おせっかい宣言おせっかい宣言

第100回

もしも

2022.12.27更新

 歴史にもしも、がないように、ひとりの人生にも、もしも、は、ない。ない、とわかっているが、あの日、あのとき、状況が違っていたら、人生は全く違ったものになっていた、と思うポイントは、誰にでもいくつかあると思う。

 職場の女子大で、現在ユニセフ:UNICEF(国連児童基金)の東京事務所代表であるロベルト・べネス氏の講演会が行われた。公に公開されていることなので、お名前を出しても構わないであろう。普通、大学で講演会、というと大学側で企画してお願いするのであるが今回は、ユニセフ側から、当事務所の代表がぜひ大学で講義をしたいと言っている、ということで打診があり、それなら是非おいでいただきたい、とお受けしたのだ。
 イタリア人で、コロンビアから、西アフリカから、地中海から9カ国にわたる国々で仕事をした果てに、日本事務所にたどり着いた彼は、まっすぐな明るさで、ユニセフの仕事と、こういった国際的な仕事に就くためにはどういう道があるのか、どういう人生になるのか、ということを熱を持って、ゆっくりした日本人学生でも十分わかる英語で語りかけてくれて、大変好感がもてた。彼の話によると、ユニセフは、実は、割合として一番多くの日本人が働いている国連機関で、しかも働いている日本人の75%は女性なのだそうである。
 国連機関というのは、供与金の割合によってその国籍の人間を雇用する、というところがあるときいているし、また、雇用における男女平等を目指している。建前として、当たり前であろうか、と思う。で、いまやその勢い衰えたりといえども、先進国の仲間入りをしてきた日本は、国連機関にたくさんのお金を出している割には、職員が少ない、と長く言われていたのである。
 まあ、当然のことである。明治以来の豊かな翻訳文化に支えられたこの国では、英語を話せなくても、英語を読めなくても、困ることがない。専門的な仕事をする上でも、個人的な興味で探求しようとしても、なんでも翻訳が提供されているので、日本語で読める。大学だろうが大学院だろうが、講義は日本語で行われ、日本語の文献を読んでいけばなんとかなる。外書購読とかあるけれども、おおよそは日本語に訳されているか、今後訳されるか、という本がほとんどなのだ。翻訳を生業としている人口も多いのである。そういう国で、英語がばりばりできるようになる人は、所詮、そんなに増えない、というか、増える必要もないのであった。コロナ前に嫌というほどグローバリゼーションとかいう言葉を聞いたけれど、そんなふうにいわれて踊ってみても、所詮、上手にならない、日本人の英語、というものなのであった。
 国連機関というのは当たり前ながら、違う国の人たちと働く場所である。国籍も文化も違う人たちと毎日働かないといけないから、共通言語はまず、英語であり、その時点で日本人には大層、不利なのであった。英語を母国語とするイギリス、アメリカの人はもとより、イギリスに植民地化されていた国々の人は今でも英語教育を行っているところが多いから、みんな普通に英語を話す。日本語だけで学んできた我々とはいかなる意味でも世界が違う人たちが国連に職を求めるわけだから、普通に日本で育ってきた日本人にはハードルが高すぎるのである。それでも昭和30年代生まれの私たちの世代で特にカッコ付きではあるものの"国際的に"活躍したいなどと思っていた女子たちは、当時のあからさまな職場の男女差別状況に怒ったり、泣いたり、諦めたりしながら、そもそも日本に職がないので、飛び込みで国連職員採用試験など受けたりしていたものだ。でもそうそう受からない。
 そうそう受からないから、日本政府が補助を出しているJPO(Junior Professional Officer)という制度を使って国連で働き始める人が多いことは知っていた。これは各国政府の費用負担を条件に国際機関が若い人材を受け入れる制度で、現実に仕事は普通の職員と変わらない。外務省はこの制度を通じて、35歳以下の日本人に対して原則2年間国際機関で勤務経験を積む機会を提供しているのである。大体30過ぎて受ける人が多く、知っている限りでも、女性が多かった。繰り返すけれど、長く日本女性は自分の国ではまともに働く機会を得ることは大変だから、そうではないところで力を試そうとする人が多かったのである。失うものがないから、過去3~40年くらい、一人で海外に出て行って、そのまま海外で働く、というようなパターンの多くは、この国では女性であったのではないか。男性は、ちゃんと然るべき国内の組織に所属するようになるから、そちらの派遣で海外に住み働くことはあっても、一人でぽん、と海外に行ってしまうようなことはしなかったものである。
 国連機関は空席公募で、ポストが空いた募集が出るので、自分のその時のポストがJPOだろうがなんだろうが、内部のことがわかるようになると、空いたポストも受けやすくなる。人間関係もできる。だから、まさにJPOは国連職員になりたい日本人の第一ステップとなっていて、そこから次々に仕事を得ていくことが多かった。先のべネス氏の話によると、ユニセフは最も多くの日本人が働いている国連組織で、しかもその大半が女性、ということだから、JPOをはじめとするさまざまなルートを経て、ユニセフで職を得ている日本人女性がたくさんいるということになる。それは誇らしいし、そのことを、とても真っ当に、日本の女子大生たちに「私たちの仲間になってくださいね」という感じで語りかけてくださったべネスさんは、実に良い感じだったのだ。

 もともと、健康格差の大きな開発途上国で働く国際保健ワーカーをめざしていたから、若い頃の私にとっても、国連職員は、やってみたい仕事の一つだった。30歳になる直前、ロンドン大学衛生熱帯医学校の"発展途上国における地域保健"という長い名前の修士課程で学んでいた。一年間のコースの終わる頃、ユニセフが人探しに大学にやってきた。ロンドン大学衛生熱帯医学校は、私と同じように国際保健ワーカーとして働いてきた人、これからも働きたい人ばかりが集まっていたわけだから、国連が人探しにくる場所としてはふさわしい。当時のユニセフはポストが決まる前に現地面接、というのをやっていた。ロンドン大学で、担当者に、仕事がしたいです、と伝えた後、ソマリアのユニセフオフィスから、Essential Drug Programmeと呼ばれる、必須医薬品計画のプロジェクトオフィサーとして赴任しないか、と、声がかかり、私はロンドンからソマリアの首都モガディシュに面接に向かった。1988年のことである。国際保健ワーカーになりたくて、勉強にきて、ユニセフに職を得るなら上等である、と考えていた。修士課程の同級生32名は25カ国から集まっており、ソマリアから勉強に来ていたソマリア保健省勤めのドクターもいて、あ、君、ソマリアに行くの? いいじゃない? いいところだよ、一緒に働こう、とか言っていたから安心感もあった。
 真っ青な空に白い建物がくっきりと浮かび上がるモガディシュは美しい街で、ひらひらとムスリムの衣装を風になびかせて歩く女性も男性も端正な雰囲気で、目を奪われた。旧イタリア植民地だったから、ユニセフオフィスには、それこそ、冒頭のべネスさんも顔見知りのイタリア人スタッフもいたのである。私は無事インタビューに合格し、ロンドンの修士課程が終われば、望み通り、国連職員としてモガディシュに赴任することになっていた。
 ・・・ところに、ソマリア内戦が勃発した。今もその影響は続いている。ユニセフを含むすべての国連組織はソマリアから撤退し、私は、初めての"インターナショナル"なポストをあっさりと失った。ソマリアに赴任できなかったことで、結果として国連職員ではなく、研究者として北東ブラジルに向かうことになり、そこで10年を過ごすことになるのだが、当時の私はそんなことは想像もできなかったものだ。あの時、もし、ソマリア内戦が起こらなかったら、私はユニセフの仕事を始めていただろうし、そうしたら、冒頭のべネスさんともどこかで同僚として共に働いていたかもしれない。まことに、個人の人生に、もしも、はないのであるが、旧イタリア植民地ソマリアでのインタビューをありありと思い出した、ユニセフ日本事務所代表、イタリア出身のロベルト・ベネスさん講演会、だったのである。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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