おせっかい宣言おせっかい宣言

第93回

顔が見えない

2022.05.29更新

 COVID-19パンデミックも3年目である。マスクの生活も慣れた。そろそろマスクを外しても良いのではないか、と言われ始めているが、それがどうなるかは、科学的根拠ではなく、おそらく、「なんとなくの雰囲気」ではないかと思う。だいたい、戸外や人のいないところでマスクをしなくてもいいです、というのは、パンデミック一年目にも言われていたのだから、別にそんなに今となって変わったところもないメッセージ、と言える。
 人類が初めて遭遇しているウィルスなのだから、最初から科学的根拠の十分にある介入活動とか、ないのであって、暗中模索、今まであったパンデミックなどを参考にしながら、できるんじゃないか、ということをいろいろやって、後付けで、これには科学的根拠がありました、とか、ありません、とかいうことになっているのである。パンデミック発生以降、えらく有名になってしまった私の専門分野、「疫学」、は、医療分野に科学的根拠を提供する枠組みなのであるが、具体的な状況が立ち上がってきてから、調査研究を立ち上げ、データをとって、分析して、現場に提供するようなことがわかってくる、そういう学問体系なのだ。最初から、科学的根拠を出せ、と言われてもそれは手持ちの学問の体系を超えていて、かなり、無理なのである。
 例えばマスク一つとっても、マスクはつけるべきなのか、どうなのか。非常に明瞭で、レベルの高い、デザインの優れた疫学調査の一つの結果が提供されたのは、2021年12月のことだった[i]。バングラデシュで、なんと600村、30万人以上の人を巻き込み、マスク着用率を持続的に向上させるにはどうしたらいいのか、マスク着用する人が増えるとSARS-CoV-2の感染にどのような影響を与えるのか、ということ、評価した大規模な研究であった。こういった大きな調査にアメリカなど先進国の研究者が関わっているのは、いつものことである。だいたい大きな研究調査を立ち上げるには、かなりのお金が必要なので、先進国側の研究資金が関わる必要があり、結果として、誰かアメリカとかイギリスの学者が名前を連ねることになるのだ。
 結果から言うと、COVID-19パンデミック時にバングラデシュ農村部で実施されたこの大勢を巻き込むレベルの高い疫学調査によって、マスクを配ったり、マスクをつけましょうという宣伝を含む介入活動によって、マスクをつける人は増加し、症状のあるSARS-CoV-2感染は減少した、ことが示された。よって、コミュニティでのマスク着用の促進が公衆衛生の向上につながることが実証された。要するに、マスクは感染予防に役立ちます、ということである。この人数の多さにクラクラする。そんな大勢に調査をしなければならないか、というと、必ずしもそういうことでもなく、数が多ければいいというものとはまた違って、研究のデザインこそが大切なのであるが、まあ、今回みたいな調査は確かに、人数が多いほど、研究としてのパワーは上がっている、ということに間違いはない。
 ということで、今となっては、確かにマスクをつけることに科学的根拠はあるわけだ。つけたほうがよい。まじめな国民で満ちるこの国では、言われなくても、みんなつけている。そう言いつつも、段々感染者数も減ってきた。一人の患者が治るまで、平均何人の人に感染させるか、という感染力の指標を再生産数R(リプロダクションナンバーなので、R)といい、流行が進んで、免疫を持っている人が増えたり、ワクチン対策などがなされたりした後の再生産数が、RtとかReとか言われて、日本語では、実効再生産数、と呼ばれる。ああ、こんな学会でしか聞かなかったような単語が、日々、テレビで流れるパンデミック世(ゆー)、なのであるが、それはともかく、マスクを含めた世の中の「行動変容」してください、という呼びかけは、この実効再生産数を1よりも小さくしようとする努力であると言える。要するに、一人の人が一人以上に感染させなくなれば、当然だけど、感染者の数は減っていく。で、これからどうなるかはわからないとはいえ、2022年5月の今は、この実効再生産数が1より小さくなっているから、マスクもつけなくてもいいんじゃないか、というお話にもなり得るのである。

 パンデミックが始まって1年半くらい経った頃、マスクは面倒ではあるが、顔を露わにしないでいるのは、気が楽なところもある、という文章を、この連載でも書いたことがある。あれから、さらに1年半、いよいよ、マスクは私たちの日常になってしまった。勤め先の大学は、パンデミック3年目の今年、2022年4月から、全面対面授業になって、教員も学生も、毎日大学に出てきている。最初はお互いひどく疲れて、息切れした。オンライン授業の始まった当初のことを思い出してみるに、教員側も学生側も本当にこういうことできるのか、と思って、戦々恐々だったし、さらに、みんなに会えないオンライン授業はつらい、とか言っていたのだが、慣れてみると、結果として物理的にはラクだったのである。通勤しなくていいし、通学しなくていいし、授業をやる方も、ぎりぎりまで家で準備して、そのまま家から学生に語りかける、ということができることがわかったし、学生も2時間以上かけて1限の授業に間に合うように夜明け前から茨城県とか千葉の奥の方とかから通っていたというのに、その間、寝ていていいことになった。今さら、通学できそうにない気持ちは十分にわかる。それでもしょうがないから、お互い必死でまた、通勤通学するようになって、2ヶ月ほど経つと、なんとか慣れてきた。しかしながら、双方、「オンラインで授業できたじゃないか」という経験値が蓄えられたため、ある意味、すぐそっちに逃げようともする。学生から、真面目に、大学に対して「大人数の講義を対面でなぜしなければならないのか意味がわからない、オンラインにしてほしい」という要望が挙げられたりする。こうなることはわかっていたような気がするが、実際起こってみると一つずつ丁寧に対応するしかないのである。
 で、対面授業をしているけれど、全員マスクをつけている。講義中、ゼミ中に、はずす機会がない。少なくとも少人数の授業では、オンライン授業では、全員顔を見せて、というと見せてくれるから、それぞれの顔は見えていた。どんな顔かは、わかった。しかし、今は、特に初めて会う新入生の皆様の、まさに、顔がわからない。顔が覚えられない、という以前に、顔がわからないのだ。目と髪型と体つきと雰囲気で、少しずつ、個体識別できていくのだが、これは顔を見せていた時とは異なる能力が求められている。人間の能力は必要に応じて開発されていくわけだから、今後は、顔を見なくても、はっきり個体識別できるようになっていくに違いない。幼い人たちの他人の認識能力というものも、決定的に今までと違ったものになるのではないか。マスクなしに顔をはっきりみることができるのは、ごくごく親密な人だけ、という平安時代の逢瀬のような、イスラム文化が大切にしてきたような、そういうあり方がユニバーサルになりつつあるのか。私たちは、パンデミック以前と同じようには、決して戻れない、ということだけはどうやら確実なような気がする。


[i] Impact of community masking on COVID-19: A cluster-randomized trial in Bangladesh

https://www.science.org/doi/10.1126/science.abi9069 2 Dec 2021 , Vol 375, Issue 6577

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

編集部からのお知らせ

三砂先生の新刊『セルタンとリトラル ブラジルの10年』が発刊!

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『セルタンとリトラル ブラジルの10年』三砂ちづる(弦書房)

世界地図を広げるとブラジルの面積は広大であることがわかる。日本からの移民も多く、ポルトガル語が公用語であることもよく知られている。北西部のアマゾンの森、南部のリオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロなどとは風土がまったく異なる北東部ノルデステで、公衆衛生学者として10年間暮らして体感し思索した深みのあるノンフィクションである。
 いわゆる「近代化」を拒む独特な風土を、著者独自の観察眼でユーモアを混じえて語り、命、美、死の受容、言葉以前の話など多くの示唆に富んだ出色の文化人類学的エッセイ。(弦書房書誌ページより)

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