第88回
タレフェイラ、シュトレイバー
2021.12.09更新
外国語を学ぶ、ということは、自分の中にある感情で、自分のネイティブの言葉では表せなかったことに、言葉を見つける、ということではないかと思う。日本語で言おうとしてもなんだかぴったりしない言葉が、外国語を学ぶことで腑に落ちたりする。
私自身は、「この言葉を話せる国なら生きていける」と思う言語は、日本語のほかに、英語とポルトガル語である。英語は、イギリスの大学で働くことになって、ようやっと、身につけた。英語は留学程度ではものにならず、なんというかもう必死になって働く中でなんとか使えるようになった。ネイティブの人のように話せるわけでは全くない。英語ネイティブの域には、どこまで行っても辿り着けないというか、辿り着かせないのが英語という言語のようである、というか。でもまあ、英語が下手、とか言われながら、お店の人とか受付で、は? なんですか? わかりませんけど? みたいに(わざと)聞かれたりしながら、なんとか暮らせと言われれば英語圏で暮らせるように思う。
ポルトガル語のほうは、子どもたちの父親になった人がブラジル人だったし、ポルトガル語を公用語とするブラジルで10年暮らしたし、生活言語として習い覚えたから、この言葉を使って十分に生きていける。英語圏と違ってポルトガル語圏って狭いので、「この言葉を使って生きていける」国は、ブラジルの他は、ポルトガル、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウ、サントメプリンシペ、しかなく、それに東チモールを入れてもいいのだかどうか。東チモールは公用語の一つのようだが、年代によってはそんなに通じないようであるし。ともあれ、ブラジルでポルトガル語を使って暮らしてきたことを思い出すと、全然英語圏と違う。ネイティブのようには話せないがネイティブのように話せないことをネイティブが気にしていない。そのおおらかな態度のおかげで、ポルトガル語でのコミュニケーションには自信が持てて、英語とは全然違うのである。英語かポルトガル語の国なら生きていけると思うが、どちらかと言えばポルトガル語の国の方が気楽だと思う。でも、もう還暦すぎていい歳なんだし、今更、異なる言語の国で暮らさなくてもいいような気もする。
タレファ、というのはポルトガル語で「仕事」のことである。「作業」という趣も、ある言葉である。学校の宿題なども、「家でやるタレファ」というふうに言われる。ポルトガル語でごく日常的に耳にする単語である。この言葉を語源とする「タレフェイラ」という言葉がある。直訳すると、「タレファをする人」が「タレフェイラ」である。レースはポルトガル語で「レンダ」、レース編みをする人は「レンデイラ」、お産はポルトガル語で「パルト」、産婆さんは「パルテイラ」である。で、タレフェイラは「仕事をする人」。しかし、タレフェイラに、あまり良い意味はない。あの人はタレフェイラですね、というのは、はっきり言って、陰口であり、本人の面前で言えることではない。
タレフェイラは、「仕事をする人」だから、仕事が全然できない人ではない。言われたことができない人ではない。やらなければならないことをやらない人でもない。タレフェイラは、言われたことはできるのである。やるべきこともおそらく、できているのである。しかし、タレフェイラは、言われたことしかやらない。やれ、と言われたことしかやらない。仕事には、どんな仕事にも、どんな小さな仕事にも、自分の心を込めたり、丁寧にやったり、わずかではあるが判断が求められるときには、的確に判断したり、そういう「少しばかりの工夫」というか、「少しばかりの自分の思い」というか、そういうものを込めて、言われたよりもより高いレベルのことをやることができるものである。そのためには、自分の頭を使わなければならないし、他への共感能力も必要だし、客観的な自分の把握も必要である。何よりそれは、今やっていることに喜びを持っているからできることである。タレフェイラはそういうことは、しない。
タレフェイラは、でも、結構器用な人で、例えばいい学校に行こうと思えば、行くために頑張るし、出世しようと思えば、出世するために頑張る。そのために必要な「タレファ」はやる。それはでも「いい学校に行く」とか「出世する」とかいう「手段」としての「タレファ」であって、タレファそのものに喜びを見出しているわけでは決してない。結果として、タレフェイラは、信用できない人、人の顔色ばかり見て、野心はあるが、信頼に足らない人、ということになってしまう。
ブラジルセアラ州保健局で仕事をしていたとき、例えば、ブラジリアの保健省(要するに中央官庁)に行くときに、「あの人とこの人に会って仕事をするの」と、ブラジルの同僚にいうと、「ああ、あの人はタレフェイラだから気をつけてね」というふうに忠告されたりした。それはその人は「仕事ができないわけじゃなくて、仕事はまあ、できると言っても良いけど、別に好きでやってるわけでもなくて、今のポジションをキープするかあるいは出世するために嫌々やってるんだから、本質的な話をしようと思っても通じないし、本気で話をするに値する人じゃないんだからね、気をつけなさいね。そういう人って人の足引っ張ることしか考えてないからね」みたいなことが含意されているのである。タレフェイラ、という一言に。
こんな言葉は、日本語にない。日本語にないから、「そういう人にはなってはいけないよ」みたいなことに、ならない。
敬愛する経済学者、内田善彦は、「学問と芸術」(1)という文章で、森鴎外の「當流比較言語學」(2)を引用して、ドイツ語の「シュトレーバー」について語っている。これはまさに、「タレフェイラ」と同じである。長くなるが鴎外の文章をそのまま引用してみよう。
或る國民には或る詞が闕けてゐる。
何故闕けてゐるかと思つて、よくよく考へて見ると、それは或る感情が闕けてゐるからである。手近い處で言つて見ると獨逸語にStreberといふ詞がある。動詞のstrebenは素と體で無理な運動をするやうな心持の語であつたさうだ。それからもがくやうな心持の語になつた。今では總て抗抵を排して前進する義になつてゐる。努力するのである。勉強するのである。隨て Streber は努力家である。勉強家である。抗抵を排して前進する。努力する。勉強する。こんな結構な事は無い。努力せよといふ漢語も、勉強し給へといふ俗語も、學問や何か、總て善い事を人に勸めるときに用ゐられるのである。勉強家といふ詞は、學校では生徒を褒めるとき、お役所では官吏を褒めるときに用ゐられるのである。
・・・
然るに獨逸語の Streber には嘲る意を帶びてゐる。生徒は學科に骨を折つてゐれば、ひとりでに一級の上位に居るやうになる。試驗に高點を贏ち得る。早く卒業する。併し一級の上位にゐよう、試驗に高點を貰はう、早く卒業しようと心掛ける、其心掛が主になることがある。さういふ生徒は教師の心を射るやうになる。教師に迎合するやうになる。陞進をしたがる官吏も同じ事である。其外學者としては頻に論文を書く。藝術家としては頻りに製作を出す。えらいのもえらくないのもある。Talent の有るのも無いのもある。學問界、藝術界に地位を得ようと思つて骨を折るのである。獨逸人はこんな人物を Streber といふのである。
僕は書生をしてゐる間に、多くの Streber を仲間に持つてゐたことがある。自分が教師になつてからも、預かつてゐる生徒の中に Streber のゐたのを知つてゐる。官立學校の特待生で幅を利かしてゐる人の中には、澤山さういふのがある。
官吏になつてからも、僕は隨分 Streber のゐるのを見受けた。上官の御覺めでたい人物にはそれが多い。祕書官的人物の中に澤山さういふのがゐる。自分が上官になつて見ると、部下にStreber の多いのに驚く。
Streber はなまけものやいくぢなしよりはえらい。場合によつては一廉の用に立つ。併し信任は出來ない。學問藝術で言へば、こんな人物は學問藝術の爲めに學問藝術をするのでない。學問藝術を手段にしてゐる。勤務で言へば、勤務の爲めに勤務をするのでない。勤務を方便にしてゐる。いつ何どき魚を得て筌を忘れてしまふやら知れない。
日本語に Streber に相當する詞が無い。それは日本人が Streber を卑むといふ思想を有してゐないからである。
誠に、森鴎外が危惧した通りのことは、今も変わらないのだ。タレフェイラもシュトレイバーも日本語で一言で表すことができないから、勉強や仕事を「方便」、「手段」にすることの何が問題なのか、そこそこ働き者でよろしいではないか、ということになってしまっているのである。日本語で言い表せなかった違和感が、一言で表されていることを知る喜びが外国語を学ぶことにはあるわけだが、そこで喜んでだけいられる場合ではないことも、森鴎外を読むと、しみじみとわかることは、おそろしいことであるが。
(1)内田義彦 「学問と芸術」 岩波書店『思想』1972年9月号。(内田義彦「生きること、学ぶこと」藤原書店、2000年などに掲載)
(2)森林太郎(森鴎外)「當流比較言語学」明治42年7月。(現在は「青空文庫」などで読める)