第12回
育休を取るって、すごい?
2021.08.28更新
ニシ家の夏休みが終わろうとしています。うちのマンションのすぐ近くに小さな公園があるのですが、夏休みの間、そこはセミ捕りの主戦場であり、泥遊びのステージであり、兄ちゃんが滑り台を頭から滑り、それを弟がマネしておでこに擦り傷をつくるという学習の場でした。先日、ざっくり広さを測ってみたら、大人の歩幅では東西に40歩、南北に至っては12歩でした。なんとも小さな公園ですが、子どもの記憶にはどんなふうに残るんでしょう。
そういえば、8月半ばの長雨を境に、セミはほとんど姿を消してしまいました。長男はクマゼミをわしづかみにできるように、次男もチョンチョンとセミの背中をつつけるようになり、かくいう私も、子どものセミ捕りに付き合い続け、ひとりで出歩くときも目が勝手に街路樹のセミを探すようになったというのに。
夏休みの間に、長男たすくは5歳の誕生日を迎えました。たすくが生まれたときには5歳の男の子というのがどんな感じなのか、なかなかリアルに想像できませんでしたが、ちょっと内弁慶ながら、優しく、朗らかでいい子に育っていると思います。家では「ウンチ! オシッコビーム! おなら攻撃!!」と叫んで廊下を走り抜けるのに、幼稚園の朝の挨拶はモジモジ。まあそんなもんですよね。2歳の次男までいっしょにウンチ、オシッコと叫んで走り回っているのは、間違いなく兄の影響です。なんちゅうこっちゃ。
ちなみにたすくは「5歳やからチョコレート食べれるもん」とバースデーケーキにはチョコレートケーキをリクエストしたのですが、本格的なチョコレートは5歳には苦かったようで、「食べれるけどな、食べれるけど、パパにあげる」と強がりながらほとんど残しました。もちろん、アンパンマンのペロペロチョコは大好きです。
少し遡って7月初旬に、私は50歳になりました。見識も足りず、精神的な成長も足りず、まさに馬齢を重ねた50年と情けなく思う一方で、椎間板ヘルニアによる神経痛で左脚は痛いし、白い髪の毛は生えてくるのに黒い髪の毛は生えてこないし、老眼鏡なしでは絵本の読み聞かせはできないありさまで、身体的にはしっかり50歳という年齢なりのパフォーマンスです。特に左脚の神経痛はなかなか重症で、育休中も、もうちょっと身体が動いたら、家事も育児ももっと楽しいのに、と悔しく思うこともままあります。まあ、でも、それが50歳ってことなのかもしれません。うぅ、頑張れ、俺。
50歳で3人目の息子を授かるというのは、なんというか、実に興味深い出来事です。妻は4人きょうだいで育ったこともあるのか、子どもは多いほうがいいという意見、私は自分の年齢もあって、まあ2人くらいがちょうどいいのでは、という意見だったので、自然にまかせるなかで、半ば計画的、半ばハプニングで授かったという感じです。性分として計画的であることを良しとしてきた私ですが、望外の喜びとして新たな命を授かったことで「ま、計画とかはどっちでもいいや」と吹っ切れた感じがありました。いいから楽しくやろう、みたいなモードに切り替わったといえばいいでしょうか。
とはいえ、定年を迎えるとき、三男のぞむはまだ10歳。ひー! まだまだ頑張れ、俺!
さて、年齢の近い3人ということとコロナ禍の出産ということで、育休を取る判断したことは以前にも書きました。そして、育休の取得について「よ! 育メン」なんて言われると、じつに居心地が悪いということも書きました。今回はその居心地の悪さについてもう少し。3人目だから、コロナ禍でサポートを受けにくいから今回は育休を取ったんだと説明はするものの、微妙に語り尽くせていない感じがしていたのです。
長男たすくが生まれたときも、次男さとるが生まれたときも、育休は取得しませんでした。じつは、脳裏をかすめもしませんでした。精一杯、育児の「サポート」をしようとは思っていましたが、会社を休んで一緒に家事、育児に専念しようとは、本当に全く(!)考えなかったのです。
そう、昭和生まれの私の頭では、子どもが生まれたから会社を休むということを思いつかなかったのです。次男が生まれたあと、妻が身体的にも精神的にもかなり参っている時期があって、そのころにチラリと会社を休んで支えたほうがいいのではないかと思ったことはありましたが、それとて、今日、休んでいいですか? というレベルで、育休には程遠いし、結局はそんな1日2日の休みすら取りませんでした。妻も「会社を休むまでしなくていいから」と言っていましたが、今思えば、そうとう無理をしていたと思います。周りに子どもが生まれて育休を取っている男性がほとんどいなかったこともあるかもしれませんが、二人とも世間の「普通」を意識していたのだと思います。「普通」というのは目に見えないくせになかなか強固なものなんだと、だいたいは後になって気づきます。
次に、仕事のことです。長男や次男が生まれたころは、月曜日から金曜日までの、我々の業界で「帯(おび)番組」と呼ぶ番組を担当していました。情報番組の「ちちんぷいぷい」を担当した後、夕方の報道番組「VOICE」、「NEWSミント!」のキャスターとして、毎日テレビに出演する日々がかれこれ10年ほども続きましたが、三男のぞむが生まれる少し前の2021年の春に、力及ばず担当番組が終了。平日は毎日、テレビに出ている状況から、レギュラーは週に1回だけになりました。レギュラーのない日は、アナウンサーとしての基本的な業務や、単発で依頼される指名の仕事をやりながら、さあ、次はどんなことをやろうか、テレビ? ラジオ? イベント? という、言ってみればアイドリング状態です。これ、アイドリングとか捲土重来なんて目一杯ポジティブな表現で、50歳で帯のレギュラー番組がなくなるというのは、個人的には結構キツいことです。これからサラリーマンアナウンサーとして残り10年、どんなふうに過ごすのか、という重い課題を突き付けられている状況ではあります。
ただ、この状況は、育休を取るのに絶妙なのです。そうなんです。ものすごく雑に言ってしまうと、「仕事が暇になった。子どもが生まれた。ほな育休取れるやん」なのです。
自分の過去を振り返って、脳内でいろんなシミュレーションをしてみます。子どもを授かったのが20代だったら? これからバリバリやるで! というタイミングで仕事を長期間は休まなかったでしょう。30代だったら? 仕事がノッてきて指名の番組も増えているなかで、育休を取りますからその仕事はできません、と担当を断れるか? 断れない、いや断らない気がします。それどころか、三男が生まれるのが半年早かったら、帯番組を担当していた私は、育児休業は取らなかったかもしれません。
そして、これって今更ながらけっこう古臭い価値観です。「仕事が忙しかったら、中断したくなかったら、育休はとらない」という前提を当たり前みたいに思っている自分がいて、これを書きながら「え、俺、古っ!」とびっくりしています。もちろん、夫婦の合意の上で男性、あるいは女性のどちらかが仕事に専念するというライフスタイルを否定するわけではありません。ただただ、育休を取った自分がこんな価値観の持ち主だったのかと驚いているのです。
そんなわけで、育休とるなんてすごいですね、なんてお褒めいただくと、お尻あたりがこそばゆいのです。別に何かに風穴を開けたわけでもないし、そもそも会社勤務の女性は、選択しようにも否応なしに産休、育休をとるわけで、たまたま取りやすいタイミングで、しかも三男になって初めて育休をとったことを評価されると、いやいやいや、それは申し訳なさすぎ、なのです。
でもね。
幼稚園の夏休みに入った翌日の7月22日に今年初めてベランダのプールを膨らませました。いつも着替えにやたらと時間のかかる兄弟なのに、さっさと水着に着替えて、おでこにゴーグルのっけて、水鉄砲を持って、早く早くと急かしてきます。うちの長男次男でよくあることなのですが、親がやっていると、自分が膨らませたい! と空気入れの奪い合いが始まります。そのくせ空気入れを任せたら、2分もしないうちに飽きるのです。こらー、そんなことしてたらいつまでたってもプール膨らまへんぞー、とたしなめるのですが、こんなふうに喧嘩の仲裁をできるのも、ワクワクした顔を見られるのも、「ここにいる」からだよなぁ、と、ふと思うのです。育休で何ができるかということも大切ですけれど、「ここにいる」ことから受け取るものは小さくないと思います。
だから、風穴を開けようが、たまたま取りやすいタイミングだったから取ったのであろうが、育休の日々は、私にとっては最高の経験の連続です。子どもが生まれたすべての男性に(あと、若かりし日の自分にも)、「いいからちょっと休んでみなよ」と臆面もなく言えます。
もちろん、家にいるってことは職場にいないってことですから、仕事を休むことに不安はないのか、そらあるやろ、というような話題も、追い追い書いていきたいと思います。
さあ、育休も残り1カ月。そのあいだに、私は何を受け取るんでしょう。ワクワクします!