第98回
結婚
2022.10.28更新
もう40年以上も前のことであるが、私が大学生だったころには、すでに、「結婚」のイメージは十分に悪かった。結婚は、女を妻、母という立場に縛るものであり、女を抑圧するものであり、抑圧を廃し、自由を求める自立した女性は、結婚なんかに憧れるわけにはいかなかった。西洋の国よりずっと"遅れて"いて、家父長制の影響の色濃く残る日本は、とんでもない国だ、みたいなかんじ。だから、しっかりものを考えて、自立した女性になりたいと思って日々闘おうと思っているような女性たちは、あっさりと結婚したりは、しなかった。結婚するなんて、遅れている、みたいなイメージもあった。今もあると思う。
恋愛は自由であるべきで、結婚という制度に縛られるべきではない、女が男に従属するのは良くない。そういうふうに考えていると、これがまた、けっこう婚外恋愛に陥りやすくなってしまったりするのである。結婚はしているけれど、別の女性と恋愛してしまう、という、まあ、わりと身勝手なタイプの男性側のニーズと、結婚などという制度にとらわれず、恋愛は自由であるべきだ、という自由と自立をめざす女性のニーズが、ここに一致する。自立した女性たちだから、もちろん、仕事は辞めずにずっと働いていて、男に経済的に頼るつもりは毛頭ない、というか、経済的に誰かに頼ることをいさぎよし、としない。自立した女性は、結婚に憧れたり、結婚をせまったりすることもまた、自らの自立を妨げることだと思うから、そういうことも言わない。男の側も、そういう自立した女性である君が好きだよ、みたいに言っちゃっていて、これまた双方のニーズが一致している。かくして、「恋愛好き男性」と「自立した(あるいは自立を目指す)女性」との婚外恋愛は、多く発生していた。
双方がよいなら、結構なことではないか、と言えないこともない。しかしこのような関係の問題は、この「自立を目指す女性たち」は、結果として結婚もできなければ、子どもも持てない、という人生を選ぶことになってしまいがちだ、ということだ。よけいなことを言うな、と言われそうであるが、この連載は「おせっかい宣言」というので、所詮よけいなことを言っておせっかいばかりしていることが前提なのだ。本人たちは口では「結婚はする気はない」、「子どもも持つ気はない」と言いは、していたが、このような恋愛に陥って50代、60代を迎えることになってしまった女性たちを見ていると、相手さえ間違わなければ、この人たちは、結婚もしただろうし、子どもも持ったりするようになった人たちだろうな、と思ったりする。それを痛ましい、とつい、思ってしまう(またまた、よけいなことを、と言われるであろう)。
リプロダクティブエイジ、日本語に訳すと「生殖年齢」の期間、というのは、人生100年時代と言われるいま、考えてみると、結構、短い。人生のほんの一瞬、にみえたりする。生物学的に考えればそれなりにからだが成熟して生理があれば子どもが産めるわけだが実際、社会的にも法律の上でも結婚してもいいのは18からだから、生殖年齢も18歳から、ということにしようか。生理があれば子どもが産める、といっても、40過ぎるとまことに妊娠しにくくなる。だから生殖年齢は、18歳からだいたい40歳くらいまで。あるいは42、3歳まで。そう思うと生殖年齢の期間は、長くて25年、短いと20年である。実際には今どき18歳で子どもを産む人は少ない。現代日本の初産平均年齢はすでに30歳を超えているのだ。それを考えたら、実際に今の日本で暮らしている女性が妊娠する可能性があり、具体的に次世代を産む年齢、と呼べるのは25歳くらいから40歳くらいだろうか。15年くらいしかない。
わたしは今64歳なのだが、これくらいの歳になると、10年なんてあっという間に経ってしまうことがよくわかってくる。まさに、瞬きする間の人生、であることもよく理解できてくる。25歳から40歳までの15年のなんと短いことだろう。この年齢のときに、既婚者とつきあったりしてしまうと、あっという間に5年過ぎ、あっという間に10年過ぎ・・・という感じになって、自らの生殖年齢をあっという間に棒に振ってしまうのだ。ご本人たちは、いいの、わたしたちはほんとうに愛しあっているのだから、とおっしゃるが、彼女たちの多くはほんとは、愛する人の子どもを産みたかったと思う(よけいなことである)。
そうして男は離婚せず、女は子どもも産めず、50代を過ぎていく。経済的に自立している女は、自分で家も買っちゃったりしているので、男の方は、遠慮もなく女の家に入り浸ったりしている。既婚者の男側としては、持ち出しゼロである。だって相手は自立している女性なんだもん。なんか、ずるくないか、これ。
妾制度があったころは、妾も戸籍にはいったりしていたし、妾は公の存在だったし、子どもも産めたし、ちゃんと相手の男から、金ももらっていた。そういうことができる甲斐性のある男だけが妾を持てたわけである。渡辺京二氏が2022年現在、熊本日日新聞に連載している「小さきものの近代」には、羽振りがよく甲斐性のある男のまわりにあつまっている妾たちの姿が描かれている。「トップ妾」とでも言えるリーダー格の女性にひきいられ、女たちがわいわいと暮らして男に"たかって"いるさまは、ある種の福祉システムでもあった、と言える。一夫一婦の恋愛幻想にしばられて、自立はしていても生殖年齢を棒に振った女性たちと、こういった妾の女性たちと、どちらが幸せか、なんて、時代も違うし、比べるべくもないのだが、一体時代は進歩しているのか退化しているのか、わからない、とも思ってしまう。
人間関係、とは、非対称なものだ。それが恋愛関係であれば、さらに激しい恋愛関係であればなお、非対称なものだ。どちらかの思いが、どちらかより勝り、思いが勝っていると思う方は、そうでない方の一挙一動、ひとことひとことに、動揺し続ける。遠い昔の話、むずかしい話、というわけではない。恋愛している人は、LINEの既読がついても返事がないことに、ひどく動揺したり、あれこれ悩んだりしてしまう、というのは、日々起こっていることだ。どうやったって非対称になりがちな男と女の関係。多くの場合、女が「持ち出し」で、多くを失いがちな、男と女の関係。実は、結婚、という制度は、人類が長い間かけて考えてきた、関係を出来うる限り対称にしようとする試みの一つだったのではないか、と、いまは思えたりする。結婚は、そもそもは、女性を抑圧するためではなく、女性をまもるための、できるだけ男女を同じ立場に置くための、仕組みだったのではないのか。まもられずにシングルマザーになることは、やはり、きびしいことなのである。
あんなに結婚を忌避し、事実婚に憧れ、フランスは違うよな、とか言いながら、自由な男と女のつながりを模索していた(はずの)私たちの世代であるが、何かどこかで大きな間違いをしたのではないか、次世代にも重要なことを伝え損ねていないか、と深く反省したりしているが、すでに遅過ぎる気も、とても、するのである。ごめんなさい。