おせっかい宣言おせっかい宣言

第65回

更年期 

2019.12.20更新

 若い友人が「卒乳しました」という。卒乳、とは、母乳哺育していた赤ちゃんにおっぱいをあげるのを、やめました、ということである。一歳半ばくらいまでおっぱいをあげていたが、仕事で出張があるのを機に、やめたのだ、という。子どもはもっと泣いたりするかと思ったけれど、わりとあっさり受け入れて、そこは、安心したけれども、ちょっとさびしいですね、という。

 さびしいだろうな。わたしが末の子どもの母乳哺育を終えたのは、もう四半世紀以上前のことだ。あんな小さくて可愛い天使みたいな赤ちゃんが、いま、目の前にいる27歳の男になった、というのは、どう考えても人生で起こった奇跡のうちの筆頭事項である、以外に何もいうことがない。母乳を赤ん坊にあげていた時の記憶もまた、今までの人生で最も甘やかで幸せな記憶であった。生まれて半年までは母乳以外なにも赤ちゃんにはあげる必要がない、という国際的な常識を率先して実践していたブラジルやイギリスで赤ちゃんを産んだので、とにかく、母乳で育てられるように、というアドバイスは、いろいろもらって、二人の息子たちそれぞれ、六ヶ月は母乳だけで育てた。そのあとはおっぱいは飲みながら少しずつ他の食べ物をたべるようになり、一歳過ぎで「卒乳」した。

 女子大生に母乳の話をしていて、牛乳が冷蔵庫にあるように、母乳が乳房に保存されている、というイメージを持っておられることに気づいた。そうではありません。母乳というのは授乳している乳房の中に溜まっているのではない。自分の赤ちゃんがおなかがすいて、ちょっと泣いたり、おっぱいを欲しそうにしたりすると、授乳している母親の乳房の中で母乳がその場で製造されるのである。いわば、製造直売、といおうか、作ってすぐ飲んでもらっていると言おうか・・・。思えば、あたりまえなのであって、乳房に母乳がたまったままだと、乳腺炎などになってしまうから、乳房はいつもカラの状態で、赤ちゃんがおっぱいが欲しいときだけおっぱいを作るのだ。おっぱいが作られると、俗にいう、「胸が張る」状態になる。張りすぎると、ちょっと痛いこともあるけれど、基本的には、赤ちゃんの鳴き声に反応しておこる、このぎゅっと胸が張る感じは、結構忘れがたい、いい感じ、なのである。

 そして、赤ちゃんに上手におっぱいを飲んでもらうと、張ったおっぱいが楽になり、おっぱいが出ていることも、すっきりして気持ちが良い。右のおっぱいから授乳していると、左の胸からおっぱいがピューピュー出てくるのでタオルで押さえておく、などということは授乳経験がある人には日常のことだが、したことない人には、何のことかわからないかもしれないけれど、まあ、そういうことなのである。この、「胸が張る」―>「おっぱいが出る」という、つまりは射乳のプロセスというのは、生理学的には勃起と射精のプロセスと同じ、といわれているので、おっぱいをあげたことのない人にも、若干の想像はしてもらえるかもしれない。

 そうはいっても、胸が張り、赤ちゃんにおっぱいを飲んでもらう、というプロセスの気持ちよさというか、感じの良さは、いわゆる性的な快感とは、一線を画する。・・・というか、性的なこととは、方向性と次元の違う、おちついた、穏やかな経験である。夜中に自分と赤ん坊だけが目覚めていて、見つめ合いながらおっぱいをあげていると、もう、世界に、この子と自分だけしかいらない、もう、世界はこれで完結している、みたいな至福につつまれる。そういう気持ちになれるから、人類ってここまで続いて来たんじゃないのか・・・みたいな気持ちにも、なる。そういうことの繰り返しだったから、母乳哺育は人生で最も楽しかった経験の一つだった、と思い起こすことができるのである。

 いかなる意味でもあのころは、自分のからだは、自分のためだけのものではなかった。私のからだは赤ん坊に食べ物を提供するためのからだでもあったのだから。わたしのからだは文字通り、次世代のためにエネルギーを使っているからだであったのだ。齢六十を過ぎて、生殖期、つまりは、リプロダクテイブ・フェーズは、遠い昔になってきた。授乳の記憶どころか、月経の記憶も遠くなってきて、昔々あるところに、月経というものがございましたね、みたいな感じの、このごろ、である。

 月経がある頃は、妊娠する可能性がある、ということだから、それなりの心配も期待もあったが、基本的に、良きものであった。毎月、月経がある、ということは、その月をどのように過ごしたか、ということのバロメーターのようなところがあって、心身ともにいい感じで過ごせた時は、月経もなんとなく楽だったし、結構厳しい月は、月経も乱れたりした。それなりに良きものであったのだが、やはり月経、というのは、自分のためではなくて、次世代のためのからだの仕組みであることにまちがいはない。毎月毎月、精子と会うことを夢見る(であろう)卵子を排卵し、毎月毎月、受精卵をふんわりと着床させることを願って(いるであろう)子宮内膜を準備し、ほとんどの月は、精子と出会うことも受精卵を着床させることもなく、子宮内膜は剥がれ落ちて月経となる。嗚呼・・・。要するに毎月、毎月、わたしのからだは次世代のために準備されては、その綿密な準備は不要、という状態を続けていたのである。ごくろうさまであった。

 更年期って大変です、つらいです、具合が悪いです、など、という言葉をいろいろ聞いておられると思う。もちろんそういう方もいらっしゃる。治療が必要な方ももちろんある。とはいえ、なんともなく過ごしている女性も、周囲にたくさんいるのだ。わたしも、更年期のつらさはぜんぜんなかった。すこやかに月経がおわり、つらいどころか、むしろ、晴れ晴れとした日々がやってきた。なんだか気分も軽いし、体調もよい。エネルギーに満ちているような気がする。これはおそらく、自分のからだを自分のためだけに使っていい、ということの晴れやかさなのであろう。今まで、来る月も来る月も、排卵して、月経があって、次世代のために使っていたエネルギーは、いまや、いらなくなったのである。晴れやかにならずして何になろう?わたしのからだはいまやわたしだけのものだ、ばんざーい、みたいな気分になってくる。

 性と生殖にかかわる体の変化や、起こってくることについて、次世代を怯えさせて何のいいこともない、と、常々思っていて、妊娠、出産、授乳、子育てなどに関して、「つらい」、「痛い」、「仕事の邪魔」・・・みたいな呪いの言葉を吐かないように、つとめてきた。更年期もおなじではないか、と思っている。そんな簡単なものであるはずないじゃないですか、と言われながらも、できるだけ呪いの言葉は吐かないで、「いやあ、晴れやかなものなんだから」と、能天気なことを言っていれば、次世代が恐れとともに更年期を迎えない助けになりうるんじゃないだろうか。医療サービスの十分に発達した日本、本当につらい人がいたら、相談を受けてくれるよい医師もいて、受診して治療してくれる病院もあるのだから、ここは、いやあ、ほとんどの人は何ともなくて元気に暮らせますよ、と言っておこうと思うのである。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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