おせっかい宣言おせっかい宣言

第81回

名前 その2

2021.05.09更新

 日本語で「三砂ちづる」なのに、なぜ、英語で話すときに「Chizuru Misago」と姓と名を逆にするのか、中国や韓国の人は英語で名前を書くときにも、順番を変えていない。姓と名を英語で書くときだけわざわざ逆にするのはアイデンティティに関わる、と、若い頃、思っていた、という話を、前回の連載で書いた。

 「思っていた」、と過去形で書くのは、こだわっていた20代に、英語のネイティブの先生から「そういうことをアイデンティティと言わない。君の名前の順番が変わるくらいで、君のアイデンティティは変わらない」と言われてから、アイデンティティとは、それでは、そもそも何か、という問いに向き合わざるを得なくなり、問いを抱えて現在に至る、ということだからである。(連載第80回参照

 名前の順番にこだわっていたし、夫婦別姓についても興味を持ってきた。20代のはじめの頃だったと思う。現在、社民党議員である福島瑞穂さんが夫婦別姓を考える会(という名前だったと思うのだが)を立ち上げられた頃、会員になって、ニュースレターを送ってもらっていた・・・と記憶するのだが、今、調べても、はっきりわからない。その会の名前、発足年、ニュースレターなど、現時点でわたしの検索能力では、調べきれず、わからなかった。そのニュースレターを読んでいた時の自分の部屋の風景を思い出すに、あれは確かに1980年代初頭であったと思うのだが、福島瑞穂さんが東大を卒業なさったのが1980年、弁護士になられたのが1984年ということだから、このあたりでそういう会を立ち上げられたのかどうか・・・。どちらにせよ、約40年前のことである。戸籍制度に疑問もあったし、結婚しても名前を変えたくないと思っていたから、結果として個人的なレベルでは、周囲の方に当惑もさせ、迷惑もかけてきたと思う。

 いろいろ名前にこだわりながらも、その後、20代後半から40代初めにかけて、15年ほど日本を離れ、そのうち10年ほどは、家族も、仕事も、友人関係も、つまりは公的にも、私的にも、日本とあまり関わりのないところで暮らし、日本語を話すこともあまりない、というようなことになってしまい、そしてそのころは、今のように地球の裏のニュースが詳細にネットを通じてわかる、という時代は、まだきていなかったので、名前に関する日本国内の状況はとくにはフォローしないまま、というか、知らないままに、時間がすぎていた。具体的に言うと、バブルの時代の日本をほとんど知らないままであったのだ。おおよそ、"浦島太郎化"して、2000年に帰国し、2001年から厚生省(当時)の研究所に就職することになる。さまざまな書類を整えたり、回ってくる書類を見たりしていたら、2001年には、当時すでに、国家公務員でも、名前を変えた後、旧姓を使って仕事ができることになっており、日本もかわったな、と、正直びっくりした。

 そんな状況はもちろん、"take it for granted"(当然のこととして)に、生起してきたものであるはずもなく、ある国立大学に勤務する女性教員の方が旧姓を用いたいという裁判で1990年代に問題提起されその裁判を契機として、公務員の旧姓使用が平成13年度(まさに2001年、わたしが国家公務員になった年)に制度化されるようになった、ということのようだから、やはり異議申し立てによって状況は変わってきていたのである。パスポートも旧姓使用の実績のある書類をしめせば旧姓併記が可能になり、別姓を使うことの認知はずいぶんとあがってきた、と思うが、まだ、法律上、「夫婦別氏」が認められているわけではなく、議論は続いている。

 改革を目指す層だけではなく、いわゆる、保守的と言われる人たちからも、ひところは、少子化が進んで家の姓を継ぐ人がいないので、女の子に姓を継がせたい、とか、墓を継いでもらいたい、などという意見がでてきていて、夫婦別姓への理解が、そちらの方からも進んでいたようだったから、夫婦別姓の法制化は進展していきそうだな、と思っていたけれども、「非婚」や「墓じまい」など、より根本的なことがたちあらわれはじめた現実もあって、なかなか難しいことになっているようにもみえる。つまり、娘がみんな結婚する、という時代ではなくなったこと、また、先祖代々のお墓を誰がまもっていくか、ということで悩んでいたはずだが、そもそもお墓は現在生きている人のそばにもってきてもいいのではないか、だいたいお墓はもういらない、などと思う人たちが老齢に達してきていることもあって、「女の子に姓を継がせたい」ということのリアリティーが薄れつつあったりもしているのかもしれない。

 40年ほどまえは、旧姓を使いたい、名前をかえたくないということは、かなりのレベルでとんでもないことを言っている感じがあって、周囲から納得してもらうことも難しかったように思うが、国家公務員でも旧姓使用をみとめるようになってからすでに20年がすぎ、旧姓を使用すること自体は、あちこちで、あまりハードルが高くなくなりつつあり、多くの女性が使えるようになっている。旧姓を使いたい女性のパートナーは、多くの場合、こういうことに理解があり、「遅れた」男にはなりたくない、と思っている人が多いから、女性が旧姓を使いたいことにだいたい賛成してくれているようだ。40年ほど前から状況はずいぶんかわっているので、それほどつらい思いをせずに旧姓がつかえるようにはなってきているとは思う。とはいえ、日本は、ファミリーネームががどこまでいっても重要で、いつも姓でよばれることになるから、こだわるのもよくわかるし、そのために闘う人たちの大義もわかる。

 わかるけれども、なんとなく今になると、名前って適当に変えていいんじゃないか、別に公的な書類に書く名前だけが名前ではないだろうし、前回の連載で書いたように、自分で好きな名前をつくって使ってもいいんじゃないかと思うし、結婚して名前が変わるのもまた、悪くないんじゃないか。でもそんなこと、いまさら結婚するはずもないと思われている還暦過ぎの未亡人が言っても、自分ごとじゃないから、言えるんだろう、と、全然説得力はないこともわかっている。

 それに、名前なんかどうでもいいなんて言いながら、先日、ブラジル人の元夫が私の名前をChizuro(正しくはChizuru)、とつづりをまちがえて書いてきたことにも、むかし、親密な思いを通わせた記憶もあるように思う人が、ちずる(正しくは、ちづる)とまちがえて書いてきたことにも、機嫌がそれなりに悪くなったじゃないか、胸に手を当てて考えてみよ。名前なんてどうでもいいとは、実はちっとも思っていなかったことはすぐ露呈するので、えらそうなことはまったくいえないのだ。たかが、名前、されど、名前、である。

 「苦海浄土」で知られ、日本を代表する作家である石牟礼道子さんは、結婚前の名前は「吉田道子」さんであった、という。ご本人が、「作家としては吉田道子より、石牟礼道子の方がずっと作家らしいわね」とおっしゃっていた。まったく、石牟礼道子、はどんなペンネームよりかっこいい名前だ。

 名前にはこだわりたい。でも、名前をかえるのも、いい。人生がかわっていくようで。いつ人生がかわってもいい、という、なんとも甘い響きには、抗うのはなかなかむずかしかったりする。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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