おせっかい宣言おせっかい宣言

第62回

かわいやのー

2019.09.15更新

 友人が緊急入院していた。幸い一命は取り留め、順調に回復に向かっているものの、いっときは、大変重篤な症状であった。60を過ぎると親しくしている人たちの病気、友人の訃報は、日常的に起こる出来事となる。そういう非日常がおこったからといって、すぐにかけつけるのは、基本的に家族の役割なのであって、友人、というのは、いかに親しい友人でも一歩二歩遅れるのであって、かけつけるようなきっかけも、こちら側の都合のつけ方も、うまくゆかない。なんだか片付かない気持ちがしたとしても、そういうことに慣れてゆき、そんな出来事がかさなってゆき、歳を重ね、長生きするということは、共に生きた人がひとりずついなくなる寂しさに耐えることだ、と理解するようになるのだ。いま、ここに共に過ごす時間の美しさと奇跡を、たった今こそ愛でていたい、あとは、ない、ということの実態がみえてくる。ほんとうは、いつだって、そうだったのだ、おそらく。そうじゃない、と信じたかっただけで。

 大切な友人を病院に見舞う時の、早く見舞いたかったのに、なかなか行けなくて、やっと会えた時の、適切な言葉ってなんだっけ。なんだか見つからない。大変だったね、苦しかったね、会えてよかった。元気になってね。どれも気持ちにぴったりとは、あわない。苦しい思いをしている人にふれて、どういう言葉が言いたいのか、わたしは。なんだかもやもやとして言葉が見つからないままに、でも、生きている友人に会えて、すこしほっとして病院を離れた。

 「かわいやのー」。伊豆諸島神津島では、しばらく会わなかった人に会ったとき、「かわいやのー」というのだそうだ。もと役所に勤めておられて、退職後は神津島天上山のガイドをしたりなさっていて、神津島にやってくるあまたの研究者のわらじ親をなさっている前田正代さんが、金田一春彦氏のコラムをみせてくださった。いまではほとんど使われていないというが、「かわいやのー」はよく使われていた神津島方言であったという。

 島、というのは、まあ、日本全体が島でもあるわけだが、海を越えないと島には渡れない。海を越えないと渡れない、ということは天気が悪いといけないし、船がないといけないし、飛行機がないといけないし、自分の足でひたすら歩いてはいけない、ということなのである。大陸に育った人たちは、感覚としてきっとちがうんだろうな、自分の足で歩いていけるところがずっとずっとどこまでも続いている、ってどういう感じなんだろう。もちろん山があって砂漠があって、国境があるが、そこに海はない。でも大陸だって終わりがある。どの大きさだと島で、どの大きさだと大陸か、なんて、地図があるから考えることなのであって、そこで生まれて育ったら、自分の足で行けない先にもまだ土地がある、って思うと、それはその人にとっては大陸みたいなものなのだろうか、と、つらつらおもってしまうけれど、とにかく、島、というのは海を越えないと行けないのだ。

 伊豆諸島は東京のすぐそばにある。南西諸島とかと比べるとずっと近いわけだし、同じ東京都内でも小笠原などとくらべても、とりわけ伊豆諸島北部の伊豆大島や神津島は距離からすれば近いのである。神津島に行こうとした時も、調布空港から30分ほどで行ける、と聞いて、近いな、と思った覚えがあるが、ところがどっこい。飛行機は19人乗りであり、1ヶ月前にコンサートのチケット予約のような気合いを持って航空会社に予約の電話を入れて取るようなプラチナ・チケットである上に、当日、ちょっと霧がでると飛行機が飛ばない。便がキャンセルになっても、翌日の便は、次の予約でうまっているから、そんなに簡単に席を確保できない。6月に神津島行きを予定して、実際に行けたのは9月であった。近くて遠い、神津島。

 そんな神津島に渡って、前田さんがすぐに見せてくださった資料が、「かわいやのー 」のコラムだった。故金田一春彦氏が個人的に前田さんにコピーを送られたものだそうで、出典が書かれておらず、前田さんご本人も、出典をさがされたそうだが、わからなかったようだ。金田一春彦氏が、神津島に船でわたったとき、港で、長い間島に帰っていなかったという老齢の女性が、島の女性と抱き合って、「かわいやのー、かわいやのー」と言っておられたところに遭遇した、そこで、方言の豊かさについて考えた、という、各地の方言を研究なさってきた言語学者金田一らしいコラムである。

 ああ、これじゃなかったかしら、かわいやのー。わたしが、言いたかったのは。病院で入院してとても心配した友人に、あの時言いたかった、ぴったりした言葉は。いとおしくて、なつかしくて、うれしくて、また会えたことに感謝するばかりで。わたしは神津島方言を使える人間ではないのに、あのときいいたかったのは、かわいやのー、だったな、と言葉を与えられたように思った。

 若い友人に、伊豆諸島南部の青ヶ島で研究をしていた人がいて、彼女から、青ヶ島では、誰かと別れる時に「さようなら」とはいわずに「思うわよう」というのだ、と聞いていたことも思い出す。あなたのことを、会えなくなっても「思うわよう」とは、なんと深い情に満ちた言葉なのであろう。またね、でも、さよなら、でも、じゃあね、でもなく、思うわよう、と行って愛おしい人たちと別れたい、と、言葉が与えられた、と感じる。

 方言や異なる言葉には、たしかに、その言葉でしかあらわせないような感情があって、その言葉を知ることによって、その感情が豊かに受け止められていく感じがあって、みずからの母語を繰るだけでは尽くしきれない思いが表現されることになんとも言えない喜びを感じる。そして、そのことばによって表現された感情の部分は、表現されたことによって、さらに深い感情になるような気がする。

 ポルトガル語のサウダージ、は有名な言葉、そして、他の言葉では表現できない感情なのである、とポルトガル語スピーカーがみな、そうおっしゃる。サウダージとは、以前に会ったことがある人、以前に親密な時間をつむいだことがある人と、いま、会うことができなくて、その人のことを恋しく、なつかしく思う気持ちのことである。あの時は一緒にいられたけれど、今は会えない。あのときはあんなに親しくしていたけれど、もう、死んでしまったので会えない。でもその人のことをなつかしく、愛おしく思い出す。その感情をサウダージ、という。そして、素晴らしい出会いは、出会っている時もうれしいけれど、出会えなくなってからも、サウダージ、という美しい感情を引き起こしてくれるから、それもまたすばらしいことなのだ、というニュアンスが込められている。出会いは、出会ったこともうれしいが、出会えなくなっても、サウダージだから、うれしい、のである。ポルトガル語話者と別れる時、わたしはあなたをサウダージするよ、と、言われる。これは「思うわよう」にとても近い。 

 ブラジルに10年住んだ私は、多くの人にサウダージするよ、といってもらい、私もサウダージするね、と言って別れてきて、ブラジルを離れて20年経ったいまも、サウダージだね、といって時折連絡を取るのである。確かにこの言葉を別の言葉に言い換えられない。言い換えられないけれど、サウダージという言葉を知って、豊かにたがやされていったのは、わたしのサウダージに関わる感情である。行き来のむずかしい島の人同士の「かわいやのー」という言葉は、友人を見舞う感情を上手に着地させてくれて、さらにその感情を深くしてくれたのだ、と思う。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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