第106回
つかないぱんたー
2023.06.27更新
子育ても仕事も介護も大変です、キー! と、つい言ってしまうものである。つい言ってしまった人に、いやあ本当、大変だとは思うよ、大変よね、でもね、その、子育ても介護も夫も大変で大変で・・・というのって、実は「私ってこんなにモテるんですよ!」って言ってるのと同じよ、だって、それだけの人にあなたという存在が、あなたでなければならない、と言って、強烈に求められているわけだからさ・・・というと、なんだかみんな片付かない顔をしている。そうだろうと思う。みんな、喜んでやってるようではないから。モテるってもっと華やかで、ウキウキするものじゃないか、と思っているだろうから。
でも、モテる、って要するに、人から求められることである。あなたでなければいけない、あなたでなければならない、あなたこそが私の求めている人だ、と言われることである。そりゃあ、自分の愛する異性(同性でもいいけど)に、そう言われることが一番嬉しいことであるに違いないし、そう言われたら、もう、全身とろけるほどにうれしいだろうし、恍惚とするだろうし、幸せの絶頂になるであろう。で、別に、自分の愛している人じゃない人に、そう言われても、まあ、困ることはあるにせよ、悪い気はしないであろう。思いを寄せられる、というのは、その思いに応えられないなんとも言えない思いはあるとはいえ、やはり、うれしいものではあるまいか。生まれてきてから、いろいろなことを乗り越えて、ここまで生きてきた自分の存在を丸ごと肯定して、求めてくれる人がある、というのは、人間として最も悦びに満ちたことの一つだろうと思うからだ。
そういう意味では、母親になる、というのは、誰かに求められる究極体験である。求められる幸せ、を経験したい方には、これほどの求められる経験は、ない。生まれた子どもはとにかく、母親を求める。母親が見えないと泣く。母親が見えるとにっこりする。母親が抱っこすると泣き止む。母親でないとだめ。ある時期は、どうしても、こうなる。母親は、どんな人よりも、自分が求められている、と感じる。そんなふうに求められると、自己肯定感、というのは、どんどん高まっていくもの。悪くない経験のはずなのである。
子どもも介護も仕事も大変〜、というのは、だから、超モテモテ状態である、と公言している、ということである。とはいえ、たくさんの子どもとか、家族とか、自分を頼ってくる人が多いことは、確かに大変なことである。沖縄の八重山では、そうやって子どもや家族にあれこれお金や労力がかかり、本当に大変な時期にがんばっていることを「つかないぱんたー」、というらしい。漢字を当てると「養い繁多」であるらしい。つまりは、自分が養ったり面倒を見なければならない人たちがたくさんいて、もう、自分自身は脇目も振らずに、必死で働いて、あっちに下宿している息子がいれば、お金を送り、こっちに留学したい娘がいれば、アメリカ送金し、老いた親のご飯を作りに、毎日顔を出し、仕事に行けば、部下もいたりして、部下の結婚式にも出なければならない、多くの場合、夫と妻で、もうなんとかやりくりつけながら、日常を回していかねばならないときのこと、それが「つかないぱんたー」である。養う人たちが多くて、がんばって忙しく働いているフェーズのことなので、たとえば、
「おうちに小学生と中学生が三人いてよ、長男は那覇の高校とか行ってて、たいへんさあ」
「あいやー、あんた、つかないぱんたーだねー」
のように使われる。
多くの人の場合、こういうフェーズは30代半ばから50代初めにかけて、怒涛のように訪れる。後で冷静になって、お金の勘定をしてみると、どう考えても支出超過で、収支があってるわけない、と思うのに、「つかないぱんたー」な時期には、なんだかわからないが、つじつまが合っていたのである。さらに、「つかないぱんたー」な時期は、ことほどさように家族のお世話に追われているというのに、同時に、人生文字通り「盛り」の時期でもあるから、結果として結構それなりに遊んでいることもあったりして、女性も男性も、浮気の一つくらいしたりとか、ゴルフに精出したりとか、今時で言えば、「推し」活やっちゃったりとか、なんか、「つかないぱんたー」な割には、結構楽しんでたじゃない、と思うようなことになったりすることも、まま、あり、人生の時間って、物理的に数えるよりも結構あって、いろんなことできちゃうんだな、と後で思ったりするのだ。あくまで、後で、であるが。
大変ね、大変ね、と言い合うより、「つかないぱんたー」がいい言葉だな、と思うのは、なんだか、この物理的に最も命の勢いのある時期というものが、人生にはあり、そしてその時期というのは、必ずや過ぎてしまうものなのだ、という慈しみや哀しみが感じられるからだと思う。
「つかないぱんたー」な時期は、大変だけど、必ず終わるのである。潮が引くように自分の周りから人がいなくなっていく。その時に、「つかないぱんたー」な時期の思い出を、ゆっくりと、味わい深い飴玉のように舌先で転がして、自分一人の時間を楽しめるだろうか。逆に言えば、「つかないぱんたー」な時期は、そのようにして人生の終盤に思い出されるためにあるのであって、そういう時期は、だからこそ、ないより、あったほうがいいのだ、とも言えようか。子育てが大変だ、結婚も大変だ、仕事も大変だ、お金が足りない・・・もちろんそうだとは思うのだが、そんなモテモテの時期、人生100年時代にあって、よくよく見てみれば、本当に短い、一瞬の人生の華、の時期なのである。
とはいえ、その最中にある人は、こんな文章は何の慰めにもならない(かもしれない)。だからこそ、あいや〜、つかないぱんたーだね〜、と、一言に情感が込められることが素敵だ、と思えるのだ。標準語ではあらわしようもない、みごとな人生の機微を表す一言が残っているのである。
沖縄県は沖縄本島近辺、宮古、八重山、と三つの文化も言葉も異なる地域に分けられると言われる。八重山というのは、石垣島を中心とした、行政区でいえば、沖縄県「石垣市」、「竹富町」、「与那国町」のことである。石垣島が石垣市、与那国島が与那国町、その他の西表、竹富、小浜・・・などの八重山の島々が竹富町である。「つかないぱんたー」は、八重山全域で通じるはずだ、と、八重山各島に詳しい方はおっしゃっていた。沖縄県全域で使われている言葉ではないようで、那覇生まれ那覇育ちの友人に聞くと、沖縄本島では全く聞いたことがない表現だといい、宮古島周辺でも、きかないということであった。要するに「つかないぱんたー」は、八重山の表現、なんとも味わい深い八重山言葉、なのである。
「つかないぱんたー」を説明された那覇の友人女性は、「納得するね。沖縄のアンマー(お母さん)達の多くが、それ、ね。お父さん達は何処で何してるんだろ。つかないぱんたー、されてる側かねぇ」と言っていて、オチはそれ、なのであるが、きっとこの言葉を使う八重山のお父さんたちは、よく働いて、つかないぱんたーされているのではなくて、つかないぱんたーしている、に違いない、と思うけど。