第66回
親を許す
2020.01.23更新
親になるとは、許されることを学ぶことなのだ。自らの子どもに許されること。なぜなら、わたしたちは、親になると、まちがうから。不可避的に、まちがうから。自らが良かれ、と思って、子どもたちにできるだけのことをしようとするけれど、その多くは子どもたちの向かう方向性とは、異なっているから。結果として、何をやっても、やっぱり何かしら、間違っていることが多いのだ。自分としては、いっしょうけんめいやったんだけどなあ、と、親としてのわたしたちは、ぼんやり思うことができるだけだ。わたしたちはまちがう。まちがうから、子どもたちに、許されなければならない。許されていて欲しい。それは、祈りのようなものだ。
自らの子どもに許されることで、自らも、自分の親を許すことができるようになる。自分の親も、自分の親のその時の制限の中で、精一杯のことをやったのだろうから、と認められるようになる。「無償の愛は、親から子どもに与えるものではない。無償の愛は、子どもから親に届けるもの」。聞き間違い、書き間違いではない。無償の愛とは、子どもの側から親に捧げられるべきもの。かの、マイケル・ジャクソンは、2001年8月、オクスフォード大学における講演[1]で、そんなふうに語っていた。(以下は、講演の一部を、筆者が訳した。)
自分が父親になって、あるとき、自分の子どもたちのことを考えていました。プリンスとパリスは(注:このとき3番目の子ども、ブランケットはまだ生まれていない)大きくなったとき、私のことをどんなふうに思っていてくれるかなあ、と。お父さんはどこに行くときもいつも自分たちを連れて行ってくれたなあ、とか、自分たちのことを何よりも一番優先してくれたなあ、ということはぜったい覚えておいてほしいと思います。でも、こどもたちにはとても難しいこともあるわけです。いつもパパラッチにおいかけられていて、子どもたちは私といっしょに公園に遊びにいったり映画をみにいったりはできないわけですから。大きくなって私のことを恨んだりするだろうか、私のやったことはどんなふうに影響を与えてしまうだろうか、と思います。自分たちはどうして他の子と同じような子ども時代を送れなかったんだ?と、自問するかもしれない。
でもそのときに、どうか、子どもたちが私のことを大目に見てくれるように、と祈らずにはいられません。「お父さんはちょっとばかり特殊でむずかしい環境にいたわけだけれども、そのわりには、よくやってくれたよな」、とか、「お父さんは、まあ、完璧とはいえないけど、あたたかくていい人だったよな、たくさんの愛を僕たちにくれようとしていたし」と、思ってくれるといいな、と思います。―中略―
私たちは、みんな、誰かの子どもです。そして親たちがどんなに一番いいだろうと思って計画を立てて、努力をしたとしても、かならず親というのは間違うものです。だって、私たちすべてはただの人間に過ぎないのですから。子どもたちが私のことを手厳しく非難したりしないでいてほしい、そして私が至らなかったことは許してほしい、と思うにつけ、わたしは、自分の父親のことを思わざるを得ませんでした。若いころ私は父を否定していましたけれども、今は、父は父のやり方で私を愛してくれていたのだ、とみとめないわけにはいかなくなったのです。
―中略―
世界中の子どもたちに呼びかけています。ここに今夜いる方々から始めてほしい。もしあなたが親にネグレクトされたと思っていても、どうか親を許してください。親を許し、そして、もう一度、愛する、ということを教えてあげてください。親によってひどく痛めつけられた、とか、傷つけられた、という思いを抱いている方、その失望の思い、そんな肩の荷を、どうぞ、おろしてください。お父さんやお母さんにだまされたんだ、と感じている方、でも、もうそれ以上あなた自身をだまし続けることはやめましょう。親なんかと関わりを持ちたくないんだ、と言っている方、どうぞあなたの手を、両親に向けて差し出してほしい。
あなたたちにお願いしています。そして、私自身にも願っている。私たちの親に、無償の愛、という贈り物を届けられるように、と。そうすれば私たちの親もまた、どういうふうに人を愛したらいいのか、学ぶことができるのですから。自らの子どもたちから、無償の愛を学ぶ。そうしてはじめて、荒れて、さびしいこの世界に、愛を取り戻すことができるのだ、と思っています。
初めてこの講演を文章で読んだとき(写真集か何かに出ていた、と記憶している)、え?何? と思った。この人は、なんということを言っているのか。正直言って、びっくりしたのを覚えている。
マイケル・ジャクソンは、同い年である。1958年生まれでマイケルの方が私より一週間、お兄さんであった。マルティン・ルーサー・キングが、"I have a dream" の有名な演説をしたのは、1963年で、アメリカで公共の場における人種分離を禁止し、人種に基づく雇用を違法とし、公立学校における人種統合を規定した公民権法ができたのは、1964年のことである。マイケルが生まれた頃は、アメリカにおいて黒人はいまだはっきりと公的に差別されていたのである。
「歴史」というのは、一人の人生の長さのうちに、ずいぶんと変わってしまう可能性のあるものだ。マイケルが50歳で亡くなった2009年には、実際には差別や偏見はまだまだ残っているとはいえ、「黒人を差別して良い」などという法律は世界のどこにも存在しなかった。50年経って、世界は確かに変わったのだ。とはいえ、世界で最後の公的な人種隔離政策、アパルトヘイトが南アフリカで廃絶されたのは1994年、マイケルが亡くなるほんの15年前だったにすぎない。
黒人として初めてMTVに登場し、世界で最も売れたアルバムを発表し、エンターテイナーとしてのマイケル・ジャクソンの活躍について、今さら何も書く必要がない。彼は文字通り時代と共に歩んだ人だった。テレビが普及する1970年代にMTVに登場し、テレビに出演するアイドルとなり、1980年代から90年代にかけて、ビデオ全盛の時代に多くの話題性に富むミュージック・ビデオを発表した。そして、マイケルが亡くなった2009年ごろは、You Tubeが広まり始めていて、世界中の人たちがYou tubeで配信されるマイケルの映像にあらためて、魅了されたのである。
でも、マイケルは、SNS(Social Network Service)の時代には、間に合わなかった人だった。数々のゴシップや誤解や中傷に絶え間なく晒されていたマイケル。今、多くのエンターテイナーたちがやっているように、ツイッターやフェイスブックを通じて自分の言葉を届けることができていたら、彼はずいぶんと気持ちが落ち着いていたのではないのかな、と思ってしまう。トップエンターテイナーや、大統領までが、「自分で言いたいことを自分の言葉で自分で発信する」ような時代に、彼は間に合わなかった人だった。そういう意味で、彼はゴシップに晒され続け、「申し開き」の機会を、自分の言葉では、十分には持ち得ないまま、逝ってしまったのである。
上記の訳は講演のごく一部である。音源が残っているが、しっかりと、しずかに、淀みなくマイケルはオクスフォード大学で語りかけている。知的で、内面思考が深く、思慮深い人物であることは、この語り口から十二分に伝わってくる。とんでもない人物をわたしたちは50年で失ってしまったのだ、ということを、あらためて知るのである。
この講演はいろいろなサイトに引用されている。You tube などでも全文を読むことができるし講演をきくことができる。たとえば、Michael Jackson- Oxford Speech 2001 (Part 1⁄4)w/ Full Text- YouTube 〈https://www.youtube.com/watch?v=XzIQlVSH8GU&hl=ja_JP&fs=1〉2020年1月19日閲覧