってから拗ねても困るので、兄弟らしい名前に落ち着きました。コロナ禍に生まれてきたことも多少は意識のなかにあったのかもしれませんが、こんな時代に「のぞみ」がなくてどうする、と親の勝手な思いを託しました。
さて、三男のぞむを迎えた我が家、生活がどんなふうに変わったでしょうか。長男たすくはソフトにのぞむを見守り、次男さとるは「のぞむー! のんちゃーん!」と頭をグリグリなでて寝た子を起こし、妻から雷を落とされています。どちらも愛情をもって新しい家族を迎えているとは思いますが、のぞむの誕生を機に、それぞれが劇的に変化、あるいは成長したかというと、うーん、よくわかりません。毎日一緒にいるせいで変化に気づかないだけかもしれませんし、そもそも4歳や2歳のこどもが「俺も兄ちゃんだし、しっかりしないとな」なんて思うものではないのかもしれません。
妻は、前回も書いたように24時間、のぞむの授乳要求に応えねばならず、常に睡眠不足の状態に突入です。ただこれは長男、次男のときも同様でしたから想定されていたこととも言えます。もちろん、だから妻がしんどくないという意味では決してありませんし、多少は学習してもよさそうなのに(ホンマにアホやと思いますが)、寝不足ゆえの夫婦の感情的なぶつかりもときどき起こります。
そんななか始まった、夏休み。
夏休みですよ、夏休み。子どものころを思い出すと「いやっほーい! 夏休みだぁー!!」です。朝はゆっくり寝られるし、おばあちゃんちに行けるし、麦茶は飲み放題だし、絵を描く宿題と自由研究には追い詰められましたけど、それを差し引いても楽しさ全開です。私の小学生時代の母校ではプール開放日というのがあって、夏休みでもプールに入れて、授業ではないのでただただプールで遊べました。ダメだと言われているのにプールの底に沈んでいる塩素消毒用の錠剤でキャッチボールして監視の先生に怒鳴られたりしてました。まあ、それも含めて、楽しい思い出しかありません。
ところが、大人になってみると、子どものいる母親の多くが夏休みを迎えると深いため息をつき、「子どもがずっと家にいるなんて、ほんまにしんどい。ああ、しんどい」といいます。独身時代の私はそれを聞いて「なんて薄情なんだろう。自分の子どもと目一杯触れあえるのに」と思っていました。本当にそう思っていたんです。でも、今ならわかります。
いやぁ、これはなかなか大変!
まず、子どもはすぐに飽きます。お絵描きをしていても30分もしないうちに「もう描かなーい」とボール遊びを始めます。楽しそうにしているので、ボール遊びをするのならサッカーを教えてやろうと、こう蹴るんだよ、とかいうと、とたんに「もういい」などといって親の意図をあっさり裏切ります。しまった、もっと自由に遊ばせるべきだった。見透かされている、と感じます。
次に、逆説的に、子どもはなかなかやめてくれません。東京オリンピックの開催の是非はさておき、私が興味のある陸上競技や柔道をテレビで見ていると、当然、子どもたちも「これなに?」と言って見ます。特に長男はもうすぐ5歳という年齢もあるのか、初めて見るものには興味津々で、矢継ぎ早に質問してきます。柔道では相手を倒して背中が畳についたら勝ちなんだよ、とざっくり説明すると、そのあとは和室でひたすら背中を畳につける格闘を続けることになります。いいかげん飽きてくれないかなと思っても、そこは忖度してくれません。
7月下旬、好天が(つまり灼熱の日々ですが)続いた時期、長男は公園でのセミ捕りにハマりました。次男はセミを触ることができませんが、それでも網と虫かごをもって、いっちょ前についていきます。親のほうはカバンに水筒を入れて同行。来る日も来る日も、判で押したように公園に出掛け、セミを探し、そのくせけっこうビビりなので、簡単に捕まえられそうなセミほど「パパが捕まえて!」と網を押し付けてきて、背の届かないところのセミについても私に捕獲命令が下り、誰がセミを捕っているのかわからない日々を過ごしました。そのうち私も、木を見上げると自然にセミを探すようになり、捕獲率も格段に上がって、気がつけばもはやセミプロ(失礼)。お、最近少なくなったアブラゼミやないか! と捕獲して振り返ると、長男次男そろって泥遊びしてんのかーい! という、凝り性と飽き性のモザイク的な日々を過ごしたのでした。たまに会う幼稚園の同級生のお母さんとは「夏休み、長いですねぇ」と苦笑いしながら言葉を交わしました。
8月の半ばには、逆に季節外れの長雨がありました。各地の災害を思えば、生死にかかわらない家庭内の事情を申し上げるのは憚られますが、晴れの日がたいへんなら、雨の日もまあたいへん。それもコロナ禍で出かける場所も限定されるなか、プラレールのパーツはいくつあっても足りません。
そうなんです。思い出の中の夏休みと、親になってみての夏休みは、見える景色は同じでも、感じ方はずいぶん違います。いくら言ってもおもちゃを片付けない、いくら言ってもソファでジャンプを続ける、いくら言っても公園から帰らない。もう1時間もご飯を食べているのに、ずっとアンパンマンふりかけを選び続けている。コップにお茶を入れた瞬間に、やっぱり牛乳がいい、と言い放つ。「イラっとしたらあかん!」と自分にどれほど言い聞かせたか。でもね、イラっとするんです、人間やもん。
話が飛躍しているようですが、ニュースを扱う中でしばしば虐待について報道することがあります。個々の事情や環境があるので一括りにはできませんが、子どもを授かる前は「我が子に手を挙げるなんて信じられない」と憤っていました。そして、それはきっと親としての自覚のない、「未熟な親」なのだろうとも。
もちろんそうなんです。我が子に手を挙げることはあってはならないことです。ですが、先ほども書いたように、子育てのなかで、どうしたってフラストレーションがたまる瞬間はあります。これまで妻に「子どもに対して感情的にならないように」などと言っていた私ですが(それは今でも間違っていないとは思っていますが)、育休をとってみて、その姿勢を日常的に維持し続けることが、なんとベラボーに難しいことだろうと思い知りました。簡単に言っていたわけではありませんが、でも、その難しさへの理解が足りない「週末パパ」だったのだなぁと思います。
イライラ=虐待ではありません。でも、自分の子どもに対して一瞬でも負の感情を抱く瞬間、自分で自分の感情にドキッとします。え、俺、いま、自分の子どもにイライラした? と。「いい加減にしなさい!」という一言が、冷静なしつけの言葉として発せられるか、イライラの爆発で発せられるか、ということではあります。親としてはつねに前者を目指すわけですが、我々はAIではありません。常にぶれない基準で子どもに接するのは相当に難しいことなのだと、と楽園ベイベーな子ども時代の夏休み記憶と、この夏の親目線の夏休み体験の比較で痛感しました。そしてそれは、虐待に対しての理解がガラリと変わる経験でもありました。虐待は普通ではない特殊な出来事ではなく、我々の日常の延長線上にあるのだろうということ。そして虐待する親を「未熟な親」と断罪するなんて100年早くて、親なんてみんな未熟なんだろうと思うのです。
いやぁ、それにしても、ルーキーのぞむを抱えた夏休み、私が会社に勤務し、妻がその間、ひとりで3人の面倒をみるというのは、想像するだけでエライコッチャです。首の座らない新生児を抱っこして灼熱の公園での長男次男のセミ捕りに付き合うなんて、ちょっと不可能だと思います。少なくともこの夏休みに関しては、育休を取って本当に良かったと思うのですが、私が軽く小鼻をふくらませて「な、俺がいてよかっただろ? 助かっただろ?」などというオーラを出してはなりません。出てないよね? でも、ほんとうに、そういうところもふくめて未熟ってことなんだろうなぁ。