おせっかい宣言おせっかい宣言

第75回

ナラマニヤン先生

2020.11.26更新

 ヘンリク・ナラマニヤン先生は、アルメニアの首都エレバンの隣に位置するコタイク州にあるラズダン産婦人科病院の院長であった。森のクマさん・・・と、まことに失礼ながら、初めて会った時に思ってしまったものだ。温和な表情にものすごく大きな体、骨太で、分厚い印象。ナラマニヤン先生の話すアルメニア語もロシア語も私はわからない。真面目な顔をして、実に真剣に話してくださっていることを通訳してもらうと、こんな感じだった。
 「日本から本当によく来てくださいました。日本からあなた方が来ることを本当に楽しみにしていたのです。わたしは、村上春樹さんの小説が大好きなのです。ロシア語にたくさんの作品が翻訳されているので、新しい作品が出るたびに読みます。村上春樹さんの作品には本当に心打たれる世界がひろがっています。日本のことがたくさん出てきますから、日本の方にお目にかかれるのを本当に楽しみにしていたのです。そんな日本から来てくださる方たちと、私たちの病院にやってくるお母さんたちの出産の環境を良くしよう、という仕事ができるということは私にとって大きな喜びなのです。日本から来てくださった教授のために乾杯!」
 ・・・と、ここで、ちいさなグラスに注がれたウォッカがでてくる。アルメニアはワインやブランデーになる品質の良いブドウがたくさんとれることで有名で、かのウィンストン・チャーチルもアルメニアのブランデーをこよなく愛していたという。確かにアルメニア産のブランデーをお土産に持って帰ったら、お酒のことに詳しい方には大変喜ばれた。ワインとブランデーが有名であると同時に、アルメニアは、旧ソ連の国であり、自らの言葉アルメニア語のほかに、教育言語としてのロシア語が堪能な人が多く、ロシア文化にも深く影響を受けているから、ウォッカも頻繁に登場するのである。お客さんが来ると、ウォッカで乾杯、から、全てが始まる。
 私、大変、お酒は弱いのであるが、まったく飲めないわけではない。まったく飲めなければ、体が受け付けません、と、躊躇なく逃げられるのであるが、全く飲めないというわけではないから、このようなとっさに「はいっ! 日本から来てくださったあなたのために乾杯!」とか言われると、断りきれないのである。かくして、朝から小さなグラスとはいえ、病院スタッフや、日本からの国際協力関係者と、ウォッカを一気飲みするのである。病院の皆様は、これから診療とか手術とかなさるのではないかと思うのだが、本当に大丈夫なのだろうか、などということは、他人が心配することではあるまい。私は必死で水を飲んでなんとかやりすごしたが、何杯かのウォッカのグラスをあけることは、下戸にとっては覚悟のいることだった。
 旧ソ連、ロシア語をつかう文化圏には、それなりのおつきあいのしかた、というものがあり、それは、イギリスの伝統を基礎としてアメリカをトップとするアングロサクソン的働き方とは、まったくことなるものであるようだ、ということは、短期にアルメニアを訪れた私にもまことにはっきりと感じられたのである。長くアルメニアで働いておられた助産師の方も「飲みます、やります」と相手の懐に入っていかないと、何も仕事が進まないということはよくわかる、とおっしゃっていた。
 日本と、このロシア語を話す地域とか、もっと広くスラブ地域(アルメニアは、そこには入らないが)とかはもともと大変親和性の高い地域であったのだと思う。戦前からロシア文学への憧れや、社会思想への共感は日本に深く根付き、うたごえ喫茶や合唱団などでもロシア語の歌は好んで歌われていた。常に一定のロシア語に憧れる人があり、この地域に親しい思いを抱く人も少なくなかったのだ。私がJICA (Japan International Cooperation Agency:国際協力機構)の仕事でアルメニアを訪れた2005年前後に、たとえば、ロシア語の通訳をしてくださるくらいロシア語ができる方というのは、社会党の支援を受けて高校からソ連に行って奥さんもロシア人、とか、ツルゲーネフを原書で読みたいからロシア語を学んだとか、冷戦当時世界の二大大国であったソ連の政治思想に深く共感して留学していたとか、とにかくいい意味でちょっと癖のある、人間的に分厚い感じの人たちが多かった。いま、勤めている大学でも、学生さんは第二外国語としてロシア語を選択できるのだが、あまり人数が多くない。日本においてロシア語地域への関心は、以前よりずっと低いものになって来ているようで、ちょっともったいないな、と思ってしまうのである。
 それはともかく。ナラマニヤン先生は、このラズダンの母子保健病院への出産ケア向上のための日本との共同プロジェクトが始まる前に、短期研修として来日してくださっているのだが、そのとき一緒に来られたのは、エレバン医科大学の産科教授ラズミク・アブラハミヤン先生、ガバール州の産科病院院長ホヴィック・チチョヤン先生、保健省のハイク・グレゴリアンさんたちだった。みんな、再度、失礼ながら、「森の熊さんタイプ」の見上げるような体格の恰幅の良いおじさんたちであった。一見強面だけど、心優しく、女性たちの状況をよくすることについて、目を輝かせて話を聞いてくださり、日本の助産婦たちの働きを敬意を持って受け入れてくださった。たった2年間の国際協力プロジェクトだったが、チーフリーダーの助産師さんと業務調整員のロシア通の方のタッグによる生き生きとした働き方によってアルメニアの人たちに深い印象を残し、女性に優しいケアのありようの本質をしっかりつかんでもらった、という実感があったものだ。
 アブラハミヤン、ナラマニヤン、チチョヤン、グレゴリヤン、という「〜ヤン」のつく名前はアルメニアに特徴的なものだ。作曲家のハチャトリヤンとか指揮者のカラヤンとか、作家のサロヤンとか、こういった方々はアルメニア・オリジンの人たちなのである。地球の裏、ではないものの、とてもとても日本から遠いアルメニア。トルコの隣になるのだが、オスマントルコの時代からの長い確執をかかえ、行き来がないため、アルメニアに行くためには、一度ヨーロッパに出なければならない。ウィーンでアルメニア航空か、オーストリア航空で、また、東に戻るのである。そんな遠い国の、美しい湖をのぞむ地方の病院の院長先生が、ひっそりと村上春樹を読んで日本のことを思ってくださっていたことを思うと、なんとも胸が熱くなる。
 2005年当時、既にナゴルノ・カラバフ紛争は泥沼化していると言われており、アゼルバイジャンとアルメニアの国境は閉ざされていた。内陸国アルメニアは、トルコ、イラン、アゼルバイジャン、グルジア(ジョージアとも言われる)と国境を接しているが、何かあったとき、陸路で出られるのはグルジアだけです、と言われ、なんとも言えない緊張感を持ったことを思い出す。村上春樹が好きなナラマニヤン先生は、ナゴルノ・カラバフ出身の人だった。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争の11月10日四度目の停戦合意により、紛争前のアルメニア支配地域のうち多くをアゼルバイジャンに返還する、ということとなった。ナラマニヤン先生とご家族はどうしておられるだろう、と、おろおろと考えている。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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